| マハトマ・ガンジーの直弟子 B・N・パンディ博士 25年12月13日 |
![]() インド・ニューデリーの国立ガンジー記念館でパンディ博士と対談(1992年2月13日) 生死を超えてきた人は、一目でわかる。パンディ博士にお会いした瞬間、魂と魂が駆け寄った。そのとき、私は「人間」に出会った。 博士は巌であった。信念が全身に凝結していた。 博士は海であった。底しれぬ心の深さが、にじみ出ていた。 その印象は、語るごとに、知るごとに、いよいよ鮮烈になっていった。 この人を大切にせずして、だれを! この人を宣揚せずして、だれを! 博士は故アタイデ博士(ブラジル文学アカデミー総裁)とともに、現代の“人権の丈夫”である。 「私の祖父は独立運動のため、絞首刑になりました……」。高齢をおして来日した博士は、一家の歴史を語られた。それは、そのままインドの「自由への闘争史」であった。 ◇ ◇ ◇ 博士は振り返って、言われた。もしも「二つの出会い」がなかったならば、憎しみのままに暴力革命に走り、祖父と同じように刑死していたにちがいありません、と。 タゴールとの出会いが少年に人間愛を教え、世界を教え、ガンジーを教えた。ガンジーとの出会いが非暴力を教え、民衆を教え、人生を一変させた。 タゴールは文化の園であり、ガンジーは民衆の大地であった。 独立運動が高まっていた。一九一九年の新年(ヒンドゥー暦)、決定的な事件が起きた。パンジャブ地方の市民の集会に英軍が発砲したのだ。千五百人以上の死傷者が出た。もう忍耐の限界を超えた。 民衆の命を虫ケラのごとく思っている政府を許せるものか! 少年の血もたぎった。「ぼくもガンジーとともに戦いたい!」 タゴールの紹介状を手にした十四歳の少年を、五十一歳のガンジーは、じっくり、頭のてっぺんからつま先まで見た。春、四月の午後だった。(一九二一年) 「本当に、ここで生活したいのかい」「はい」「君はバラモン(カーストの最上位)だね」「そうです」 ガンジーはアシュラム(研修道場)の所長に少年を託した。 「立派に育て上げなさい。まず明日からトイレそうじをさせなさい」 カースト制度の厳しいインドでは、ありえないことだった。 「私は後年、しみじみと感謝しました。師は、バラモンに生まれ育った私から、民衆への優越感を取り除いてくれたのです。虐げられた人々と心を一つにすることを学ばせたのです」 大衆から遊離するな。人々のなかへ行け。働け、尽くせ、奉仕せよ。大衆の友となれ、仲間となれ、一員となれ。繰り返し、師は教えた。身をもって教えた。しかし、その教えがいつも守られたわけではなかった。ガンジーは「国会に行くと、皆、大衆から遊離してしまう」と嘆いた。 博士は違った。後にオリッサ州の知事になったときも(八三年―八八年)、「知事は、喜びも悲しみも、笑いも涙もわれわれと分けあってくれた」とたたえられた。 私には、わかる。博士の喜びはただ「師匠の教えどおりに生きる」その誇りのなかにだけあることが。数億の民に慕われたガンジーに「よくやった」と言われれば、それは数億の民にほめられたことになるのだ。それ以上の栄誉がどこにあろう。 パンディ少年は走った。師との出会いの翌年には、十五歳で半年の牢獄生活。以来、投獄は八回、計十年近くにおよんだ。 牢獄とタゴールの学園を往復しながら、少年は青年になった。 奔走のなか、青年が目にしたのは、血が逆流するような、権力の傲りと残虐であった。そして「恐れを捨てた民衆」の崇高さであった。 ペシャワルでは、無差別に四百人以上が虐殺された。しかし「背中に弾丸を受けている者」は一人もいなかった。だれもが前へ、前へと進んだのだ。 ある州では、十人ほどの子どもが英軍のために木に逆さにつるされていた。顔から血を出し、ほとんど意識がなかった。しかし近づくと、虫の息で声をふりしぼった。「……革命万歳」 三二年、ガンジーの逮捕に抗議してストライキが起こった。博士は町の人々とともに、騎兵隊の前に横たわった。警官が警棒で殴りつけた。騎馬が激しく踏みつけた。博士はひざを割られた。二度と、もとに戻らなかった。それでも博士たちは恐れなかった。 ガンジーの力だった。一人の「大いなる魂」の力が、人々を英雄に変えた。「心の大そうじをするのだ」。ガンジーが通ったあとには、人々の胸から、恐怖が消えていた。 師弟のギアを合わせれば、どれほどの勇気が出るか、力が出るか、慈愛が出るか。それは、激動の民衆闘争を舞台にした壮大な実験であり、証明であった。 ◇ ◇ ◇ 「もしも――」。博士が言われた。「あと二十歳、私が若ければ、池田SGI会長の世界不戦への戦いを、もっとお手伝いできるのですが……。私は戦い抜いてきました。だからこそ会長のご苦労がわかるのです」 電流のような感動が体を走った。私は言った。 「そのお心自体が、最大の支援です」 多くの指導者が、立場を利用し、保身を考え、小手先の策に終始している現代にあって、何という誠実であろう。博士の胸には、あの少年の日の誓いが、今なお燃えているのだ。人々のために生きるのだ、と。 博士は言われた。 「じつはガンジーは、釈尊の教えを“社会を変える武器”として実践した人なのです」 「インドの仏教が滅びたのは、僧侶が金をもちすぎて堕落したからです」「今、釈尊、そしてガンジーのメッセージを行動で世界に伝えているのはSGIです」とも。 ガンジーの遺言は「私の精神が世界の光明であり得るなら、私は墓の中からでも語り続けよう!」であった。遺言は実現した。今なおガンジーは語り続けているのだ。 “分身”の博士がおられるゆえに。 命、燃え尽きようとも。 博士は私の目を見つめられた。 「私はガンジーの弟子です。師の教えを叫び続けます。走り続けます。私の“両目が閉じられる”その最期の日まで」 ビシャンバル・ナーツ・パンディ 1906年~98年。インドのマディヤ・プラデーシュ州生まれ。祖父はイギリスのインド支配と戦い、絞首刑に。父も自由の闘士。その父が獄中にいる間に生まれた。アラハバード国民会議派副議長、オリッサ州知事、上院議員、ガンジー記念館副議長などを歴任。デリー大学とネルー大学の評議員、全インド作家協会会長、全インド盲人救援協会会長などの重責を担う。ヒンドゥーとムスリムの融和にも尽力した。 交流の足跡 ガンジーが凶弾に倒れた地に立つ、国立ガンジー記念館での出会いだった。1992年2月13日、ガンジーに直接、薫陶を受けた弟子のパンディ博士が池田先生を出迎えた。 博士は恭しくレイをかける。右手に持っていた杖を左腕にかけ、両手で先生の手を握った。尊敬と親愛が振る舞いにあふれていた。 2日前の11日、恩師・戸田先生の生誕日に池田先生は、「ガンジー記念講演」を行った。席上、パンディ博士は池田先生の業績を聴衆に紹介した。ガンジー記念館での出会いの折も、「SGI会長のメッセージは、ガンジーの精神とまったく同じです。いよいよ協力関係を強めたい」と期待を寄せた。 語らいの中で、博士は「私は、これまでの生涯を、釈尊とガンジーの歩まれた道に続くよう努力を重ねてきました。ガンジー主義のために、イギリスで十年間、投獄されたこともあります」と。先生はたたえた。 「偉大です。信念の人を私は最大に尊敬します。日本でも宣揚させていただきたいと思います」 別れ際、先生は「日本でお会いしましょう!」と呼びかけた。 3カ月後、博士は日本の土を踏んだ。語らいの場となったのは創価国際友好会館(当時)。博士の到着を待つ先生は、周囲に「人間、だれが偉いか。権力と戦った人が偉いのだ。民衆の味方となって、迫害を受けた人が偉いのだ」と強調した。 博士は再会を喜び、「SGI会長の愛情に導かれ、私はここまでまいりました」と。先生は応じた。 「私たちは、ガンジーやタゴールには直接お会いできなかった。しかし、博士のお話を、こうして伺うことで、心では会うことができます」 轟々たる非難を浴びても、博士は師・ガンジーと共に生きることを誉れとした。25歳の時、ガンジーの逮捕に抗議するストライキの指揮を執る。無抵抗で横たわる博士らを騎兵隊が馬で激しく踏みつけた。 「私は、かつて権力に立ち向かい、投獄され、その結果、満足に歩けない体となりました。だからこそ私には、池田会長のご苦労が、よくわかるのです」 滞在中、博士は「タゴール、ガンジー、そして池田SGI会長」とのテーマで講演。「池田先生は“不休の世界平和の戦士”であり、苦しんでいる人類の希望であります」と、先生の激闘をたたえた。 最晩年、博士は著書『インドと人間文化』の執筆に取り組む。来る日も来る日も原稿に向かった。その熱心さが理解できずにいた政府の出版局長に、博士は言った。 「この本を、だれに捧げようと思っているか、君はわかるかね?」 「やはり、それは、マハトマ・ガンジーでしょう」 博士は応じた。 「今回ばかりは、君も間違っているな。しかし、完全に間違っているというわけではない。なぜならこれは、師・ガンジーの偉業を、地球規模で継承されている方に捧げる本だからだ」 戸惑う表情の局長に、博士は告げた。 「私はこの本を、SGI会長である池田大作博士に捧げるつもりなのだ。博士は、釈尊のあらわした生命の光を広めておられる。 とともに、わが師・ガンジーのメッセージを流布しようと、途方もなく偉大な指導力を発揮しておられるからだ」 最後の著書の扉には、こう献辞が記されていた。 「『真の賢者』である、池田大作氏に、この書を捧ぐ」 |