歴史学者
アーノルド・J・トインビー博士
25年5月9日
 
人類の未来を開くのは
高等宗教のルネサンス

 20世紀を代表するイギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー博士と池田先生の対談集『21世紀への対話』の発刊から、今年で50周年。同書は、これまで世界31言語で出版された。池田先生が博士との出会いをつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉

対談の最終日に、池田先生がトインビー博士と握手(1973年5月19日、ロンドン市内の博士の自宅で、齋藤康一氏撮影)

 一流の人物は、どこが違うのだろうか。その根本は、自分の死後を考え、そこから発想し行動していることではないかと私は思う。その人には展望がある。目先のことにとらわれない。
 その意味でも、歴史家アーノルド・トインビー博士は傑出しておられた。博士とは、二年にわたり約十日間、対談を行った。合わせて四十時間を超えた。
 冒頭、私があいさつすると、博士は、あの温顔に真剣な表情をたたえて言われた。
 「ミスター池田、私も長い間、この機会を待っていました。私もまた、来るべき世紀に照準を当てて、ものごとを考えております。未来において、私はもちろんのこと、あなたさえもこの世からいなくなり、さらに長い時を経たような時代に、この世界はいったい、どうなっているだろうか――このことに私は大きな関心を寄せているのです」
 そして決然と続けられた。「やりましょう! 二十一世紀の人類のために、語り継ぎましょう」
 当時、博士は八十三歳。その三年前の一九六九年(昭和四十四年)、博士から手紙が届いた。「……私個人として、あなたをロンドンにご招待し、二人で人類の直面する基本的な諸問題について対談をしたいと希望します。時期的にはいつでも結構ですが、あえて選ばれるとしたら、こちらでは麗らかな春を迎える五月が、もっともよいと思います」(九月二十三日)
 来日しようとも考えられたが、少し前の心臓発作のために、長途の旅行は不可能だった。こうして私は五月の緑したたるロンドンに、うかがうことになった。
 オークウッド・コートにある博士の自宅。深みのある赤レンガのフラット式アパート。毎日、博士ご夫妻の住む五階までエレベーターで昇った。ご夫妻がいつも笑顔で迎え入れてくださった、あの質素な応接間が懐かしい。
 「二十世紀最大の歴史家」は、独創的な学者にありがちな傲慢の影もなかった。懐の深い、謙虚そのものの人柄であった。
 「イエス、イエス……」と、話をまず受け入れられる独特のあいづち。服装も質素で「服は今までの古服でいいのです。むしろ本をもっと買いたいという心境です」と淡々と語られていた。
 対談のテーマは幅広く、生命論、地球文明の未来、環境問題への挑戦、戦争と国際問題、健康と福祉、知的生物としての人間、社会的動物としての人間、世界統合化の課題、女性論、哲学と宗教、と尽きることがなかった。
 博士はつねに現象の根源に迫られた。現在を語るのに、背景にある歴史の因果を透視し、その歴史を動かす人間を洞察し、さらに人間と宇宙の背後の“究極の実在”を求めていかれた。ライフワーク「歴史の研究」も、歴史を通しての「人間の研究」であり、「人間の研究」は必然的に人間と宇宙との関係性、すなわち「宗教の研究」へと向かわれたようだ。博士には知性の延長としての宗教的信念があった。
 自然が真空を嫌うように、精神も無宗教ではいられない。たとえば近代社会は一見、非宗教的に見えるが、かつての宗教が占めていた場所に、現世的な三大宗教「科学信仰」「ナショナリズム(集団力への崇拝)」「共産主義」が入り込んでいるのだと指摘された。
 博士の偉大な学問の根底には、つねに博士の「人間」があった。虐げられた人の味方であり、「苦悩を通して智はきたる」(アイスキュロス)を、個人の人生でも人類史でも真実とされた。高等宗教という知恵も、文明の解体期に、「もっとも虐げられた人々」からこそ生まれたことを強調されたのである。
  
 応接間の隣の書斎には、マントルピースの上に、小さな顔写真立てが二十枚ほど立てかけられていた。第一次世界大戦で戦死したオックスフォード大学時代の友人たちである。博士にとって消えることのない「人生の痛切な悲しみ」であった。「余生は、さずかりもの」という思いが深くあられたようだ。生き残った者のつとめとして、その後の人生を「悲劇を繰り返さぬために」ささげられた。
 そして探求の果てに、人類を破滅から救うのは、人間自身の変革すなわち「自己中心性の克服」と「愛の実践」であり、そのためには「高等宗教のルネサンス」以外にないと結論されたのである。

  ◆ ◆ ◆
 「私のモットーは、ラテン語で『ラボレムス』すなわち『さあ、仕事を続けよう』です。西暦二一一年、南国生まれのローマ皇帝セヴェルスは、厳寒のイングランド北部へ遠征中、病に倒れました。しかし死期を悟りながらも彼は、なお仕事を続けようとしました。まさに死なんとするその日も、人々に指針をあたえるという指導者の責任を果たそうとしたのです。その日、彼が自軍にあたえた言葉がこれです」
 死をも超えて前へ、そして前へ――短い有限の人生を“永遠の実在”に結びつけようという、博士の生の鼓動が、そこにあった。
 私は思う。社会の指導者が、少しでもよい、いっときでもよい、自分の死後に真剣に思いをめぐらし、そこから「今、何をなすべきか」を考えたならば、その日から、世界はどんなにかすばらしく変わるであろうか。
 「さあ、仕事を続けよう!」。私の耳には今も、あの日の博士の声が聞こえる。

書斎の机に向かうトインビー博士(1973年5月19日、齋藤康一氏撮影)

アーノルド・J・トインビー 1889年、イギリス生まれ。オックスフォード大学を卒業後、ロンドン大学教授、王立国際問題研究所研究部長などを歴任。西欧中心ではない独自の歴史観で文明の興亡の法則を体系化。「20世紀最大の歴史家」と称される。30年かけて書き上げた『歴史の研究』は不朽の名著として名高い。ほかに『試練に立つ文明』『人類と母なる大地』など著書多数。1975年死去。
交流の足跡
 1967年(昭和42年)、トインビー博士は3度目の来日の折、経営者の松下幸之助氏に尋ねた。
 「これからの日本にとって一番大切な人は誰か」
 氏が挙げたのが、池田先生の名前だった。国際政治学者の若泉敬氏も、博士に先生と会うことを勧めた。比較政治学者の河合秀和氏とは、学会について意見交換をしている。
 帰国後、博士は学会に関する記事や出版物を求め、理解を深めた。2年後、先生に書簡を送り、その時を迎える。
 72年(同47年)5月5日。「遠いところ、ようこそいらっしゃいました!」。博士はロンドンの自宅に、先生を笑顔で迎えた。後ろで、ベロニカ夫人もほほ笑んでいる。世界中で読み継がれる対談の第一歩である。
 語らいは、博士の自宅のほかにも、花咲くホーランド公園、先生が招待した日本料理店、博士に招かれた会員制のクラブなどで行われ、年をまたぎ、延べ40時間にわたった。
 対談で博士は語った。
 「私は新しい種類の宗教が必要だと感ずるのです」「新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならないでしょう」
 その「力」を秘めた宗教として、東洋の生きた仏教に期待していた。
 先生は、つづっている。
 「補聴器をつけ、心臓に病をかかえながら、毎日、朝から夕方まで、渾身の気迫で長時間の対談を続けられた。何としても遺言を残しておくのだ、との強い強い一念に私は打たれた」
 対談の中で、高等宗教の在り方をどう考えるかについて、先生は述べている。
 「私の考えでは、現代人がもつべき宗教は(人格神ではなく)“法”を根本とする宗教であると思います。このような宗教こそ、合理的思考の試練に耐えるだけでなく、それを超え、リードしうる宗教ではないでしょうか」
 博士は応じた。
 「仏教に説かれる普遍的な生命の法体系の方が“究極の精神的実在”をより誤りなく示し出しているように思います」
 「生命の尊厳」こそ至高の人間的価値という点でも、両者の考えは同じだった。実際、驚くほど多くの意見の一致がみられ、博士の主張は「ほとんどが、仏法の法理を証明するかのような言葉であった」と、先生もつづっている。
 数少ない意見の相違した点――それは自殺の是非である。
 学友の戦死、子息の自殺という出来事を博士は経験している。その中で「死」への思索を深めた。年齢を重ね、自分自身の命が残り少ないことを感じていた博士は、自らの意志で死を選ぶことは、人間の特権であると主張した。
 先生は、博士の心情をくんだ上で、「他人の生命と同じく自分自身の生命に対しても、どこまでも畏敬の念を捨ててはならない」と訴えた。命尽きるまで使命を果たし抜くのが人間ではないか、と。
 73年(同48年)5月19日。最後の対談で、博士は語った。
 「人類の未来を開くために戦ってください。あなたの平和への献身を、やがて、世界は最大に評価するでしょう」
 「必ず将来、私以上に世界中から名誉称号を贈られるでしょう」
 博士の予見は正しかった。世界の大学・学術機関から先生に贈られた名誉学術称号は「409」である。

語らいは、ロンドンの街頭でも(1973年5月19日、齋藤康一氏撮影)