| ローマクラブ創設者 アウレリオ・ペッチェイ博士 25年6月15日 |
| 獄中で知った 人間の極限の崇高さ 世界的なシンクタンクである「ローマクラブ」の創設者、アウレリオ・ペッチェイ博士。池田先生は50年前の1975年5月、博士と初めて語り合い、以来、交友を深めていく。先生が博士についてつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『地球市民の讃歌――世界の指導者と語るⅡ』潮出版社から〉 ![]() 5度目の語らいとなった1983年6月21日、ペッチェイ博士は旅先のアメリカからパリまで駆け付けた。池田先生ご夫妻が笑顔で出迎えた ペッチェイ博士は、トインビー博士が私に「今後、対話してほしい」と推薦された識者の一人だった。ペッチェイ博士も、私とトインビー博士との対談を知っておられた。 小説『人間革命』も持参してこられ、博士のほうから、創価学会と「ファシズム」との戦いに触れられた。初代・牧口会長の獄死も、二代・戸田会長の獄中闘争も、よくご存じであった。 「ペッチェイ博士こそ、獄中の闘士だったではありませんか」 目の前の博士の風格は、厚い胸板の奥に、鋼鉄の信念を感じさせる。 私は、博士の精神の原点を聞いてみたかった。 だれも立ち上がらない今、「それなら私が」と、一人立った戦士の胸の奥にあるものを。 ファシズムへの抵抗運動に参加した時、博士は実業家として、フランス、ロシア、中国などで経験を積んでいた。祖国に帰って、抵抗のための地下活動に入った。 逮捕されたのは一九四四年の二月である。すでにムッソリーニ政権は崩壊状態で、同盟国のナチス・ドイツがイタリアに支配を広げていた。 博士は三十五歳。 「暗い牢の中で、初めて自分という存在を知りました。絶え間ない不安に襲われながら、私は、将来のことを考え抜きました。『未来に、再び、こんなことを起こしてはならない』。ただただ、それだけを考えていました」 博士は、逮捕された時、運動の最高機密である「軍事計画書」や「暗号表」を持っていた。これが、まずかった。 「ペッチェイの口を割らせさえすれば、やつらの計画をつぶせる」――情報を得るために、容赦のない拷問が実行された。「ひどい暴力でした。彼らの憎しみと、狂信が、残酷さをいっそうひどくさせていたのです……」 続く拷問。口を割らない博士。 ある朝、一人の婦人が、失踪した息子を捜しに、牢にやってきた。庭を引き回されている人物を見て、彼女は息をのんだ。「……もしや、ペッチェイさんでは」 博士の顔は、もはや見分けがつかないほどになっていた。しかし、彼女は博士のオーバーコートを覚えていた。 「早く、仲間に知らせなければ!」 同志は即刻、宣言を出した。「拷問をやめなければ、ファシスト軍の幹部を死刑にする」 ファシスト軍は拷問をやめた。「軍の幹部のだれかが殺されれば、ペッチェイを即座に銃殺する」との条件つきであった。 危うい均衡が続いた。 獄中では、博士を弁護する友人にも、手荒い拷問が繰り返されていた。博士に不利な証言を引き出そうというのだ。しかし、その友人も、最後まで博士を守り抜いた。 「牢獄では、頼れるものは自分の信念と人間性だけです。ふだん、皆に号令をかけているような人間ほど、もろかった。むしろ、黙々として、静かなくらいの男のほうが、極限状態では強かったことを覚えています。私は、変節漢が一番きらいです」 囚われの身は十一カ月も続いた。戦局は、いよいよファシズム側の敗色が濃くなっていく。それとともに、博士の身に、復讐の危険が迫ってきた。「いざという時は、ペッチェイを街頭で縛り首にしてしまえ!」 しかし、間一髪、救われた。敗戦後の報復を恐れた軍の幹部の一人が、ひそかに博士を釈放したのである。一九四五年一月だった。凍えるように寒い朝だった。 「まったく、ひどい目にあいましたが、痛手を受けた分だけ、私の信念は鍛えられました。絶対に裏切らない友情も結べました。だから、逆説的には、『ファシストからも教えられた』というわけです」 博士は微笑して、肩をすぼめ、「そういう意味で、今では彼らを許す気持ちになっています」と付け加えた。 「あの十一カ月は、私にとって、本当に幸運でした」。そう言い切る博士の勝利に、私は感動した。 獄中で博士は、人間の極限の「悪」を見た。 同時に、人間の極限の「崇高さ」も知った。 「わかった! 人間の中には、大善を求める偉大な力が、あるんだ。ふだんは眠ったままだが、この胸の中に厳然とある。それが――わかったぞ!」 ◆ ◆ ◆ 一九八四年の三月十四日、先駆者は七十五歳で永眠された。働き続けた一生であった。逝去の十二時間前まで、病床で口述を続けた、執念の博士であった。 この未完の遺稿は『今世紀の終わりへ向けての備忘録』と題されて、後に発表されたが、博士がこのタイプ版を見ることはなかった。 その一節。 「たしかに、(技術の)進歩を止めることはできません。したがって、人類の唯一の頼みは『人類の質を高める』ことです。そうすることによって、自らが解き放った『技術という虎』を乗りこなす方法を学び、機械ではなく人間が明日の主役になれるでしょう」 人類の質を高める――これを博士は、はじめ「人間性革命(ヒューマニスティック・レボリューション)」と呼び、その後、「人間革命(ヒューマン・レボリューション)」に変えられた。 逝去の一カ月前の遺稿には、こうあった。 「われわれに必要なのは、生命についての新しい哲学である」 ![]() ペッチェイ博士との初めての語らい。池田先生が提案し、青空の下で(1975年5月16日、パリで) アウレリオ・ペッチェイ 1908年、イタリア生まれ。第2次世界大戦中、ファシズムへの抵抗運動に身を投じて逮捕され、獄中生活を送る。世界的な自動車メーカー・フィアット社で活躍し、各社の役員を歴任。68年、地球規模の問題群を研究し、危機回避への提言を発する「ローマクラブ」を設立し、初代会長に。報告書『成長の限界』は、世界に衝撃を与え、人口・食糧問題、環境問題に取り組む契機となった。1984年死去。 交流の足跡 「若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください」――1973年5月19日、対談を終えたトインビー博士は、池田先生に1枚のメモを託した。そこに記されていたのは、世界最高峰の学識者たちの名前。ペッチェイ博士もその一人だった。 68年、博士はローマクラブを創設。4年後に発表した『成長の限界』は世界に衝撃を与えた。 75年2月、博士から先生に対談を希望する書簡が届く。先生はローマ教皇と会見する予定があったことから、イタリアのローマで博士と対談することが決まった。 だが、欧州へ出発する直前になって、ローマ教皇との会見に対して、宗門が横やりを入れた。歴史的な宗教間対話は見送られ、イタリア行きは中止となる。すると、博士は「私が行きましょう」と、先生がいるパリを訪れた。 同年5月16日、二人は初めて出会いを結ぶ。博士は、自身が提唱してきた「人間性の革命」も、究極的には「人間革命」に帰着すると述べ、両者の関係について意見を求めた。先生は答えた。 「『人間性革命』の大前提になるのが、人間性を形成する生命の変革であると思います。その生命の根源的な変革を、私たちは『人間革命』と呼んでおります」 博士は笑みを浮かべ、「私も、きょうからは『人間革命』でいきます」と語り、さらに尋ねた。 「人類の人間革命を成し遂げていくには、どれぐらいの時間が必要でしょうか」 博士は地球的問題群の解決には、人間自身の変革を急がねばならない、と感じていた。 先生は語った。「人間を変革する運動は漸進的です。かなりの時を要します。しかし、行動せずしては、種を蒔かずしては、事態は開けません」 パリ、東京、フィレンツェ――5回の出会いは、いずれも博士が先生のもとを訪れた。博士は先生に語った。 「外の資源は有限ですが、人間の内なる富は無限です。未開発です。これを引き出していくのが人間革命です。われわれは人間革命を推進するために、ありとあらゆる手を尽くさなければなりません」 「池田会長、私たちの意見は一致しました。やりましょう。私たちは握手しましょう。21世紀のために! 私たちの子どもや孫の世代のために! 手遅れにならないうちに!」 最後の会見は83年の6月。その日、博士はアメリカでの会議を終えて、パリの空港から直接、先生が滞在するホテルへ。「これからも、マスコミなどによる非難・中傷があるかもしれません。しかし、どういうことがあろうと、より深い友情でいきましょう!」 これが先生への最後の言葉となった。二人の語らいは、対談集『21世紀への警鐘』(邦題)として結実した。 先生は、博士の子息たちとも交流した。亡き博士の思い出を通して、先生は述べている。 「一人の偉大なる人物が去ってしまうと、それまでの理念や精神を、いつしか忘れてしまい、自分のエゴの心に引きずられていく。これが人間の弱さであり、醜さです。ペッチェイ博士が目指した理念、目的を、われわれが厳然と継承していくことが、今、一番大事なことだと思います」 先生はそれを実行した。博士の後を継ぎ、ローマクラブの会長となったホフライトネル博士、共同会長を務めたヴァイツゼッカー博士とも友情を結び、それぞれ対談集を発刊している。 |