| 第15回 戦争の絶望を突き抜けて 25年7月27日 |
| 「先生が一人を大切にされる、 その姿が私の信心の原点です」 ![]() 核兵器の悲惨さを伝える原爆ドーム(1985年10月、池田先生撮影)。先生は語っている。「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています」 原爆死没者慰霊碑に祈る師の姿 1944年2月、戦火迫る広島県呉市に、橋本忠征さんは生まれた。父は、赤子の顔を見て「忠義を貫いてほしい」と願い、名前をつけた。その直後、南方へ海軍として出征。2月の末、マラッカ海峡で戦死する。 父のぬくもりも言葉も知らない。幼くして背負った喪失は、橋本さんの胸に深く影を落とした。 「戦争を恨み、小さいながらに諦めの気持ちが強かった」 小学生の頃、一家は呉から広島市内へ移り住んだ。暮らした場所から少し歩けば、原爆ドームがある。焼け焦げた鉄骨がむき出しの建物。戦争の爪痕を全身で感じ取った。 被爆した同級生が亡くなる現実。胸が裂かれるように感じた。広島市の平和記念公園にある「原爆の子の像」。58年の除幕式に至るまで、多くの子どもたちと募金を呼びかけた。 母は看護師だった。原爆投下直後の広島市内へ入ったという。その時のことはほとんど語らなかった。 57年、母は創価学会の信仰に出あった。祈る姿は、日常の一部となっていく。橋本さんの心に灯がともったのは、高校生の時だった。 61年、岡山で開かれた「中国男子部総会」。壇上に立つ池田大作先生の姿に息をのんだ。真剣に語るその声。何より、自分たちに注がれるまなざし。 “師弟”という言葉はまだ知らなくても、心が揺さぶられた。それだけで十分だった。 それから14年。呉に再び戻り、建築の仕事に追われながらも学会活動に汗を流した。平和への思いを深める中で、忘れられない思い出を刻む。 75年11月8日。池田先生は、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑を訪れた。橋本さんは、役員として遠くからその場に立ち会っていた。 先生の声は聞こえない。だが、慰霊碑に向かって祈るその姿に、全身が震える思いだった。 3日後、先生は初めて呉を訪れる。 一人の壮年が、呉会館の近くにいた。当時、入会していたが信心には消極的だった。作業着のまま、遠巻きに見ていたが、池田先生は建物に入らず、近づいてきた。 「大作です。呉に初めて参りました」 先生は真っすぐに手を差し伸べた。 人間対人間の触発 壮年は慌てて、着けていた軍手を外し、池田先生の手を握った。この壮年は、橋本さんが後に結婚する妻・幸江さんの父だった。「真綿のような、柔らかい手だった」。そのぬくもりを、義父は生涯忘れなかった。 呉の男子部リーダーを務めていた橋本さんの目に映ったのは、友のなかに入り、包み込むように励ます先生の姿――。これが“師”という存在なのだと、橋本さんは心に刻んだ。 母は99歳まで生き抜き、2015年に亡くなった。数年後。姉が遺品を整理していた際、一枚の紙が見つかった。そこには、原爆投下直後、母が幼い橋本さんを背におぶって、広島市内へ入った様子が記されていた。 原爆の被害を語りたがらなかった母。橋本さんは70代になって、自身が入市被爆者であったことを知った。 やがて被爆者健康手帳を受け取り、説明を受ける中で、過去のがんの記録も重なった。心は静かだった。「生かされてきた」ことが、すべてだった。 慰霊碑で見た師の祈り、母の祈り、自分の人生。そのすべてが一つの線でつながっていた。 1975年11月の先生の広島訪問。戦後30年の節目だった。本部総会で先生は、二度と再び人類の惨劇を繰り返さないという決意を明確に示して、こう語った。 「時代は刻々と動いていく。天候の推移と同じように、晴れの時もあれば曇りの時もある。これからも、ある時は、暴風雨に遭遇するような場合もあるでありましょう。要はそうした変転に一喜一憂することなく、たえず原点を凝視しつつ正常な軌道へと引き戻していく力が、人々に備わっているかどうかであります」 創価学会の使命は人間の尊厳を冒し続ける“力”に対する、内なる生命の“精神”の戦いである、とも。 さらに語った。 「人間対人間の触発を通して、自他の生命を磨き上げるという開拓作業が、一朝一夕に成就しうるものではありません。だからこそ、結果としてもたらされるものは、いかなる風雪にも朽ちることのない金剛不壊なる生命の輝きなのであります」 橋本さんは建設会社に勤め、地元の自治会長としても尽力。人と人をつなぐことに心血を注いできた。 信仰の歩みも、妻と共に。聖教新聞の配達、題目、折伏――どれも二人三脚で重ねてきた。がんを患った友人には、こう語った。 「最高の良薬は、題目なんよ」 命の根幹を揺り動かす祈りが、どれほどの力を持つか。橋本さんは身をもって知っていた。 2020年。夫婦で新たな誓いを立てた。“2030年までの10年で、地域に希望を届けよう” 題目と地道な対話を重ね、この5年の間に3人の友が入会した。苦しむ人、孤独な人、将来に迷っていた人。それぞれが、自らの手で人生を動かし始めた。 「功徳っていうのは、御本尊がすごいってことを伝えることなんよ」 橋本さんの声には、深い確信が宿っていた。 戦争が奪ったものは大きい。だが、信仰が与えてくれたものは、それを越えて広がっていった。 今も橋本さんは広布に生きる。平和建設の誇りと誓いを胸に。師に学び、師と歩む人生の証しとして――。 ![]() 池田先生が広島の呉市を初訪問。一人一人を抱きかかえるように励ます。「健康で、長寿と福運の人生であってください」と(1975年11月11日、呉会館で) 命の奥が燃えた会長就任式 東京の空に、空襲警報が鳴り響いていた。7歳だった伊藤敏男さんは、母に手を引かれ、防空壕へと駆け込んだ。疎開先は、大分、三重――。 住まいは馬小屋のような場所。蛇やネズミが出るのも、日常だった。1945年8月15日、熊本でやっと戦争が終わった。待っていたのは、希望ではなく、極貧だった。 学校には小学校2年生から通い始めた。傘も教科書もない。アサリを売り歩き、新聞配達で家計を支えた。 父は靴職人になったが、仕事は続かず、家財を売り払う生活が続いた。母は夜遅くまで働き、伊藤さんも弟妹を思いながら働き続けた。 中学校卒業後、鮮魚店に勤め、やがて自分の店を持った。だが、病に倒れ、経営にも行き詰まる。 ついには父が突然、姿を消した。「父がいなくなり、母と私たちきょうだいだけの暮らしに。とにかく、生きることに必死でした」 借金も膨らみ、「もう死のうか」と母と泣き合った。 そんなある日、創価学会の座談会に誘われた。 「祈るしかない。もう、それしかなかった」 入会後、がむしゃらに学会活動に励み、生活は好転の兆しを見せた。 60年5月3日。伊藤さんは、日大講堂(当時)で行われた池田先生の第3代会長就任式に、男子部の分隊長として参加した。 入場した先生が通路で立ち止まった。見上げた視線の先には、戸田先生の遺影。そして、会場を揺るがすような師子吼が響いた。 「一歩前進への指揮を執らせていただきます!」 命の奥で、何かが燃え上がった。 「先生についていこう。命をかけて、広宣流布をやっていこう。そう決めました」 熊本に戻った伊藤さんは、“俺もやるぞ”と、決意を新たにした。 2年後の62年9月16日、熊本市の水前寺陸上競技場で第3回「九州体育大会」が行われた。池田先生は、戸田先生の“私は広宣流布へのレールをつくっていく”との言葉を紹介し、こう語った。 「今、私は、大変に生意気な言い方でありますが、恩師のつくられたそのレールの上を走る機関車を、皆さん方のご協力を得て、つくりつつあります。またその機関車ができ上がって、運転するのもお客を乗せるのも、また荷物を乗せるのも、目的地に向かってスピードをだすのも、全部、わが青年部の使命であるということを知っていただきたいのであります」 この日まで、伊藤さんは運営の一翼を担い、準備に奔走してきた。先生の声、先生の情熱に、心が震えた。“自分が走らなければ誰が走るのか”と決意が湧いた。 64年、熊本会館の開館式。質問会となった場で、伊藤さんは思いきって手を挙げた。 「どうして、1000部隊から、部隊旗が変わったのでしょうか?」 意気込んでの質問に、先生はユーモアを交え、笑顔で応えた。 「変える前に、君に相談しなくて申し訳なかったね」 その場が温かい雰囲気に包まれた。 先生は続けて尋ねた。 「男子部の中で、何か困ったことはないかい?」 伊藤さんは、病気で入院し、悔しい思いをしている先輩のことを伝えた。 先生は御宝前にあった果物を一つ一つ紙袋に入れ、伊藤さんに手渡した。 「これを持っていってあげてくれないか。彼によろしくね」 会えない友を思い、励ましを届けようとする真心。皆が胸を打たれ、場内は静かな感動に包まれた。 伊藤さんはその足で病院に向かった。果物を受け取った先輩は、涙をこぼしながら「頑張ります」と言った。 後日、池田先生が「努力」と記した色紙が、伊藤さんのもとに届けられた。 「それからずっと、私は一対一の家庭訪問に徹してきました。先生が一人を大切にされる、その姿が、私の信心の原点です」 のちに先生が筆を執った小説『人間革命』。冒頭の一節から涙した。 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」 父の失職、家族の離散、極貧の中での暮らし。そのすべてが、戦争や戦後の描写と重なり、読み進めるたびに目頭が熱くなった。 「赤えんぴつの線だらけになったその本が、人生の指針になりました」 信心に励むなか、母が、がんの診断を受けた。医師は「手術は不可能」と告げた。 「まだ死ぬわけにはいかん」 病床の母はそう言って題目を唱え続けた。 「病気を忘れるくらいに、力が湧いてきたようでした」 母は小説『人間革命』を読み、自身を鼓舞しながら、その後7年を生き抜く。 伊藤さんは昨年、86歳まで地域に愛される鮮魚店を営んだ。60年以上続けた店をたたみ、若い男子部員たちとも語らいながら、壮年部の家庭訪問に励んでいる。訪問の先々で、広布への思い、平和への誓いを語る。そして、師と共に歩んだ軌跡を伝えている。 仏間には、かつて、池田先生から手渡された紫の部隊旗が掲げられている。その旗を見つめながら、今日もまた祈りを深め、家を出る。一人の友を励ますために――。 「熊本の日」の淵源となった“花の撮影会”。先生は“どんなに荒れ狂う社会であっても、心の中にはいつもカーネーションの花がみずみずしく咲き誇る信心と人生を”と(1968年5月19日、大津町で) “今一番、悩んでいることを一緒に祈りましょう”――熊本・阿蘇の白菊講堂(当時)を初訪問し、自由勤行会で池田先生が呼びかけた。障魔の嵐に耐え抜いた同志を励まし、たたえた(1981年12月12日) |