| 第14回 わが城守る城主たれ 25年6月29日 |
我ら創価の前進は 人類のため 世界の平和のため![]() 「広宣大道旅」――1983年12月14日、兵庫池田講堂(現・西宮平和講堂)での幹部会で、兵庫の友に贈った書を紹介する池田先生。この日、兵庫の“地涌の菩薩”の幸福・勝利を願って、皆で万歳三唱も行った 君の背光には常に勝利が 西宮市の兵庫池田講堂(現・西宮平和講堂)が喜びに揺れた。1983年12月14日、池田大作先生は会場に入ると、マイクを手に語った。 「どうもご苦労さまでございます。毎日、毎日、大変なご苦労で、体を大事にしてください」「今日はこれから、関西だけ、兵庫だけというわけにはいきませんもんで、他から叱られてしまうものですから――」 笑い声が響く。 「全国の凱歌、栄光も含めて、ご一緒にご祈念をさせていただきます!」 共に勤行・唱題をした後、スピーチ。 「信心というものは、やはり勇んで乗り越えていくことが実をいえば、宿命転換であり、立派な仏道修行の結晶であることを自覚していただきたい」 さらに「広宣大道旅」と記された書を紹介。「共戦」「共進」「共生」の言葉を通し、創価の絆の力を訴えた。兵庫のリーダーを務めてきた得田昌義さんにとって、忘れ得ぬ場面となった。 ――1940年、得田さんは神戸に生まれた。空襲の記憶、焼け跡の暮らし。生きること自体が戦いだった。“何のために生きるのか”。高校卒業後、銀行員として働きながらも、その問いが心から離れることはなかった。 61年の6月。大阪市・港体育館(当時)での関西男子部総会。友人に誘われ、参加した。多くの青年が集い、熱気が空間全体を満たしていたことに驚いた。池田先生の姿を見た。 「毎日の生活で精いっぱいのはずの青年たちが、先生のもとで“日本の未来をどうするか”を真剣に考え、生きている。すごい団体だと思いました」――得田さんはそう語る。 帰りのバスの中で、すでに“創価学会に、池田先生についていこう”と決意していた。数日後、信心を始めた。 4年後、学会本部で池田先生と懇談の機会があった。両親のことなどを質問した後、先生は語った。 「職場にあっても、学会にあっても、君がいなければダメだといわれる存在になりなさい」 その一言に人生を定め、兵庫で使命に生きた。その中で、兵庫の友を励ます師の闘争に触れてきた。 67年から翌年にかけ、先生は兵庫を駆け巡った。姫路、初訪問の淡路島、豊岡……。「私が、じかに指揮を執るよ」。その言葉通りの激励行だった。 68年6月9日、西宮市の報徳学園で行われた兵庫青年部の記念撮影会。先生は、シャッターが切られる合間を縫って、語りかける。「どんなに苦しいことがあっても、皆さんは青年だ。“じっとこらえて今に見ろ”という気持ちで頑張っていこう!」 わずかな休憩時間。先生は控室で体を横たえ、タオルを額にあてていた。撮影台に友が整列すれば、再び立ち上がり、笑顔で激励。2時間を超える記念撮影は、命を削る戦いだった。 得田さんは、兵庫の男子部長を務めていた時、先生から書籍を贈られた。そこに、こう揮毫されていた。 ――たとえ、受難の日々があったとしても、君の背光には、常に勝利が輝いていることを忘れないでくれ給え。 ![]() 4千人を超す兵庫青年部との記念撮影会では、音楽隊と富士鼓笛隊の演奏も行われた。池田先生が音楽隊の友から楽器を借り、談笑する一幕も(1968年6月9日、西宮市内で) 師匠からの一本の電話 「もしもし、久しぶりだな」。その声を聞いた瞬間、得田さんは驚き、すぐに反応できなかった。1983年、兵庫県の佐用町で同志の激励に走っていた中で受けた一本の電話――。声の主は、池田先生だった。 「すまんな。苦労をかけるな」 この時、兵庫の友は立正安国の対話に奔走していた。その苦労を、先生は全て分かっていた。得田さんは姫路城を頭に浮かべ、「妙法の池田城を、必ず死守してまいります!」と答えた。 その言葉に、先生は何度も「そうか、すまんな」「ありがとう」と。師の真心が、電話越しに全身を貫いた。 87年、先生が北・中米訪問から帰国した直後、得田さんのもとに一枚の写真が届く。会館を背景に、先生ご夫妻が写っている。写真の裏には、筆跡鮮やかに一首が記されていた。 君もまた わが城 守りし 城主かな 一人を思い、数えきれぬ同志を励ました池田先生。その激闘と、師と共に立ち上がった友の奮闘があったからこそ、今の兵庫創価学会が築かれた。 6434人の犠牲者が出た阪神・淡路大震災の時もそうだった。未曽有の苦境に耐える兵庫と関西の友へ、先生は希望を送り続けた。 2000年2月29日。先生は長田文化会館を訪問。駆けつけた友に、「湊川はどっち?」と尋ねた。 南北朝時代の武将・楠木正成と正行。親子の別れを描いた歌“大楠公”を、戸田先生はこよなく愛した。「父は兵庫に赴かん」(落合直文作詞)――父・正成が最期を遂げた戦が、「湊川の合戦」だった。 湊川の方向を確認すると、先生はピアノで“大楠公”を奏でた。そして、皆で勤行した後、語った。 「よくここまで復興されました。しかし、まだまだ、これからが大変でしょう。私も応援を続けます。一生涯、お題目を送ります」 師匠の温かな言葉に、その場にいた皆が誓いを新たにした。師の励ましを胸に、兵庫の友は、災害にも崩れぬ「心のつながり」を地域に広げた。 先生は長編詩「『希望の港』に人間主義の賛歌」で万感の思いを詠んだ。 「わが兵庫の 信頼する友よ 強い人生を! 負けない人生を! 賢い人生を! 愉快な人生を! 価値ある人生を!」 会えない友にも心を寄せて 1979年4月24日、池田先生の第3代会長辞任が発表された。この4月から、聖教新聞社の受付で働き始めた洲崎美佐子さん。突然の報に、耳を疑った。 その日の夜、聖教新聞社で記者会見が開かれた。洲崎さんは、会見場の準備に当たった。夕刻には、マスコミ関係者が続々と詰めかけた。先生は投げかけられる質問に、一つ一つ誠実に、率直に答えた。会見終了後、先生は語った。 「大丈夫。私は何も変わらないよ」 優しくも、不安を吹き飛ばす力強い声。洲崎さんの心に、弟子として生きる決意が定まった瞬間だった。 洲崎さんの父は、草創期から埼玉の地で、広布に奔走してきた。家庭では時に不器用で、洲崎さんの目に映る姿は、厳しさばかりだった。 母は美容師として家計を支えながら、信心に励んだ。優しい、自慢の母だった。 洲崎さんが10歳の時、母が病に倒れる。洲崎さんは妹、弟と一緒に御本尊の前に座り、全快を祈った。幼い3人の必死の題目。だが、母は霊山へ旅立った。心にぽっかりと穴があいた。深い悲しみ、寂しさ。それを乗り越えたいと祈ることをやめなかった。 後に父は再婚。継母は惜しみない愛情を注いでくれた。嫌なことがあると、「また、お題目をあげられるね。みさちゃん」と、太陽のような笑顔で言ってくれた。いつからか、「お母さん」と自然に呼ぶようになった。 創価大学に進学し、放送部に入部。滝山祭の準備に明け暮れていたある夜、洲崎さんは一人で作業を進めていた。すると、懐中電灯を手に歩いてくる人に気がついた。池田先生だった。 「遅くまで、ご苦労さま。どこから来たの?」 驚きながら、汚れた手で、差し出された先生の手を握った。そのぬくもりが忘れられなかった。 大学卒業後、聖教新聞社に入社。女子部(当時)の活動に率先して取り組んだ。その中で、東京戸田記念講堂で先生との懇談の機会が訪れる。先生は家族の様子を事細かに尋ね、洲崎さんを励ました。 「あなたが大事なんだよ。あなたが成長していくんだ」 先生は、母のことも、継母のこともたたえた。 「亡くなったお母さんは、立派な人だった。大変な戦後の時代に、広宣流布のために、最後まで戦ったんだ」 「そして今のお母さんも、信心の強い、本当に偉い女性だよ」 言葉の一つ一つが心の底に染み渡った。“先生は、こんなにも深く、温かく、一人一人を包み込み、励ましてくださっているんだ”。感謝と決意が涙となってあふれ出た。 結婚後、子どもが生まれると、忙しい日々を送った。生活に追われ、“自分なんて、ちっぽけな存在なんだ”“自分は何の役に立つんだろう”と、寂しさや焦りの交じった感情に駆られることもあった。 そんな頃、夫の故郷である香港を訪れる。そこで、一人の女性と出会う。机の上には、すり切れた学会の冊子があり、先生の写真が掲げられていた。女性は来日したことも、先生の姿を見たこともなかった。 その高齢の女性は洲崎さんに言った。「私は毎日、池田先生と心で会話しています」。誇らしく話す声は晴れやかだった。海外の地で、地涌の誇りを胸に広布に献身していることに感動した。 どこでも、どんな境遇でも、師を思い、師に誓い、その誓いを果たそうと行動することができる――。女性の姿に、洲崎さんは弟子の生き方を学び、勇気をもらった。 2007年5月8日、埼玉池田研修道場を訪れた先生の言葉が、洲崎さんの心に残っている。 「今日は、お目にかかれなかった埼玉の同志のことを、祈ろう」 会えない友に心を寄せ、陰の労苦を思う――師の慈愛に胸を打たれた。さらに、先生は、師弟の厳格さをリーダーたちに深く打ち込み、こう語った。 「埼玉は、ますます発展していく。これからが本番である。一段と鉄桶の団結を固め、師弟直結の常勝埼玉を築いていただきたい」 「苦悩といっても、自分の小さなエゴのための苦悩ではない。もっと大きな苦悩、公のための苦悩のなかにこそ、偉大な人生がある。我ら創価の前進は、人類のため、世界の平和のためである」 胸中の師匠と対話しながら、一人でも多くの友に励ましを届けたいと誓う洲崎さん。埼玉、関東女性部の友と共に、報恩の道を朗らかに歩んでいる。 ![]() 2007年5月8日、池田先生が埼玉池田研修道場を初訪問。当時、総埼玉婦人部長だった洲崎さんはじめ、代表の友らと握手。埼玉から全世界へ、永遠に「師弟は不二」と叫び抜け、と語った |