| 第18回 晴ればれと自分史を 25年10月26日 |
| 「信心は素直が一番大事だ。 私を信じてついてきなさい」 「21世紀兵庫希望総会」でスピーチする池田先生(1995年10月17日、兵庫池田文化会館で)。希望の二字を掲げ、「懸命に立ち上がろうとしている、その神戸の地でやることに意味があるんだ」と、開催を強く望んだのも先生だった日蓮仏法は「無限の希望」の哲学 阪神・淡路大震災から9カ月。復興途上の兵庫の地に、世界各地からSGI(創価学会インタナショナル)メンバーが集まった。1995年10月17日に行われた「21世紀兵庫希望総会」。池田大作先生の提案により、総会名に「希望」の二字が加えられ、「SGI総会」を兼ねて開催された。 「あの日」から一日一日が戦いだった。倒壊した家屋、失われた日常。その中で、友は支え合い、世界中の同志が兵庫へと祈りを送ってきた。 先生の導師で勤行が始まった。震災で亡くなった全ての人々へ、追善の祈りがささげられた。 先生はスピーチで、「亡くなられた方々のことは、これまでも毎日、追善させていただいた。これからも追善していく決心である」と語った。 続いて、震災直後に、真っ先に会館へと駆け付けた友らを紹介した。顕彰の思いを込め、一人また一人と名前が呼ばれる。自ら被災しながらも、他者の救援に動いた同志たち――。大拍手が起こった。 さらに先生は力強く呼びかけた。 「日蓮大聖人の仏法は、『無限の希望』の哲学である。どんな人生も、行きづまりを感じることはある。また、今、日本も、世界も、行きづまっている。多くの人々も行きづまっている。希望を生み出す不滅の哲学がないからである。しかし、私たちには絶対に行きづまりがない。どんな状況にあろうと、限りなく『希望』をわき立たせ、『希望』を実現していける」 当時、関西婦人部長だった勝本照代さんは、感動と感謝で胸がいっぱいになった。労苦を担う友に一貫して光を当て、励ましを惜しまない師匠の姿を改めて心に刻んだ。 勝本さんの信仰の原点は、母の姿にあった。病弱だった母が信心を始めると、瞬く間に生気を取り戻し、同志の励ましに歩いた。その変化を目の当たりにし、「自分も確かな生き方を築きたい」との思いを抱く。中学生の頃から創価の庭で自身を鍛えた。 69年の大学時代、大学会の結成が決まり、池田先生との出会いが訪れる。先生は一人一人の自己紹介に耳を傾けた後、こう言った。 「今は遊びたいし、デートもしたいし、映画も見たいし、旅行もしたいだろう。やりたいことはたくさんあるかもしれない」 学生たちの表情がほころび、場が和む。先生は、言葉を続けた。 「しかし、それだけで終わってしまう青春であってはならない。しっかり信心の芯を築いていく。それが根本であることを忘れてはならない。やがて、まじめに信心した人としない人では、どうしようもない差がついてしまう」 そして、力を込めた。 「信心は素直が一番大事だ。私を信じてついてきなさい」 勝本さんの心に電流が走った。これまで、学会活動はしていても、どこか“安全な場所”から眺めていた自分。祈りもどこか“形”だけだった。初めて、真正面から自分に挑む決意が芽生えた。時を重ね、女子部のリーダーとして関西を駆けていく。 陰の人を決して忘れない 1976年2月、勝本さんは来阪中の池田先生と懇談する機会があった。執務をしていた先生は、優しい笑みを浮かべて言った。「陰で戦っている人の名前を挙げなさい」 突然の問いに、勝本さんは数人の名を挙げた。すると先生は、「他には? もっといるだろう」と繰り返した。 「陰の人を大切にするんだ。この私の心を胸にして、師弟一体の目で、耳で、口で、足で、皆を励ましていくんだよ」 その言葉は「創価の心」そのものだった。勝本さんは胸を熱くした。広宣流布を陰で支える人々を思う師のまなざしに、涙がこぼれた。 ――光を浴びるより、冥の照覧を誉れとする生き方を。その日から、“友の幸福のために”との思いが深まっていった。やがて、関西婦人部長として多くの同志を励ます立場となる。関西を誰よりも愛し、信じ、勝利を託す師の思いに応えるために、常勝の友と共に歴史を築いていった。 そして、1995年1月17日――。未曽有の大地震が関西を襲う。街は崩れ、闇が全てを覆った。 勝本さんはその日の朝、友を思ってまずは関西文化会館へ駆け付けた。翌日夜には、大阪湾から神戸へ。到着した長田文化会館には、多くの避難者が身を寄せていた。 電気も水も途絶えた中、友は黙々と救援活動に動き続けていた。ある女子部(当時)の友は、全壊した家から抜け出し、バイクで会館へ。真っ先に駆け付けた彼女は、続々と身を寄せる避難者に対応し、声をかけ続けた。勝本さんも動き回り、寄り添い続けた。 ある避難所で出会った女性は、家が倒壊し、孫を亡くした。彼女は毅然として勝本さんに言った。 「それでも、私の心の中の関西魂は崩れていませんよ」 その声に、勝本さんは思った――人間の強さとは、関西の心とは、こういうことだ、と。 先生は当日から、さまざまな励ましを関西に届けた。一つ一つの言葉が希望そのものだった。同年2月、関西文化会館で行われた追善法要。10月の希望総会。その全てに、勝本さんは「関西家族」を思う先生の心を感じた。 震災から5年後の2000年2月29日、先生は兵庫の長田文化会館へ。被災した友の話に耳を傾け、励ましを送った。この折、先生はたずねた。 「あの時、一番にここに来た女子部は来ているかな?」 この日、彼女は兵庫池田文化会館で役員に就いていた。先生は兵庫池田文化会館に着くと、彼女に声をかけた。 「長田文化会館に行ってきたよ」 勝本さんは、胸の奥で静かに涙を流した。「先生は、陰の人を決して忘れない」――その確信が心を満たした。 今、勝本さんは後継の友に折々の池田先生の姿を語ることに、何よりの喜びを感じている。 「先生は関西家族の一人一人と絆を結んでくださった。一対一の人間ドラマやね。“全ての人を幸せにする”という先生の大誠実を伝えていきます」 穏やかに語るその声に、華陽会の友が目を輝かせて聞き入る。その真剣なまなざしに、勝本さんの方が決意を新たにすることが常だ。 大動脈解離などによる心臓の大手術を2度乗り越えた。兵庫での総会で、先生が呼びかけた「無限の希望」。その光が、今も心を照らし、未来を担う友へと受け継がれている。 祈りは必ず届く 兵庫での希望総会。万国旗が並ぶ壇上で、先生が声をかけた。 「兵庫の婦人部長!」 すっと立ち上がった長田令子さん。被災地へ注がれるぬくもり、リーダーとしての責任感。団結の大切さ。先生の励ましに、心を新たに出発した。 「万年の 模範つくれや 大兵庫 尊き婦人の 足並み そろえて」――この日に贈られた和歌が指針となる。 震災の時、長田さんは、尼崎から西宮、そして神戸へ。道は裂け、通信は途絶えた。避難所を回り、被災した同志や家族に寄り添った。 「何もできなくても、一緒に泣くことはできる」 がれきの街や避難所で友が泣けば、隣で涙した。一人との触れ合いが、復興への足跡となった。 長田さんの出発点は、高等部時代。池田先生から高等部の部旗を手渡された。目が合った一瞬に、温かなものを感じ取った。“先生は私たちに深く期待し、信頼を寄せてくださっている”。その時から、信心が理屈ではなく、自分の生き方になった。 以来、題目を重ね、先生の指導を一つ一つ胸に刻んできた。中でも深く残るのは、どのような人が理想かを聞かれた際に先生が答えた言葉――。 「静かだが深い人、優しいけれど強い人、平凡だが英知の人、純粋だけど勇気のある人」 この理想を自らの人間革命の目標として、長田さんはいつも人の中へ入った。結婚を機に、生まれ育った静岡から兵庫・尼崎へ。新天地でも仏法対話に歩き、祈りと行動を重ねた。 夫に病が襲いかかった時、3人の子育てで悩みに直面した時など、長田さんはどんな時も御本尊の前に座り、強盛に祈った。仏法対話に歩き、人を励ますたび、自分の心が晴れていくのを実感した。 家族にも変化が訪れる。ある日、家で息子たちの会話が聞こえた。 「おれは信心しようとは思わん」と言った長男。次男がいつになく真剣にこう返していた。 「おかんの言う通り、会合に出て、聖教新聞をよく読むようになったら、おかんの学会活動の目的が分かってきてん」 母はその様子に、涙がこぼれた。やがて3兄弟そろって活動に励むように。家族で合わせて5世帯の弘教を実らせた年もあった。 祈りは届く。時間がかかっても、必ず届く――。それが、長田さんの人生で得た確信だ。 広布の大道を真っすぐに進んできたが、今年の春、試練が襲う。胃がんとの闘病を続けた長男が、50歳で旅立った。抗がん剤治療を受けながらも、彼は対話をやめなかった。 「亡くなったというよりも、今も共に戦っている気がします」――長田さんは毎日のように、友人との対話に歩いている。地域に友好を広げながら、心には確信がある。 「悲しみも、どんな出来事も、すべてを希望に変えていける。それが信心の道です」 池田先生はかつて、長田さんに句を贈った。 「晴ればれと 今日も綴れや 自分史を」 負けないことが勝利。 負けないことが幸福。 長田さんは不屈の楽観主義で、希望の自分史をつづり続けている。 |