アメリカを代表するジャーナリスト
ノーマン・カズンズ博士
25年8月8日
 
希望は「人生の秘密兵器」
 “アメリカの良心”とたたえられたノーマン・カズンズ博士。第2次世界大戦の終戦から4年後、広島を訪れた。戦争を憎み、希望を手放さなかった博士は、池田先生と共鳴した。先生が博士についてつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉

池田先生がノーマン・カズンズ博士と再会(1990年2月23日、アメリカ・ロサンゼルスで)

 おそらく人間には、二つのタイプがある。問題が起こった時、解決のために「行動すべきだ。しかし難しい」と、しりごみする人。一方、「難しい。しかし行動すべきだ」と挑戦する人である。
 逃走か闘争か――ノーマン・カズンズ氏は、二十世紀における後者の代表的人物であった。問題を「難しい」と見極める点で氏は現実主義者であり、「しかし行動すべきだ」と譲らない点で理想主義者だった。
 どっちつかずの感傷ほど、氏に無縁なものはなかった。ため息を数えるよりも、自分に可能なことを数えることに、いつも心が向いていた。
 ◇ ◇ ◇ 
 原爆で両親を失った「原爆孤児」四百余人の里親になってくれるよう、編集長を務める「サタデー・レヴュー」誌で読者に呼びかけ、実現してくださったのは一九四九年(昭和二十四年)のことである。子どもたちは、援助のおかげで高等教育が受けられた。氏も里親の一人になった。
 被爆した若い日本人女性の方々をアメリカで治療させるために奔走したのもカズンズ氏であった。どれほどの苦労や障害が続いたか、わからない。しかし氏は、彼女たちを勇気づけたかった。それは人類の一員としての責任と感じた。
 世界市民の氏にとって、原爆は「敵国の上に落とされた」のではなかった。それは「人類の上に落とされた」のだ。
 ◇ ◇ ◇ 
 氏にとって、言論の自由とは、気ままに「言いたいことを書く」無責任ではなかった。「今、言わねばならないことを書く」ことで人を救う戦いであった。
 ナチスによる悪魔の生体実験の「モルモット」にされたポーランドの女性たちがいた。戦後も補償はなく、心身の苦しみは極限に達していた。氏は書き、動き、西ドイツ政府から補償を勝ち取るまで頑張った。
 「世界の人々の良心の火を掻き起こすことが必要なのなら、われわれがその最初の火を点じよう」。ただ苦しむ人々を癒やしたかった。
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 「くじけてはいけません」。希望を必要とする人を、そのままにしておけないのが、カズンズという方であった。なぜだったのか。
 氏の行動の原点には、少年時代の闘病体験があったと思う。
 十歳で肺結核になり療養所に送られた。一九二〇年代。まだ結核が死病とされたころだ。少年は多くの命が奪われていくのを見た。
 そのうちに、一つの不思議に気づいた。病状は同じ程度でも「自分はきっと治る」という希望をもっている楽観主義者のほうが、実際に治る率が高いという事実を発見したのだ。少年は将来を夢みることに決めた。
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 「十年単位の人生プランを考えていました。最初の十年間は音楽に、次の十年は科学・医学に、さらに物書き、ジャーナリストに、最後の十年を哲学に、と。
 しかし『サタデー・レヴュー』誌に長くかかわることになり、三十五年のジャーナリスト生活を送ることになってしまった。そのあと医学に移りました。(UCLA〈カリフォルニア大学ロサンゼルス校〉医学部教授)
 まだ二つの分野が残されていますが、だいたい計画通りに進んでいると思います」
 細分化が進む現代社会にあって、ルネサンスの巨人たちのごとく「全体人間」を志向する人が、ここにいた。博士のスケールの大きさは、一個の人間の可能性を信じきる「希望力の大きさ」に比例していたといえよう。その力を知った人は、もはや自分で自分に枠をはめることは、できなくなるのである。
 一念の力。心身相関の科学的研究へ、博士は大きな波を起こした。常に最先端の人であった。
 博士によると、人間には神経系や免疫系、循環系などのほかに、二つの重要なシステムがある。治癒系と信念系である。
 「治癒系」は病気と闘う時、身体の総力を動員する機能をもつ。これと共同して働くのが、精神の「信念系」である。
 信念系における希望、生への意欲、安心感、愛情、使命感、楽観などの肯定的な精神活動が、治癒系を活性化し、「人体という薬局」を活発に働かせる。私の恩師(戸田城聖第二代会長)も「人体は一大製薬工場だ」と話していた。
 博士は言う。「希望こそ私の秘密兵器」と。五十歳で膠原病に襲われた時も勝った。六十五歳で心筋梗塞に倒れた時も勝った。医師の「回復は不可能」との宣告を聞いた瞬間、体中に「さあ、やるぞ」という猛烈なエネルギーがわき立ってきて、思わず笑みを浮かべたという。
 「人間の脳が、考えや希望や心構えを化学物質に変える力ほど驚嘆に値するものはありません。すべては信念から始まります」
 私は恩師の「科学が進むほど仏法は証明されていく」との言葉の正しさを確認する思いだった。
 あなたが「もう、だめだ」と思ったら、そのとたん、「もう、だめだ」という脳の命令にしたがって心身全体がその方向に動き始める。逆も同じである。
 その意味で、人生には二つの生き方しかない。「やらなかったから、できなかった」ことを証明するか、それとも「やれば、できる」ことを証明するかである。
 脳には莫大な余力がある。だれもが一個の天才なのだ。
 私の人生のテーマも「一人の人間が、平和のために、どこまでできるのかを証明する」ことにある。
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 七十五歳――寿命を延ばしに延ばされた宝の一生であった。
 その一生が、私たちに呼びかける。「あきらめるな」「自分は無力だと思うな」「『それは夢物語だ』と決めつけてはいけない」「与えられた生命を使いきるのだ」。生命開花の黄金の世紀へ――博士は二十世紀を駆け抜けた二十一世紀人だったのかもしれない。

ノーマン・カズンズ 1915年、アメリカ生まれ。「サタデー・レビュー」誌の編集長を30年間務め、全米を代表する評論誌に育て上げた。この間、ケネディ大統領の特使としてソ連のフルシチョフ首相と会見し、両国の対話を推進。78年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の医科大学院に招かれ、教授等を歴任。平和運動、核兵器廃絶運動等でも活躍した。原爆孤児の救済などにも尽力し、広島市の特別名誉市民に。90年、死去。
カズンズ博士との初会談(1987年2月4日、ロサンゼルスで)
交流の足跡
 広島市の平和記念公園の一角に立つ「ノーマン・カズンズ氏記念碑」。そこに、カズンズ博士の言葉が刻まれている。
 「世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め 責任ある行動をとることこそ 人類に課せられた責務である」
 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。当時30歳の博士は、8月18日に、「現代人は時代遅れだ」との一文を書いた。(『ある編集者のオデッセイ』松田銑訳、早川書房)
 ――核兵器の出現は、国家が行う戦争は国民を守るどころか、自国を含む全人類を破滅させるものとした。時代が決定的に変わったのだから、国民としての人間から世界人としての人間へと、人間も変わらなければならない――と。
 池田先生と初めての出会いは、87年2月4日。創価大学ロサンゼルス分校(当時)が開所した翌日だった。先生が歴史家のトインビー博士、ローマクラブの創設者ペッチェイ博士と発刊した対談集に感銘を受けていたカズンズ博士は語った。
 「対談集で論じ合われているテーマは、今日の世界で、最も重要な課題です。人々を啓発する内容です」
 人物観、生死観、宇宙観など、語らいは縦横に広がった。博士は「傑出した知性と人格とロマンの方と、ともに語り合うことができ、本当にうれしい」と語った。
 先生は後に「私は鮮やかに思い出す」と記し、こうつづった。
 「現れるだけで、その場がパッと明るくなる魅力があった。人を励ます何かが発散していた。氏は、その英知と誠実無比の人柄で、人々の善意と善意を結びつけた」
 3週間後にもロサンゼルスで対談が行われた。最後の語らいは、90年2月23日。仏法が説く「色心不二」の生命観などについて、意見を交換した。先生は語った。
 「仏教の原点は『生老病死』という人生の四つの“根本苦”への挑戦であり、克服です」
 「大乗仏教の真髄においては、これらの四苦を“乗り越える”のみならず、そこから一歩進んで、かえって人間という“一身の塔”“生命の宝塔”を荘厳する宝に変わると説く。いわば『マイナスをゼロにする』のではなく、『マイナスをプラスに変える』不可思議な力が、生命には内在しているとするのです」
 「国際情勢」「家庭」「教育」も対話のテーマに。先生は「精神の空白時代」にあって、「青年たちに訴えておきたいこと」を尋ねた。博士は答えた。
 「“いのち”という、かけがえのない実在――それを、どこまでも肯定し、大切にしていく。他の人の人生を、感情を、絶対に否定しない。無上のものとして認めあっていく――人間として最も尊い、この信頼の心だけは放棄してはならぬ。青年たちに私が望むのは、その一点です」
 二人の語らいは、対談集『世界市民の対話』に収められた。博士から、同書の「序文」が先生に届いたのは逝去の11日前。博士の遺言ともいうべき一書となった。
 博士は語っている。
 「地球上の人間がより高度な状態に“向上”し、生命の永遠性を自覚する。その実現の方途をSGI会長は具体的に知っておられる。そして世界の多数の人々と対話を交わし、教えておられます」
 「将来の新しき平和の時代を望む時、SGI会長の存在は、まことに心強い。私は平和を願う一人として、その人類のための行動を高く評価し、感謝しています」