フィリピン大学 アブエバ元総長
25年7月9日
 
平和の大河を断じてつくるのだ

 戦争の悲惨を身に刻み、平和のために生きたフィリピン大学元総長のホセ・V・アブエバ博士。池田先生との交流を「変わらぬ名誉であり、啓発を与えられるものです」と述べた。先生が博士についてつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉

フィリピン大学のアブエバ元総長と池田先生が創価大学で再会(1999年11月3日)

 五十年前、一人の少年が父母を捜して櫓を漕いでいた。少年は十六歳。父母は、フィリピンを占領した日本軍に捕らわれていた。

 父――テオドロ・アブエバ氏は、侵略者に協力することを拒否し、レジスタンス政府の委員となった。後のガルシア大統領とともに働いた。

 母――ネナ・ヴェロソ・アブエバ女史は、レジスタンスの州婦人部のリーダーであった。三人の娘と四人の息子がいた。ホセ・アブエバ少年は二男。

 日本軍は長い間、父母を追いかけていた。かわりに父の母ローラ・カディア女史が、つかまった。アブエバ少年も弟もつかまった。

 兵隊は祖母と弟を連行し、アブエバ少年に伝えた。――父親に言ってこい。母と息子を返してほしければ日本軍に降伏せよ、と。

 数日後、弟が、よろめきながら帰ってきた。ほとんど、だれだかわからなかった。顔がふくれあがり、前歯は欠け折れ、体は傷だらけだった。弟の姿は、父への日本軍のメッセージだった。「もし抵抗を続けるならば、お前の母親も拷問し、殺すぞ」――。

 しかし、弟は、祖母から父への、ひそかなメッセージも伝えた。「私の身に何が起ころうとも、降伏するな。私は年をとっている。お前には妻もあり、七人の子どももいる」

 ゲリラ戦士とともに山に入っていた父母と家族が、一年後、とうとう逮捕された。離れていたアブエバ少年と弟を除いて。

 日本軍は父母を引き離し、拷問した。苦しみ叫ぶ声が、子どもたちのところまで聞こえてきた。

 彼らは両親だけを、いずこかへ連れ去った。釈放された幼い子どもたちの面倒は弟が見て、アブエバ少年は、父母を捜しに、いとことともに帆船で出発した。悲しい旅だった。

 父母と家族が捕らわれていた島に上陸した。アメリカ軍のフィリピン奪還の情報が広まっていた。日本の兵士は、だれもいなかった。

 父母が生きている“奇跡”を祈りながら、手がかりを求めて歩いた。

 「たくさんの人たちが日本兵に殺されて、崖から投げ捨てられた場所がある。そこへ行ってみたら」

 行くと、何人かが近くの丘の中腹で殺されたという。丘を登った。空には雲ひとつない。太陽が照りつけてくる。空き地に入った。向こうに茂みが見えた。

 ふと、何かが鼻につんときた。周囲を見回した。汚れた白いシャツが目に入った。ブルーの縦縞――父のものだと、すぐにわかった。茶色のドレスの切れ端。母のものだった。

 見覚えのあるロザリオやベルトの一部もあった。それでも信じられなかった。人骨が散らばっていた。集めた。頭蓋骨が一つ。また一つ。歯の特徴から両親のものとわかった。

 戦慄の事実。しかし少年は泣かなかった。涙も出ないほど、うつろで、押しつぶされていた。目を上げると、光る海がミンダナオの方向に広がっていた。やっと心が動き始めた。

 父母は自由への愛のために戦い、拷問され、虐殺された。父母は殉教者だ、この丘は殉教の丘だ――。

 だれかが「遺体は一週間か、それ以上、そこに放置されていたようだ」と言った。風雨にさらされ、鳥や動物にねらわれて――。

 遺骨と遺品を集めて、少年はまた船を漕いだ。祖国の海岸は美しかった。不思議なくらいに。

 一九四四年秋。すでにマッカーサー将軍が、レイテ島に上陸していた。上陸は十月二十日。両親の虐殺は十月二十三日であった。ほんの一足、“解放”は遅かったのだ。

 ――これはフィリピン大学のアブエバ前総長が私に伝えてくださった回想の一部である。

 ◇ ◇ ◇ 

 総長として特に力を入れたのが、国際交流のための「平和の家」であった。それは、少年の日の誓いの結晶でもあったのかもしれない。

 国家と国家の関係よりも、民衆と民衆の関係を、より深く、より広く。青年同士の交流、文化と文化の交流によって、「平和」の大河をつくるのだ。断じてつくるのだ、と。

 博士は、「平和の家」の開館式に私を招いてくださった(九三年五月)。そして光栄にも同館を「イケダ・ホール」と命名してくださったのである。「日本とフィリピンの友情」の象徴として――。

 あいさつで、私は語った。

 日本の軍国主義者と戦った恩師(戸田城聖第二代会長)の心は「アジアの民衆から心より信頼された時、はじめて日本は平和の国といえる」であったことを。そして、日本人の一人として、一生涯、徹底して、アジアの人々に尽くしていく決心を。心が心に通わずして、何ができよう。

 フィリピン独立の英雄ホセ・リサールは、独立の成功を見ずに処刑された。「私は、わが故国の上に輝き出づる暁を見ずに、死ぬ。暁を見ることの出来る諸君よ、君たちはそれを歓び迎えよ。そして、夜の間に斃れた人びとのことを、決して忘れるな!」との思いのままに――。

 「平和の暁」を見ることなく、「夜」に死なれた総長のご両親。

 壇上から私は、総長に贈った詩を引き、呼びかけた。

 「彼(リサール)の思いはまた 時移り/あなたの父上 母上が/あなたに託された/生命の叫びではなかったか」

 総長がメガネを取られるのが見えた。こらえ切れないように涙をぬぐわれるお姿に、私は半世紀のご一家の歴史を、かいま見た。

 父母を捜しに――あの旅を総長は今なお続けておられたのだ。

 父母を捜しに――それは平和を捜す旅だったのだ。

 総長が立たれた。

 「貪欲による傷つけあいに、人類は終止符を打とうではありませんか。信条、階級、民族による殺しあいに終止符を打とうではありませんか。『貧しき者が弱い』ゆえの争いに、『強いものが不公正である』ゆえの争いに、終止符を打とうではありませんか!」

 「平和の家」に、博士の叫びが響きわたった。「あの丘」に届けとばかりに。

創価大学の入学式後に、アブエバ総長一家と交流のひとときを(1992年4月2日)

ホセ・V・アブエバ 1928年生まれ。国立フィリピン大学を卒業後、米・ミシガン大学で政治学等を修める。帰国し、母校の教授等を務めた後、国連大学に勤務。その間、日本に7年半滞在した。88年、フィリピン大学の第15代総長に就任。フィリピン大学を退官後、2001年に「カラヤアン大学」を創立し、学長に。「ノンキリング(不殺生)・フィリピン運動」を主導するなど、平和と教育の発展に尽力した。2021年死去。

交流の足跡

 1988年、フィリピン大学と創価大学の間に学術交流協定が結ばれた。調印式で、アブエバ総長は「創立者・池田先生の平和行動に感銘を受け、かねてから創大との交流の実現を念願しておりました。創立者にぜひご来学いただきたい」と喜びを語った。

 2年後の春、総長は創価大学を訪れ、講演。次代を担う学生に、自身の戦争体験を語り、平和への思いを語った。

 「私の両親は日本兵に殺されました。しかし、私を含め7人の子どもは、皆、日本を恨んではおりません。私は日本人が好きです。そしてフィリピン人も日本人も、平和を愛する気持ちは同じだと信じます」

 翌日、池田先生と初会見。先生は総長の寛大な言葉への感銘を述べ、フィリピン大学のキャンパスにある「献身の像」について言及した。青年が空を見上げ、腕を広げて立っている姿は、社会のために生きるという青春の魂が凝結しているとたたえ、語った。

 「この像の足場になっている、たくさんの石は、日本軍とフィリピンの義勇兵が激しく戦った場所から拾ってきたと聞きました。粛然たる思いを禁じ得ません。過去の悲惨な歴史を転換し、次の世代の青年たちのために、たしかなる『友情』の道を作り、固めていかねばならない。大学による教育交流は、その一つの礎となるものです」

 総長は、平和へのリーダーシップについて、「歴史上、“戦争のリーダー”は、たくさんいました。しかし、“平和のリーダー”は少ない。私はそういう人を育てたいのです」と。そして、先生のフィリピン訪問を強く望み、「わが国の平和にとっても、大きな波動となるものと確信します」と述べた。

 翌91年、先生はフィリピン大学を訪問。経営学部の卒業式に出席し、「平和とビジネス」をテーマに講演を行った。

 先生と総長の会見は計7回。二人は同じ1928年生まれで、青年期に第2次世界大戦を経験している。平和への信念が共鳴する交流は、総長の自宅でも。その席で、先生は改めて、戦時中の日本軍の非道について「どんなに償っても償いきれないと繰り返したい」と。総長は「私は今、こうして池田先生とお会いし、友情を結べました。この姿自体が両国の和解の象徴と思います」と返した。

 総長の自宅にはこれまで、創大からの留学生などが招待されてきた。総長は温かくもてなした。先生がその厚意に、創立者として改めて感謝を伝える場面もあった。

 97年の語らいの折、総長は、先生が『青春対話』の中で「民衆中心の歴史観」を語っていることに言及。フィリピン大学でも、庶民から見た「歴史」を記録に残す計画があることを紹介し、「フィリピンの青年たちに、確かな歴史観をもたせたい」と望んだ。

 先生は応じた。

 「正しい事実の歴史を残し、教えていくことが、不幸を繰り返さない土台となり、平和への根本の道を示すことになる。それが、日本人のためにもなると信じます」

 二人の往復書簡等による対談内容は後に、対談集『マリンロードの曙――共生の世紀を見つめて』として結実。2016年には、英語版の出版発表会がフィリピン大学の「平和の家(イケダ・ホール)」で行われた。

 総長は力を込めた。

 「文化的背景や民族の違いを超えて共生する『世界市民意識』の育成こそ、『ノンキリング(不殺生)社会』を実現する上で不可欠であり、池田SGI会長と私が未来の世代に伝えていきたいことです」