| 第20回 徳島で刻まれた歓喜のドラマ 25年12月28日 |
| もろもろの太陽が 壮麗な青空を飛びめぐっているように 兄弟たちよ たのしく君たちの道を進め ![]() 徳島文化会館を初めて訪れた池田先生が、榎本徳一さん(右端)をはじめ四国のリーダーを激励(1994年12月3日) “共に、よいお正月を” 右足には戦争で受けた銃創があった。膝が曲がらず、正座もままならない。それでも、学会の草創期から広布のロマンに生きた。 1994年12月3日、榎本徳一さんが向かったのは徳島文化会館。池田大作先生が初訪問する日だった。会館に到着した先生は三色旗を手に、友に感謝を伝えた。 「いい会館だね」「ありがとう」 徳島支部の初代支部長を務めた徳一さんは、居住まいを正して先生を迎えた。隣には同じく支部婦人部長を担った妻のヒロ子さん。先生は視線を交わし、長年の広布功労をたたえるかのように会釈を。新たな広布の城での出会いに、二人の喜びはひとしおだった。 戦争に染められた半生だった。第1次世界大戦が始まり、日本がドイツに宣戦布告した1914年の暮れに、徳一さんは生まれた。 22歳の時、日中戦争で右足を銃弾が貫通。切断しかない。医師の判断を意固地に突き返し、どんな体でも両足で生きると決めた。 戦争が終わり、徳島で公務員となった。だが、心は晴れなかった。徳一さんはつづり残している。 「戦傷をうけ、心身ともに、廃人に等しい自分であった。ながい官吏生活にもなんの目的もない、はかない人生であった」 56年の入会を機に、新たな歯車が回り出す。汗とほこりにまみれ、バイクを県内の隅々まで走らせた。 60年12月6日、池田先生は徳島市内で開かれた徳島支部結成大会に出席した。支部長抱負を語る徳一さんを演壇横でじっと見つめた。「立派でしたよ」。その言葉がいつまでも徳一さんの心を支えた。 先生は語った。 「民衆と共に進む人こそ、真実の法を弘める仏法の指導者です。ゆえに、幹部になり、信心が深まるほど、いよいよわが身を低くし、謙虚に、礼儀正しく、同志を敬い、尽くしていくべきです」「楽しくて楽しくて、たまらない、こんなにも人生とは幸せなのかという自分自身をつくっていただきたい」 喜びも悲しみも抱き、生活に苦闘する一人一人。先生は最後に徳島の同志の一年の健闘をたたえ、呼びかけた。“共に、よいお正月を”と――。 その夜、榎本さん宅で開かれた地区部長会。先生は徳一さんに「どうか、『妙法の久坂玄瑞』となって徳島の皆さんを幸せにしてください」と。男子部の友には「『妙法の高杉晋作』となって支部長を支えてください」と語る。 戸田先生の後継者として東奔西走する池田先生のもと、徳島から四国の新出発が切られた。 翌7日。徳島駅に見送りに来た大勢の同志に、先生は笑顔で語った。「寒い中、ありがとうございます」「どうか風邪をひかないように」。一人一人に声をかけ、列車に乗り込んだ。 榎本さん夫婦の徳島広布への歩みに拍車がかかった。誓願の行動は、第1次宗門事件の渦中も全く変わらなかった。78年12月の徳島県の総会。演壇に立った徳一さんは、師子吼した。 「誰よりも創価学会が好きでたまりません」「御本尊への報恩の熱き思いを、これからも個人指導に、座談会にと存分に発揮してまいります」 「一緒に戦った方は忘れない」 徳島青年平和文化祭が行われる1985年4月14日の朝、池田先生は徳島平和会館(当時、徳島文化会館)で、未来部と記念撮影をした。その際、先生は会館の玄関で、榎本徳一さん・ヒロ子さん夫婦の長男の妻である弘子さんと握手を交わし、語った。 「お父さまは足が悪かったね。徳島を築いた方だから忘れないよ」 「一緒に戦った方は忘れない」 この日、先生は榎本さん夫婦に「草創の 父、母わすれじ 阿波の国」と詠み贈った。どこまでも友を大切にする師の深き慈愛に、夫婦は心から感動し、報恩に徹することを誓った。 徳島青年平和文化祭で、冒頭を飾ったのが、ベートーベンの「交響曲第9番」の「歓喜の歌」だった。徳島は1918年に「第九」が日本で初演された地。「徳島の同志が、希望の大空へ飛翔する時は、いつも『歓喜の歌』がともにあった」と先生はつづっている。第1次宗門事件の後、師弟分断の鉄鎖を断ち切る突破口となった81年の先生の徳島訪問。記念勤行会で、婦人部の「若草合唱団」が歌ったのは「歓喜の歌」だった。 第2次宗門事件が起こり、学会が「魂の独立」を果たした3年後の94年秋、徳島は「歓喜の歌」合唱運動を推進し、全地区で約3万5000人の同志が参加した。そして、12月4日、先生を徳島文化会館に迎え、合唱運動のフィナーレとなる「『歓喜の歌』大勝利合唱祭」が開かれた。 入場した先生は場内に呼び掛けた。「四国創価学会の万歳をやろうよ」。喜びの万歳が響き渡る。さらに先生は、徳島創価学会でもう一度、と。 合唱祭では、阿波踊りが披露された後、「歓喜の歌」の合唱が行われた。「第九」の人間愛の精神を学び、日本語とドイツ語で歌い上げた同志に、先生は喝采を送り、こう語った。 「四国の皆さまは、あらゆる難を乗り越えてこられた。悪侶に苦しめられながら敢然と戦い、理不尽な圧迫をすべてはね返してこられた。まさにベートーヴェンの言う『苦悩を突き抜けて歓喜にいたった』姿である」 さらに、ドイツの大詩人シラーの詩「歓喜に寄す」に言及した。「もろもろの太陽が/壮麗な青空を飛びめぐっているように/兄弟たちよ たのしく君たちの道を進め。/英雄のように喜ばしく勝利をめざせ」(『手塚富雄全訳詩集』Ⅰ、角川書店) この箇所が第九の合唱に使われていることに触れ、「これがシラーの、『第九』の心である。きょうの徳島の青空も『壮麗』である」と語った。 スピーチは約1時間にわたった。 「自分のことだけを考えるのではなく、民衆のため、会員のため、友のために祈っていく。その心が、わが胸中に、永遠に光り輝く宮殿を築いていくのである――これが仏法の方程式である。“民衆のための戦い”“権力との戦い”――この一点において、わが創価学会は世界一であると確信する」 榎本弘子さんは、徳島県婦人部長を務め、現在は総県女性部総主事に。義父母との思い出を胸に、同志の輪に飛び込む。徳一さんは亡くなる前、師への感謝を何度も口にした。「妙法の久坂玄瑞に」との指針を体現しようと、師弟の道を貫いた。 「偉大なる 祈りと 歓喜の団結に かなうものなし 徳島たのもし」 弘子さんは、先生がかつて徳島の友に贈った言葉を大切にして、地域の友に信仰の喜びを広げている。 「名操縦ありがとう」 「歓喜の歌」が響いた1994年12月4日の合唱祭から2日後、先生は徳島文化会館を後にした。徳島空港から羽田空港へ発った飛行機の機長を務めたのが、秋田芳男さん。長年の思いが実現する瞬間だった。 大阪での少年時代、空を飛ぶことを夢見た。現実は、父の事業が倒産し、生活は大変だった。休日は、母のおにぎりを持って八尾空港へ。飛行機を見ると、心が弾んだ。だが、その仕事に就くことなど想像もしなかった。 19歳の浪人時代のある日、婦人部員が新聞広告を持って来た。「こんなんあるから、受けてみたら」 航空機操縦士の募集だった。挑戦だけはしようと決めた。71年、東亜国内航空の訓練生に。600人の応募者から副操縦士になったのは、わずか5人だけ。そのうちの一人になった。 祈りに祈って、勝ち取った結果だった。だからこそ、さらに題目を唱えると決めた。新たな夢も芽生えた。いつか師匠を乗せて飛びたかった。 83年、32歳で機長となる。男子部では部長として友と語らう日々。その頃、池田先生が出席した会合で、懇談の機会があった。 「先生がおっしゃっていました。“人に会うことを大事にしなさい”“最前線の地区やブロックに入って初めて、組織が見えてくる”。この言葉を通して、どんなに仕事が大変でも、広布の最前線を走り続けようと決めました」 空の上では、権限も責任も大きい。傲慢は事故につながる最大の敵。家庭訪問に歩き、友と語らうことは、自分を見つめ直すきっかけにもなった。自行化他の実践は、胸中に潜む慢心を打ち砕く戦いでもあった。 苦難の嵐は結婚後。長女が重いアトピー性皮膚炎に。激しい炎症が全身を襲う。いじめにも遭った。アトピー性皮膚炎から白内障を起こし、網膜剝離も患う。 失明の危機に、長女は何度も自殺を考えた。秋田さんは懸命に祈り、支えた。長女は、ためらった目の手術を勇気を出して受けた。長女が無事に退院した直後のフライトが、先生を乗せて飛んだ94年12月6日だった。 後年知ることになるが、先生は機上から徳島文化会館や富士山、東京湾などをカメラに収めた。無事に羽田空港に着陸。タラップを下りる先生の後ろ姿を操縦席から見ながら、秋田さんは感謝をかみ締めていた。 すると先生が、ふと立ち止まり、操縦席へと顔を向け、右腕で敬礼のポーズを。再び歩き出したが、もう一度振り返って、手を振った。さらに、もう一度立ち止まり、手を振った。師の真心に胸が震えた。 その直後、秋田さんは乗務員が預かった一枚の紙を手渡された。先生からだった。秋田さんは、娘のことなどを先生への手紙にしたためていた。それを読んだ先生からの言葉だった。 「父娘して 幸福王の家族なば くる日くる日を 楽しく生きぬけ」「お手紙ありがとう 名操縦ありがとう」 空の旅を届ける使命感はさらに深まった。その後も、誠実に仕事を積み重ね、民間航空会社のパイロットとして飛行時間が国内最長級の記録となった。約47年間のキャリアで総飛行時間は2万7255時間。幾つものメディアが報じた金字塔だった。 ラストフライトは、2019年の1月2日。くしくも、先生の91歳の誕生日だった。報恩の思いを抱き、陽光輝く空を飛んだ。 現在は愛知県で、会社の顧問として次世代を育て、空の安全を守る。その胸には、師への報恩の心が陽光のごとく輝いている。 |