| 第23回 何よりも美しく強い絆 26年3月29日 |
| 時代は変わっても 信心は変わってはならない ![]() 恩師が愛した桜に抱かれた故郷・大田の地に、ピアノの音色が優しく響く。 1993年4月2日、池田先生が大田池田文化会館へ。「創価学生写真展」などを見学した後、美しく咲き誇る夜桜を見つめた 師と見つめた春の情景 光に照らされた桜が、夜の闇に淡く輝いていた。春の盛りの大田池田文化会館。花々に抱かれた幻想的な光景を前に、池田大作先生は口にした。「すごいな」―― 1993年4月2日、池田先生は故郷・大田に足を運んだ。ピアノの前に座ると、「さくらさくら」「春が来た」を演奏。“大楠公”の力強い音律も館内に響いた。この日は、戸田城聖先生の祥月命日であり、完結した小説『人間革命』第12巻が発刊された日でもあった。 翌3日、先生は同会館で各部の代表と懇談。「大田の文化会館から見える多摩川堤の桜並木が、今年も見事に花開いた」と喜んだ。 また、「『桜』の季節になると、恩師のさまざまな思い出が鮮やかによみがえる」と述べ、「恩師の偉大さを、どこまでも世界に示しきっていく。未来へ伝え遺していく。これ以外に、私の人生はない」と断言した。 4日も同会館で励ましを送った。同志と共に館内から桜を見つめ、改めて、こう口にした。 「いい桜だね」「夢みたいだ」―― あの時の春の情景は、桶川康子さんの記憶にも残っている。懇談の場で、桶川さんは、香峯子夫人の隣にいて、先生が友を激励する様子を見つめた。 戦時中、韓国で生まれた桶川さん。終戦後、引き揚げ船に向かう雑踏の中で、「離れたら二度と会えない!」と叫んだ母。何もかも失った暮らしの中で、幼い胸には言いようのない空虚さが残った。 55年、母が友人から仏法の話を聞き、入会。父も信心を始めた。東京・上目黒の自宅は、広布の会場として多くの学会員が出入りしていた。中学生だった桶川さんは、信心に強く反発した。家族は心配し、先輩に娘との懇談を依頼した。 その日、自宅で行われていた会合の終了後、ふすまを開けると、同じ地区で活動をしていた香峯子夫人がいた。夫人は桶川さんの話にじっくり耳を傾けた。桶川さんは包み込まれるような温もりを感じた。不思議なほど、自分の気持ちを素直に口にした。 祈る姿勢、確信の大切さ、学会の尊さ――。夫人が語る一言一言が、桶川さんの胸に響いた。やがて、母と共に活動に励む日々が始まった。 戸田先生の講義を聞いた豊島公会堂(当時)。恩師はユーモアを交え、仏法の哲理を分かりやすく語った。恩師の講義は、10代の桶川さんの心にも鮮烈に残った。 座談会では、電車代を節約し、講義から歩いて帰ってきたと明るく語るメンバーがいた。桶川さんは、それまで気が付かなかったが、玄関に並ぶ下駄の多くがすり減っていた。何人もの友が生活苦と戦っていた。しかし、表情には自らの人間革命に挑む信心の歓喜が輝いている。信心厚き同志に囲まれ、学会員として生きる喜びが自然と湧いた。 高校卒業後、桶川さんは中央大学へ進学。戸田先生の母校で学ぶ誇りを抱き、仏法対話に駆けた。池田先生の御義口伝講義の受講者にもなった。青年を愛し、青年を信じ、励ましを送り続ける師の真心に触れたことは、生涯の宝となった。 此の世の人生を 学会と共に ある日の講義の後、池田先生が提案した。「学生部の新聞をつくろうよ。やりたい人?」。次々と手が上がる。桶川さんも挙手した。 先生は「委員会をつくって始めよう」と。挙手した全員が委員の任命を受けた。桶川さんは誕生した「学生ジャーナル」の編集に携わる。言論の使命を深く心に刻んだ。大学を卒業後は、「大白蓮華」の編集などに従事した。 1969年1月25日、日本大学、中央大学、専修大学の卒業生と在校生の代表が創価文化会館(当時)に集い、大学会の結成式が行われた。桶川さんも参加した。 池田先生の導師で勤行が始まる、その時だった。先生は御本尊の方を向いたまま、語り始めた。 「私が諸君のために全魂込めて御祈念しますから、普段、一番、心配していること、悩んでいること、困っていること、お願いしたいこと――。必ず叶うから、御祈念しなさい。必ず、叶うよ。それで、今日の全てとしよう」 勤行の後、日本大学の友が「日大の応援歌を聞いてください!」と声を上げた。「聞かせてもらうよ」と先生。スケジュールの都合で、ほかの大学の友が校歌を歌う時間はなかった。残念がる友に、先生は翌日の本部幹部会での合唱を提案。幹部会の当日、中央大学のメンバーは壇上で校歌を歌った。 大学会の集いで、桶川さんの心に刻まれた先生の言葉がある。 「未来までの人材を作り、これを仕上げることが何よりも難しいのだ。それが最も大事であり、諸君は私の後継ということを忘れてはならない。しっかり頼むよ!」 桶川さんは女子学生部のリーダーとして新たな人材の育成に奔走し、後に東京女子部長の任命を受けた。先生から折々に「仲良くやりなさい」との励ましがあった。桜梅桃李のスクラムを大切にしながら、華陽姉妹の連帯を広げた。結婚後、大田の地で地域に根を張り、友情を育んだ。 大田で活動し、改めて感じたのは、そこかしこに池田先生の足跡が刻まれていることだった。先生が生まれ育った故郷。戸田先生との出会いも大田。初の世界広布の旅へ出発したのは羽田空港からである。 83年1月31日、池田先生は大森文化会館(当時)で開催された大田区幹部会に出席。席上、新たな広布の牙城を大田に建設することを提案した。 7年後の90年、大田池田文化会館が誕生した。同年11月7日、先生は同会館を初訪問。会館は真心の菊で彩られていた。その準備に、桶川さんは同志と共に力を注いだ。 完成記念勤行会で、先生はこの日を選んで会館を訪問したのは、二月闘争の時、蒲田支部の支部長を務めた友の三回忌だったからと語り、こう述べた。「私は、学会に尽くした人のことは絶対に忘れない」 以来、大田池田文化会館は数々の学会の重要行事が開かれた。同年12月16日には本部幹部会が行われた。この日は、ベートーベン生誕の日といわれる。先生は楽聖の生涯を通し、訴えた。 「うんと苦労し、迫害を耐えぬいてこそ、初めて本物の“金”であることが証明される。迫害と苦闘がないのは、またそれらに敗れるのは、所詮は“石”なのである。たたかれ、裏切られ、デマばかり流され、ありとあらゆる圧迫を受け――波瀾万丈の人生からこそ、本当に偉大なものは鍛え出されてくる。私も、この決心で生きぬいてきた」 さらに、大田の同志に呼びかけた。 「大田は学会伝統の地である。しかし、改革がないところに進歩はない。伝統だけでは、どうしても行き詰まり、硬直化してしまう」 「つねにフレッシュな改革を重ねてこそ、伝統も生かされていく。そこに新しい人材も育ってくるし、折伏も進んでいく。そして、大勢の人に喜びを与えられる。何事にも時がある。春と夏とは違う。昔と今は違うのである」 桶川さんは、師が大田に寄せる限りない期待に応えようと、同志と共に広布の大道を真っすぐに進んだ。2002年、SGI副女性部長に就任。韓国を訪れる機会があった。自らが生まれた地で、師匠の開いた人間主義の道を語れることに、深い喜びを感じた。 中学時代、信心に反発していた自分が、香峯子夫人の確信に触れ、大きく変わることができた。青春時代、数々の師の励ましによって、大きく成長することができた。先生はかつて、桶川さんの御書にしたためた。 「此の世の人生を 妙法広布と共に 学会と共に」 師が示した指針のままに、学会と共に歩み抜く報恩の人生を誓う。 故郷の地に注いだ真心 大田池田文化会館の初訪問の折、池田先生は、こう強調した。 「戸田先生と私との間には、微塵も夾雑物がなかった。大田は、この『一体』にして『同心』の戦いによって基礎をつくったのである。この歴史を大切にしていただきたい。この原点を現在に、未来に生かし続けていただきたい。時代は変わっても、『信心』は変わってはならない。いな時代が進むほど、『信心』をいよいよ深く、いよいよ、みずみずしく成長させていくのが、求道者である」 先生の言葉を指針として歩んできた一人が、岡田宏さん。この地で信心を磨きながら、人生を切り開いてきた。 岡田さんは広島に生まれた。高校時代、一家で大田区へ。その後、家族で入会した。誠実な先輩たちの励ましを受け、活動に参加するようになった。 法政大学に進み、学生部活動に情熱を注いだ。だが、副部長を務めていた時、人間関係で悩んだ。ある時、大学会の集いで、先生と懇談の機会があった。岡田さんは、副役職の心構えを尋ねた。先生は“副役職の時こそ、最も信心が成長できる時である”と。以来、どんな立場でも自分の最善を尽くすことが、岡田さんの信条となった。 多くの思い出を刻んだ学生時代を送り、就職先も決まった。ところが、入社直前に会社が倒産。失意の中、唱題を重ね、自らの心を奮い立たせた。数カ月後、出版関係の仕事に就いた。 仕事と活動の両立に奔走していた1973年の4月29日、大田区体育館(当時)に5000人の友が集った記念撮影で、岡田さんは役員を務めた。先生は「きょうはね、朝早く起きて、句を作りました」と語り、次々と句を読み上げた。 「故郷に 広布の原点 五月晴れ」 「どこよりも 命の絆の 大田かな」 披露された句は10句。川柳も紹介された。大田への思いがあふれていた。 青年たちとの撮影の折、先生は「大田兄弟会」の結成を提案。集った青年・未来部が「大田兄弟会」として出発することになった。岡田さんは、自分も一人の弟子として戦い抜こうと固く決意した。 その後、岡田さんは光学機材メーカーからヘッドハンティングされ、新規事業の現場などで経験を重ねた。失敗や挫折も味わった。だが、「大田兄弟会」の誇りを忘れず、社会で実証を示そうと奮闘を重ね、結果を残した。 広布の活動にも全力を尽くした。蒲田常勝区の区長をしていた98年3月、新装なった蒲田文化会館が開館。その後、「二月闘争」50周年となる2002年の5月に先生が初訪問した。この折、先生は詠んだ。 「偉大なる 創価の伝統 大田かな 原点忘るな 勝利を忘るな」 岡田さんは55歳の時、医療と企業をつなぐ健康管理の分野に可能性を見いだし、独立する。予防医療や健診体制の充実に関わる事業を立ち上げ、20年にわたって会社を育てた。 岡田さんは今、大田池田文化会館の近くに居を構える。会館を彩る桜を見るたび、師が故郷の地に注いだ真心を思う。半世紀前の1976年3月、先生の提案で大田区に1000本の桜が贈られた。若木は、公園や緑地などに植樹され、大切に育てられてきた。40年がたった2016年3月30日、先生ご夫妻は大田池田文化会館を訪問し、会館および地域の桜を守る方々の陰の労苦をたたえ、心から感謝した。 先生はかつて、戦時中に抱いた夢を記した。「いつの日か、日本中、世界中に桜の木を植えて、皆が『平和の春』を思う存分、楽しめるようにしたい」――。 ある時は友好と平和の象徴として、ある時は庶民の功労をたたえる花として、桜を植樹してきた先生。桜に寄せる思いは、「平和への熱願」でもある。 |