| 第17回 百劫をも包みゆく縁 25年9月28日 |
| 苦しいときに自己を鼓舞し、勇気づけるものは、 いつも強い「自負」であり、「責任感」である 大阪へ移動し、27日に迎えた関西栄光総会。スピーチは30分に及んだ。 「幸福を決めるのは、場所ではない。自分である。自分の信心である。信心さえ強く、不動であれば、どんな変化も、全部、よい方向へ、幸福の方向へと変えていける。ゆえに、信仰者にとって、根本的には『一切が功徳』なのである」 参加者の一人だった高島功さん。当時、左京区の区長として奮闘を重ねながら、人生の節目に立ち、変化の波と向き合っていた。 ――左京は、慈照寺(銀閣寺)をはじめ名刹が連なる街。その一角の市場で、高島さんの父は鮮魚店を営んでいた。戦中、戦後の暮らしを支えた店。だが終戦から6年、高島さんが6歳の時、父が病で急逝する。残ったのは父の手に馴染んだ数本の包丁だった。 母は伯母と店を守り、黙々と働いた。中学を出ると、高島さんも店に立った。引っ込み思案で、「いらっしゃい」の一言が出ない時もあった。 信心を始めた伯母の対話で、母が創価学会に希望を見いだし、高島さんも入会した。男子部の先輩と学会活動に励むほど、広宣流布に生きる誇りが湧いた。市場で働く人に包丁さばきを学び、冬にはひび割れした手に息を吹きかけ、活動へ。定時制高校にも通った。 だが66年、母が病で亡くなった。伯母と続けた店は、思うように客足が伸びない。苦しい歳月が続いた。 転機は、68年8月11日。夏季講習会で男子部の代表による白糸会が結成された。池田先生と勤行をして、キャンプファイアを囲んだ懇談会もあった。 「私たちは、家族なんだ」と先生は、青年たちの緊張を解きほぐした。高島さんは、父と母を亡くしたことを打ち明けた。先生は両親の名前を聞いて、励ましを送る。胸の奥に、温かいものが染み込んでくる。“湿るのではなく、カラッとした信心をしていきなさい”“どんな苦難にも負けるな”――その夜の指導は、人生を照らす灯になった。 2年後の70年。その年の後半を先生は関西指導で開始し、京都へ。9月3日、高野川上流を訪れた。当時、言論・出版問題の嵐が吹き荒れていた。地元の同志は、和やかな懇談の場になればと、手作りの床几などを河原に準備した。 先生は皆と共に、素足を川に浸して、「こんな気分になったのは何年ぶりかな」と、ほほ笑んだ。周りにいた同志に深くおじぎし、「ありがとう」と。どこにいても励ましの戦いが止まることはなかった。 先生は詠んだ。 「人間の 勝利の宴 高野川」 この日、先生は代表の友と記念のカメラに納まった。そこに、高島さんもいた。写真の中の先生の笑顔は、高島さんに何度も力を与えた。 ![]() 男子部の白糸会のメンバーを激励する池田先生(1973年8月3日、静岡・富士宮市の白糸研修所〈現・白糸会館〉で) 青春の誓いのままに 白糸会は毎年、総会を重ねた。1979年8月18日、結成11周年の集いが神奈川文化会館で行われた。池田先生の第3代会長辞任から4カ月。“どこまでも先生と共に”との決意をたぎらせ、師のもとに集った。 皆の決意あふれる姿に、先生は「大勝利だ。みんな成長したな」と喜び、こう語った。 「本当の広宣流布の攻防戦が始まったんだ。これから面白くなるぞ!」 師子王の宣言だった。障魔の波浪が猛る中にあっても、先生は微動だにしていない。その師に自分も続こう。師を守る師子に成長しよう――高島さんの決意は、また一段と強くなった。 86年、高島さんは左京区の区長の任命を受ける。使命に駆けたが、鮮魚店は岐路に立つ。スーパーの台頭などで売り上げは減る一方だった。 3年後の89年、店を閉じる決断をした。父から受け継いだ店をつぶす情けなさ。先生の数々の激励を思い返し、自らを奮い立たせた。 この年の10月、先生が左京区に落成した京都平和講堂を訪れる。先生は記念の集いで語った。 「苦しいときに自己を鼓舞し、勇気づけるものは、いつも強い『自負』であり、『責任感』である」 「策や要領のみの人生は、結局は行き詰まり、みずから墓穴を掘るであろう。人生と一念を、まっすぐに広布へ向け、ひたすら行動していくところに、最高の充実と満足がある。限りなく力がわいてくる」 高島さんは、半導体・液晶などを製造・販売する会社へ転職する。未知の現場で努力に努力を重ねた。学会活動を終えると、職場に戻った。 やがて、会社の執行役員、営業部長として、国内はじめ海外にまで飛び回るようになる。大きな実証を示して、定年まで勤め上げた。 2018年、白糸会は結成50周年を迎えた。結成時、25歳前後だった青年たちは、今も青春の誓いのままに、各地で広布に尽くす。結成の時、先生は期待を寄せて、こう語っている。 「私の願いは何か。ただただ、令法久住です。真実の仏法を、広宣流布の流れを、そして、創価学会を、どうやって永遠ならしめていくかにあります。一時はどんなに隆盛を誇ろうが、やがて衰微してしまうようでは、なんにもならない。しかし、師弟があり、真の弟子が育っているならば、無窮の流れが開かれる。だから私は、諸君と会って、広宣流布の未来を託そうとしているんです」 京都の地にあって、高島さんは師弟の正義、信心の喜びを後継の友に語り続ける。 命を削るように激励を尽くす師の姿 岡山文化会館(現・岡山南文化会館)に、世界の同志が集った。1985年10月23日に行われたSGI総会。壇上の池田先生は、未来を見据えて語った。 「一見ささやかに見えるかもしれないこの日の総会も、また各国で先駆の存在である皆さん方の名前も、広布の前進とともに、年ごとに輝きを増し、尊き存在として光っていくことを確信していただきたい」 前日、広島から岡山へと入った先生を駅で迎えたのが、岡山県長を務めていた増本勲さん。先生の顔には連日の激闘による疲労の影が残っていた。だが会館に到着すると、設営の一つ一つに目を留め、「いいね、いいね」と語った。館内に入ると、「SGIメンバーはどこから入るのか」など、諸行事の成功に心を砕いた。 SGI総会の会場は、2階の大広間だった。先生は1階から階段を上がろうとした。だが、足元がふらついた。増本さんは、岡山県本部長だった清水茂正さん(故人)と共に、とっさに先生を支えた。支えられながら、それでも総会の成功のために力を尽くす師の姿に、二人は胸を震わせた。 翌日、総会を終えた後も、先生は会員宅や岡山記念会館を訪問・激励。その後も岡山城の見える旭川沿いを青年部員たちと散策し、懇談の機会を設けた。のちに先生は、岡山での自身の心情を詩に残している。 「師の亡き後の二十七年――/来る日来る日の法戦の疲れの故か/胸の圧迫感は消えず/体は鉛のように重たかった/しかし 行こう/行かなければならない/世界の友が/岡山の同志が待っている――」 「ただ一度限りの/出会いとなるかもしれない/しかし ただ一度であればこそ/私は 遺言の思いで/生涯 消えることのない/百劫をも包みゆく縁を/結んでおきたかったのだ」 命を削るように激励を尽くす師の姿に、増本さんは師弟に生き抜く人生を心から誓った。 ただただ弟子を思う真心 終戦の年、米子空港のそばで暮らしていた幼い増本さんは、空襲のただ中にあった。機銃掃射の弾が家を突き抜けた。布団の中で、ただ恐怖が過ぎ去るのを待った。 父はシベリア抑留から帰還したが結核にむしばまれ、病床に伏しがちだった。生活は苦しく、進駐軍のごみ捨て場で缶詰を拾うこともあった。 さらに、増本さん自身も病に悩まされた。百日ぜき、急性腎炎――。高校で剣道を始め、「強靱な体を」と願ったが、思うようにはならなかった。 そんな増本さんに、声をかけたのが知り合いの学会員だった。「私は信心で元気になった。あなたも治らんことはない。しゃんとしなさい」。この言葉が、信心の始まりとなる。 島根大学に入ったものの、体調は不安定で授業に出るのが精いっぱいだった。支えになったのは、男子部の先輩から送られてきたハガキだった。 「君は将来のある人材なんだ。だから嫌なことがあっても乗り越えなさい。私は君を信じています」 小豆の行商をして極貧生活を送っていた先輩。地に這いつくばるような日々の中で自分を思い、真心を込めてくれた。自分を信じてくれる人がいる――それは未来を信じる力へと変わっていった。 増本さんは中国青年部長を務め、やがて岡山県長に就任。だが、その歩みを病が阻んだ。80年、急性虫垂炎で倒れ、入院。病院での時間は、1カ月を超えた。当初は克服の決意に燃えるも、弱気が顔をのぞかせる。そんな時、先生からの伝言が届いた。 「もう大丈夫だよ」 胸に熱いものが込み上げた。師が祈ってくださっている――そう思うだけで、心の底から力が湧いた。 退院後、しばらくしても体調は安定しなかった。再び、不安が頭をもたげた。県長会の折、先生は増本さんに語った。 「本気で祈っているのか。いつまでも病気と付き合っていてはしょうがないじゃないか!」 一日も早く病を乗り越えるための師の厳愛だった。増本さんは自らの弱気を猛省した。その後、少し時を経て、香川・四国研修道場で朝の勤行を先生とする機会があった。唱題をした後、先生は振り返ると増本さんに言った。 「今、君の健康を御本尊さまに祈ったんだよ」 どんな時も、ただただ弟子を思う師匠の深い真心。増本さんは“弟子として、生涯かけて報恩の誠を尽くそう”と心に定めた。 やがて病を克服し、県長として広布に走り抜いた。岡山から鳥取へと戻った後も、変わらぬ師への誓いのまま、新たな歴史を切り開いた。 迎えた70代。信心を試すかのように病魔が立て続けに襲った。7年前、心臓の不調から冠動脈にステントを入れる手術を受けた。5年前には膀胱がんを患う。最初は「心配ない」とされたが、「悪性」と告げられ、全摘出しかないと診断された。 術後、胸に去来したのは喪失感とむなしさ。だが脳裏には、SGI総会の時の師の姿がよみがえった。“絶対に負けるわけにはいかない!”と唱題を重ねた。細菌性肺炎にも襲われ、死線をさまよった。それも乗り越えた。 来月、84歳になる増本さん。師弟に生きる喜びを胸に、地域の同志に尽くしている。 |