| フランス政界の重鎮 アラン・ポエール元上院議長 25年9月5日 |
雨のあとには太陽が輝く![]() 「対話において最も大切なのは『魂の共鳴』」と語るユッタ・ウンカルト=サイフェルト氏。オーストリアの元文部次官、声楽家の氏は、池田先生と友情を育み、交流を重ねた。先生が氏についてつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉 本部幹部会の席上、サイフェルト氏と握手を交わす池田先生(1991年8月24日、札幌市の北海道池田講堂で) 人生を何倍にも生きている方である。歌手で政府高官。哲学博士で、良き家庭人。ユッタ・ウンカルト=サイフェルト女史のエネルギッシュな人生を思うとき、あの大らかな笑顔とともに、一つの風景が浮かぶ。 ウィーンの墓地。少女が盲目の父の手を引いて、やって来る。父はコンサート歌手。家計のために葬送の音楽も引き受けていた。 少女は幼いが、曲が終わるまで、参列者とともに、おとなしく聴いている。いたわるような目で、父を見守りながら。陽が移るにつれて、木の影が動く。少女は時折、太陽を仰ぎ、空の遠くを見つめた。 「私にとって、これが一番の基本的な人生の学校でした。わずか五歳で御棺の前に立つのですから。自然のうちに、死とは何か、その裏返しの生とは何かを考えるようになっていました」 「今も思います。人は、なぜ生きるのか。食べるために生きるのか。くだらないテレビを見るために、人の悪口を言うために生きているのか。戦争をするために生まれてきたのか。そんなことはないはずです。『死』を直視する人は、かけがえない『人生』の貴重さに気づきます。そして、寸暇を惜しんで自分を磨くはずです」 少女にとって、父は歌の師でもあった。第二次世界大戦中、爆撃で家は壊れたが、音楽の部屋だけは残った。一人娘の女史のゆりかごもそこに置かれた。 父は、たくさんの生徒をもっていた。一日に十時間、十二時間とレッスンをした。音楽の精妙な手が、日夜、ゆりかごを揺らした。 母も父と同じく、目が不自由だった。父母は戦争中、体に障害があるという理由で強制収容所に送られそうになった。ひどい差別だった。ひどい時代だった。四人の親族も戦争の犠牲になった。 それでも両親は、いつも朗らかだった。娘のために、あえてそう生きたのかもしれない。「本当に幸せな子ども時代でした」と女史は言いきる。 ◇ ◇ ◇ 女史はウィーン大学に進み、ドイツ文学、古典文献学をはじめ「興味のあることは全部」ひたむきに学んだ。哲学博士号を得た学位論文は「ショーペンハウエルにおける言語構造」であった。 音楽から遠ざかった娘を、父は少し寂しそうに見ていたという。 その父が死んだ。すると不思議なことが起こった。「もう一度、歌いたい。音楽のない人生は考えられない」という気持ちが、こみ上げてきたのである。 父の死とともに、父の歌まで消えさせたくなかった。 お父さん! 今度は私が歌います――。十年間のブランクを埋めるのは大変だった。一から、やり直した。官庁の仕事も苦しかった。「女は家にいればいいんだ」と何度も言われた。 「無理解との戦いでした。人の五倍は働きました。健康で、どんな苦しみもはね返すエネルギーがなければ負けてしまったと思います」 モットーである「意志あるところ、必ず道あり」のとおり、努力、努力の毎日だった。女史は今、文部次官で国際文化交流局長。 早くから東欧との交流も献身的に進めてこられた。民主化以降、旧ソ連・東欧の芸術家は精神的には楽になったが、経済的には苦しくなった。政府に文化を援助する余裕がないのである。 女史は、才能ある若人にチャンスをあたえたいと東奔西走された。損得ではなく、なすべきことをなすべきときに。それが女史の生き方である。 「年ごとに痛切に思います。人生は余りにも短い。“何か”を残さなければと。私を必要とする人のために尽くしたいのです。今日が、あるいは明日が、人生最後の日になるかもしれない。だから“不滅の何か”を求めているのです」 女史は、社会では人間愛に生きる「文化の母」であり、家庭にあっては最愛の夫君ラルフ・ウンカルト博士の良き妻である。 女史は、日本の女性へのメッセージを語る。「自覚をもち、自分の力を信じることです。人を愛する女性の“愛”は、世界のすべての海より深く強いのですから」 女史の歌には、ハートがある。苦労など、おくびにも出さない女史だが、魂に、涙でしか洗えなかった光がある。 「心より来る。願わくば心に至らんことを」。ベートーヴェンのこの祈りのごとく、音楽は心から心への言づけである。 埼玉での舞台であった(一九九三年)。コンサートが終わり、女史に花束が贈られた。アンコールで女史は、私の詩による「母」の曲を歌われた。日本語のままで。 深き心から心へ――。心が心を揺さぶって、会場は一つになった。最前列の老婦人は泣いていた。女史は歌い終えると舞台から降り、婦人にその花束を手渡した。 公演終了後も、姿を見つけて声をかけておられたという。苦労してきた人ほど、人の心を大切にする。人の思いに敏感になる。 ◇ ◇ ◇ 生きている限り、悩みはつきない。悩みは生の証である。前進しているゆえに障害もある。それらを避けずに乗り越えたとき、生命は晴ればれと、豊かに広がっている。 そして、自己の内なる世界が豊かになったのを感じることこそ、「幸福」ではないだろうか。 悩みこそ、生命の宝を教えてくれる教師なのである。 「『冬は必ず春となる』という仏典のすばらしい言葉を知りました。オーストリアにも『朝がくれば必ず太陽が昇る』『雨のあとには必ず太陽が輝く』という言葉があります。そうした太陽のような生き方を、私は両親から学んだのです」 両親の「目」となって歩いた少女は、今、「人々の中に光を注ぎたいのです」と生き抜く。 あなたがくれた、この命で、この歌で、この明るさで! ――女史は今も、お父さんの懐かしい、大きな手を、しっかり握りしめておられるのかもしれない。 ユッタ・ウンカルト=サイフェルト オーストリア・ウィーン生まれ。ウィーン大学で哲学博士号を取得。同国政府の元文部次官。声楽家(ソプラノ歌手)として活躍してきた。ヨーロッパ青年文化協会の会長を務め、ルーマニアに路上孤児施設を創設し、青少年教育に尽力。池田先生が創立した民音の招へいで5回来日し、日墺の友好を推進してきた。長年の貢献がたたえられ、職業称号「教授」がオーストリアから授与されている。 交流の足跡 1991年8月24日、北海道池田講堂で行われた本部幹部会。会場にサイフェルト氏の歌声が響いた。日本語で歌われた「母」の曲では、伸びやかな独唱が、やがて参加者との大合唱に。母をたたえ、平和を愛する思いが場内を包み、余情豊かに感動を広げた。 スピーチの冒頭、池田先生は、世界一の「音楽の都」ウィーンから、“文化の大使”を迎えた感謝を語った。幹部会の前後で行われた懇談。氏は先生に語った。 「音楽で大切なのは、自分の“心の喜び”です。また、その内面を、どう表現するかです」 その言葉にうなずきつつ、先生は「生命の奥には最高の宮殿があり、美しい妙なる音楽がある。荘厳な庭園があり、自在の英知の風が吹く。それらの宝を引き出すのが、信仰の作業です」と述べ、生命の抑圧は仏法と対極に位置すると述べた。 仏法の三世の生命観についてなど、語らいは弾んだ。 氏は「お話をうかがうにつけ、私には創価学会の発展の秘けつがわかるような気がしてきました。それは、ここには自由がある、平等があるからです」と語った。 この時が3度目の語らい。89年の初会談に至るきっかけは、創価学会の知人の勧めで、氏がトインビー博士と池田先生の対談集をひもといたことだった。氏はこう振り返っている。 「SGI会長の著作を読んだ時、何とこの方は私と同じ考えなのだろうかと、びっくりしました。きっと白髪の老哲学者なんだろうと、勝手に想像していましたが、お会いして、またびっくり(笑い)。若く、生き生きとした行動の人でした。輝く光に照らされたように感動しました。生きる勇気が出てきました。あっという間に2時間がたっていました。夢のような出会いでした。以来、変わらぬ友情が続いています」 91年、氏が、ウンカルト博士とアルプスの村で結婚式を挙げた時、大きな花束が届けられた。池田先生と香峯子夫人からだった。「こんな山奥まで、先生と奥さまが、どうして私たちのために!」と驚き、心から喜んだ。 翌92年6月、オーストリアの最高位の文化勲章である「オーストリア科学・芸術名誉十字章勲一等」が先生へ贈られる。当時、文部次官だった氏は、演台に立つと、「ここにおられる池田会長夫妻は……私たちのお父さん、お母さんのような方です」と。ちゃめっ気たっぷりのあいさつに笑顔が広がった。 氏は、オーストリアSGIの総会に、夫妻で来賓として参加するなど、創価の民衆運動に大きな信頼と期待を寄せた。オーストリア文化センターの開館式では、「荒城の月」「母」、そして「今日も元気で」の3曲を日本語で熱唱して祝福した。民音公演のほか、97年の世界青年平和音楽祭などにも友情出演。その歌声で人々を魅了し続けた。 先生との出会いは、北海道や神奈川など、計9回。対談集も出版された。 氏は自分の時計には「文字盤が二つあります」と語っている。「一つはウィーン時刻。一つは日本時刻。そしてウィーンにいるときは、日本時刻を見ながら、池田会長ならば、どうされるかを、いつも考えるのです」 2017年にはこう語った。 「池田会長から受け取った最高の贈り物は、『根本的な信頼』です。会長は、他者を信じ抜いているからこそ、心は常にオープンで、世界に友情のネットワークを広げられているのだと思います」 |