第22回 生死を超えた“生命の絆”
26年2月22日

自身の人間革命に挑む限り、信心の絆が崩れることはない
本部幹部会、北海道栄光総会でスピーチする池田先生(2006年9月7日、東京牧口記念会館で)。


「青年を、どんどん育て、使命の晴れ舞台に送り出していく。これこそ学会の大方針でなければならない」と
冬は必ず春となる
 信念に生きた人生を確かめるように雪を踏み締め、歩みを進めた。1990年3月、北海道の戸田記念墓地公園を岩崎武雄さんが訪れた。当時86歳。信心を始めて36年が過ぎようとしていた。娘の舘百合子さんは、父と母・タケノさんの弟子としての厳粛な姿に、家族ながら胸を打たれた。
 父は雪をかき分け、歴代会長の墓所へ。墓前に着くと、祈りをささげた。長い沈黙が続く。それまでの来し方を報告しているようだった。そして、こう口にした。
 「私もそろそろ、戸田先生のおそばに行かせていただきます」
 入会以来、北海道を訪れた戸田城聖先生に幾度も激励を受けた。父は恩師の厳愛を知り、応えようとする弟子だった。恩師の三十三回忌法要を翌日に控えた4月1日にも、戸田墓園へ。恩師の立像の前で笑顔を見せた。
 それからまもなく、父は体調不良を訴えた。翌5月、墓園に桜が咲き誇る中、霊山へと旅立った――。
 舘さんは2年後の92年、父のこの時の様子を池田大作先生への手紙にしたためる。同年9月の本部幹部会で、先生はその内容を紹介した。
 「毎日、全国の多くの同志から、お手紙を頂戴する。拝見するのに、一日がかりになる場合もある」と述べ、武雄さんの最期を通し、語った。
 「本当に崇高である。熱き師弟の心、学会の心、信心の心がある。素晴らしい成仏の姿だと信ずる」
 草創の開拓者の心を継いで、さらなる未来へ。その心で前進の歩みを重ねてきた舘さんは今、当時の父の年齢を迎えようとしている。
 1904年、武雄さんは石狩に生まれた。高等小学校を卒業すると、米問屋に奉公。22歳で独立し、札幌市内で精米所を営む。39年には証券会社を立ち上げた。だが、順風満帆は続かず、54年に破綻。「五十にして天命を知るどころか、丸裸となった」と語ったどん底。この時、タケノさんに続き、信心を始めた。
 戸田先生、池田先生と出会いを重ね、北の大地を対話に駆けた。負債整理の渦中、池田先生の言葉が光になった。
 「岩崎さん、事業が失敗したから負けたのではありません。負けたと思う心が、人生を敗北に導くのです。『法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる』ですよ」
 一家の入会前、舘さんは、両親が仲良く会話をする様子をあまり見たことがなかった。それが打って変わって、生き生きと広布のロマンを語り合っている。娘にも信心の芽が育っていく。
 舘さんが高校2年生の時、池田先生が自宅を訪問。両親と語らう様子を見た。先生は、舘さんにも真剣なまなざしで語った。
 「権力や財力ではなく、信心の真心で結びついた絆だけは、決して崩れない」
 この言葉が胸に刻まれた。
 その後、舘さんは東京薬科大学で学ぶ。女子部時代、先生の御義口伝講義の受講生になり、信心を深めた。やがて、聖教新聞の記者として信仰体験などを担当するようになる。

「幸福の女王 広布の王女 創価の母上 万歳!」
 1983年の夏。結婚し、3人の子を育んでいた舘さんのもとへ、突然の知らせが届く。闘病していた夫・正昭さんが急死した。あまりの衝撃に、足元が崩れるようだった。
 だが、同志のぬくもりがずっとそばにあった。知らせを受け、池田先生は父・武雄さんに言葉を贈った。
 「幾山を 乗り越え凱歌の 君なれば さらに長寿を さらに広布を」
 末尾には、正昭さんが亡くなった命日が記されていた。一家を抱きかかえようとする師の真心を、舘さんは感じてならなかった。
 当時、神奈川で婦人部のリーダーを務めていた。幼い子をかかえ、未来が見えなかった。義母や先輩は、北海道で生活することを勧めてくれた。
 同年の冬、母子4人で札幌駅に降り立った。両親は、学生時代に送り出してくれた時と同じ笑顔で、「おかえりなさい」と迎えてくれた。その言葉が、胸の奥の凍った部分を、ゆっくり溶かしていった。
 前を向くには時間が必要だった。話を聞いてくれる友がいた。手紙を送ってくれる同志が何人もいた。85年2月11日、戸田先生の生誕日に、東京・信濃町で功労者の追善法要が営まれた。この時の池田先生の包み込むような励ましが生きる力となる。
 悲しみを抱えながら、学会活動に励んだ。3年が過ぎ、5年がたつ――。舘さんの心は変わっていった。
 「家庭訪問で同志に会った時、この方はどんな人生を生きてきたんだろう。人知れず、何に苦しみ、何に悲しんでいるんだろう。そう深く思いを巡らせるようになりました」
 誰よりも、人に尽くし、人生をたたえる師匠がいるから、舘さんも負けなかった。
 北海道のここかしこに、池田先生が創価の母たちと結んだ、ダイヤモンドのような生命の交流の歴史がある。
 91年8月17日、函館研修道場で行われた夏季研修会。池田先生は会場に入るや、最前列に座っていた高齢の女性に歩み寄った。奥尻島から参加した三原ナヲさんだった。舘さんはその様子を間近で見つめた。
 先生は「お母さん、おいくつ?」と尋ねた。三原さんは、照れくさそうに「80歳です」。先生はすかさず、「そう、22歳! 本当にいい顔しているね」と。場内に笑い声が広がる。香峯子夫人は三原さんの手を優しく握り、ほほ笑んだ。「苦労されてきた手ですね」
 61年に入会以来、三原さんは学会への偏見や、心ない非難中傷を浴びた。幼い娘が、同級生から石を投げつけられたこともあった。それでも、三原さんの確信は揺らがなかった。「島中、いや、世界中の人が、学会のすごさを今に分かる時が来るよ」と同志と励まし合い、地域に幸の輪を広げた。
 自宅の仏壇の前には、三原さんがこしらえた座布団が常に置かれていた。「池田先生が、いつ来られてもいいように。いつも先生がここにいらっしゃると思って」。この日も、座布団をヒモでくくりつけ、大事に背負いながら、船と車を乗り継ぎ、師のもとへ駆けつけていた。
 ――舘さんは96年、北海道の婦人部長に就く。かつての父のように、各地へ励ましを広げた。一つ一つの出会いが宝になった。学会の中で蘇生していく同志と触れ合うことで、自身の心が変わっていく実感があった。ある友に、こう言われたことがある。
 「舘婦人部長は、会館にものすごくうれしそうな満面の笑みで入ってくる。その姿が大好きで、会うと私までうれしくなった」
 97年1月、母・タケノさんが霊山に旅立った。タケノさんは見舞いに来た家族に、「学会活動できることが一番だよ。私の見舞いに来るより、学会活動で頑張りなさい」と語った。
 父と同じように、師を求め、学会を愛し、同志を大切にし、広宣流布の成就を最後の最後まで祈り続けた母。舘さんは、その母の心を胸に刻んだ。
 婦人部長として奔走していた99年、北海道は過去最高の世帯数を達成。師恩に報いる拡大の証しを打ち立てた。その後も、世帯数を更新し続ける中で迎えた2001年11月。21世紀が開幕して最初の創立記念日を祝賀する本部幹部会が、北海道栄光総会・関西総会を兼ねて開かれた。席上、先生が北海道婦人部に贈った言葉が紹介された。
 「幸福の女王 広布の王女 創価の母上 万歳!」
 師の万感の激励を心に刻み、舘さんは今も信心の喜びを語る。試練の“冬”に直面する同志の心に、希望の“春”を届けようと祈り、励ましに徹する。人生の幾山河を乗り越え、数々の広布の激闘を勝ち越えてきた、その胸には確信が光る。
 ――自身の人間革命に挑み、広布の大道を真っ直ぐに進み続ける限り、三代会長との絆、同志との絆、家族の絆は決して消えることはない。信心で結ばれた絆は、生死を超えた“生命の絆”である、と。

師の姿を胸に刻んだ記念撮影
 戸田先生は、1900年2月11日、現在の石川県加賀市塩屋町で生まれた。池田先生は北陸に贈った長編詩に詠んでいる。
 「二月の訪れを聞くと わが心は翼となりて 幾重にも懐かしき 北陸の大地へ舞い飛ぶ。 愛する北陸の同志のもとへ 駆け巡るのだ」
 大塚富士子さんは、舘さんと同時期に北陸婦人部長に就き、師弟有縁の地で友に尽くしてきた。その歩みにもまた、大切な絆がある。
 今も耳に残るのは、晩年の母・二さんの言葉。体を気遣うと、友のもとへ行くよう促した。「こんなところに来てないで、能登に行きなさい」
 二さんは10歳で父を、12歳で母を病気で亡くした。兄は戦死。富山県で妹と生き抜いた。結婚後、信心を始めた夫が病を克服する姿、参加した座談会の体験に感動し、56年3月に入会。ところが、大塚さんが高校生の頃、両親が離婚。家を出る時、500円が母の全財産だった。それでも、母には朗らかさが常にあった。
 母と大塚さんと弟の3人、4畳半のアパートでの生活。母が縫い物の内職をして、ミカン箱が机がわり。布団は一組しかなく、3人が交代で休んだ。母は夜中も早朝も、内職をしているか、題目を唱えているか。その姿が大塚さんの記憶に残る。
 大塚さんは病弱で、人との会話も苦手だった。小学6年生の時、女子部のお姉さんが「ふじちゃん、元気になろう」と、毎朝と夜、共に勤行をしてくれた。中学生になると、初めて健康診断で何も言われなかった。活発で明るい毎日へと変わった。
 67年8月14日、富山県を訪れた池田先生との記念撮影が行われた。高校生だった大塚さんは、緊張しながら学校の成績が上がったことを報告した。先生は「おめでとう!」と祝福し、握手を交わす。流れる汗を拭おうともせず、一人また一人と懸命に励ます師の姿は、大塚さんの胸に今も鮮やかだ。
 記念撮影には母も参加できることになっていた。しかし、着ていく服がない。新しい服を買う余裕もなかった。そんな母を見かねて、大塚さんの弟は、ためていた小遣いを握り締めて、買い物に出かけた。特売で見つけた100円のブラウス。息子の真心を、母は喜んで身につけ、笑顔で先生と写真に納まった。母は生涯、そのブラウスを大切にした。
 その後、思いもしない形で、大塚さんの未来が開けた。デザインを学んでいた腕を買われ、大手広告代理店のグラフィックデザイナーに採用された。
 学会活動にも全力を注ぎ、本紙の通信員としても奮闘した。経済苦に挑み、宿命転換していく友。闘病から立ち上がる友。試練に直面しても、信心根本に立ち向かう同志の取材を重ねた。
 「北陸を仏国土にしよう」――池田先生が北陸のリーダーにかけた言葉を胸に、友の激励に奔走した。“能登半島を幸福半島に”との思いで、2007年、24年の能登半島地震の時も、励ましを重ねた。
 池田先生はかつて、中部・北陸総会の意義を込めた本部幹部会で語った。
 「わが心から戸田先生が離れることはない。一体不二で勝つ。これが師弟である。師弟に生き抜けば、心は晴れやかだ。後輩も、どんどん育つ。わが人生の最終章を見事に飾っていけるのである」
 先生から受けた幾つもの励ましを、大塚さんは忘れない。後継の成長を祈り、学会創立100周年の2030年、そして「第2の『七つの鐘』」が鳴り終わる2050年を目指し、信心の歩みを重ねる。それが、師の大恩に報いる道と決めている。