第12回 人間としての栄冠を
25年4月29日
今世のみの家族ではない
広宣流布の行進は永遠に


サンフランシスコ・ジャイアンツからの顕彰を受け、セペダさんと野球のジェスチャーを見せる池田先生(2006年12月7日、東京牧口記念会館で)。セペダさんはかつて語った。「池田先生は、私にとってこの地球上で一番大切な人です」

二人を結ぶ信頼と敬意
 師と弟子のユーモアが、一瞬にして会場を“スタジアム”に変えた。2006年12月の本部幹部会。アメリカ・メジャーリーグの名選手だったオーランド・セペダさんが、一枚の額を掲げた。池田大作先生に贈る「サンフランシスコ・ジャイアンツ名誉選手」の顕彰状が収められていた。
 「これで、池田先生は、サンフランシスコ・ジャイアンツの一員です」。セペダさんの言葉が訳されると、先生はほほ笑み、右腕を振りかぶって“投球”。そして間を置かず、バットを振る動作で、“打者”のジェスチャーも加えた。場内に笑顔が広がる。
 「いつでも球場にお越しください!」とセペダさんが伝えると、先生はセペダさんに向かって“ボールを投げる”ポーズを。ニコリと笑ったセペダさんは、往年の強打者を思わせるスイングで応じた。
 すると、先生は宙を見上げた。セペダさんの打球をキャッチし、参加者の方へ投げるしぐさを。会場全体が沸く。見えないボールは、二人を結ぶ信頼と敬意の象徴だった。
 この日までのセペダさんの道のりは、平坦ではなかった。カリブ海に浮かぶプエルトリコのスラム街で幼少期を過ごす。貧しさや差別の中、少年を支えたのが、野球だった。17歳で渡米。知っている英語は「ベースボール」だけ。社会や球界にはびこる黒人差別の壁を実力で打ち破っていった。
 1958年、ジャイアンツでメジャーデビュー。新人王やMVP(最優秀選手)を獲得し、プエルトリコの英雄となった。
 そんな人生が、一夜にして崩れ落ちる。74年の引退後、麻薬密輸の容疑で逮捕。悪友に利用され、密輸に手を貸した形になった事件だった。
 裁判で実刑判決。仮釈放から間もなく、母を亡くす。何もかもを失った生き地獄のような日々。そんな中で出あったのが、池田先生の思想であり、SGI(創価学会インタナショナル)の同志たちだった。
 83年に入会。希望を見いだすその一方で、心の奥には、過去の汚名と劣等感がくすぶった。人目を避け、サンフランシスコに戻る勇気もなかった。
 ある夜、電話が鳴った。地元の地区部長からだった。「日本から交流に訪れる同志がいます。空港で一緒に迎えて、荷物を運ぶのを手伝ってもらえませんか?」。その言葉を聞いた途端、怒鳴って断った。心の中で、“おれはオーランド・セペダなんだ!”と叫んだ。ゆがんだプライドが邪魔をした。
 しかし、題目を唱える中、あらゆる出来事に意味を見いだす、池田先生の指導が浮かぶ。そして自分を省みた。“特別扱いされることを、どこかで当然と思っていた。自分を一人の人間として大切にしてくれた同志に、背を向けていいのか”――。後日、空港へ向かい、笑顔で友を歓迎した。
 セペダさんは自著(『オーランド・セペダ自伝』潮出版社)に記している。
 「小さな出来事ではあったが、何の報酬も見返りも求めず、誰かのために、より大きな理想のために自分を喜んで捧げようとする、私の人生のはじめての行動だったかもしれない」
 それから、題目を唱える時間を大切にした。友人を会合にいつも誘った。もう一度、野球に関わる仕事がしたいという夢に向かって歩き始めた。

サンフランシスコ・ジャイアンツの特製ユニホームが、オーランド・セペダさんから池田先生に。「200の名誉学術称号の受章」という歴史的な偉業を慶祝するもの。同球団の最高執行責任者からは「私どもの真心からの尊敬のしるしとして、お受けください」との祝福の言葉が伝えられた(2006年12月7日、東京牧口記念会館で)

野球殿堂入りした1999年の12月、来日したセペダさんが本部幹部会に出席。池田先生の声が響いた。「勝ちましたね、セペダさん。ご夫妻は勝ちました!」。セペダさんが身を包んだのは白いスーツ。殿堂入りの式典で一度だけ着用した記念の服だった

広宣流布の名選手に
 再起したセペダさんに、子どもたちにスポーツを教える団体から声がかかった。過ちを犯した過去、人生の痛みを若者たちに赤裸々に伝えた。講演依頼は相次ぎ、ついには古巣・ジャイアンツからも声がかかった。球団の広報活動を担った。
 一人の人間として、人々に語りかけていった。社会貢献が注目され、野球選手として最高の栄誉である殿堂入りを望む声が、次第に高まった。
 周囲の多くが確実視した。しかし1994年に行われた投票結果は、7票差での落選となる。セペダさんの失望は、一瞬だった。すぐに祈りへと変わった。後日、池田先生から伝言が届く。
 「次の5年間が一番大事なのです」
 それは、“終わり”ではなく、“始まり”を告げる師の期待だった。
 以前にも増して、一つの出会いに真剣に向き合った。学校や病院、刑務所で人間の可能性を語り続けた。
 5年後の99年3月1日。この日も、近隣の同志たちと唱題をしていた。電話が鳴った。伝えられたのは、異例の殿堂入り。誠実な生き方が認められた。人間としての勝利の証しとなった。
 同月の本部幹部会。先生はセペダさんの偉業をたたえ、歩みに言及した。
 「“ようし、俺は、広宣流布の名選手になろう!”。彼は『自行化他』の仏道修行に挑戦し、自分自身を変え、環境を変えていった。どこまでも真剣であった」
 「彼は苦悩の中で、人生の真髄をつかんでいた。もう迷わない。もう一回、立ち上がって、戦って、今度は本物の『人間としての栄冠』をつかむのだ! まさに『煩悩』即『菩提』――『悩み』即『成長』のドラマであった」
 同年7月25日、ニューヨークの野球殿堂入り式典の会場には、約5万人が集まった。全米にテレビ中継される中、セペダさんは力強く語った。
 「私は、師匠である池田SGI会長に心から感謝したいのです。会長の指導によって、私は、人格を磨き、良き人間へと成長することができたのです。苦しみも、反感も、怒りも乗り越えることができたのです。サンキュー・センセイ!」

2006年6月の来日の折、オーランド・セペダさんから池田先生に、セペダさんの名前や背番号「30」が刻まれた特製ボールやバットなどが手渡された(2006年6月15日、東京牧口記念会館で)

池田先生がオーランド・セペダさん、ダニエル・ナガシマさんに励ましを(2006年6月15日、東京牧口記念会館で)

「『心こそ大切なれ』だよ!」
   広布の舞台では地区部長として友に尽くしたセペダさんは昨年、86歳でその生涯を終えた。共に歩み続けた同志の一人がダニエル・ナガシマさん。セペダさんが亡くなる数日前まで連絡を取り合う仲だった。
 セペダさんが、最初の殿堂入りを逃した時のこと。400人に及ぶ投票記者一人一人に、感謝の手紙をつづるよう勧めたのが、ナガシマさんだった。
 セペダさんが再起を目指した90年代、二人で“題目で勝とう!”と誓い合った。プエルトリコに誕生した「セペダ通り」へ一緒に赴いたことも。晩年、電話をすれば話題はいつも池田先生のことから始まった。
 ナガシマさんは語る。
 「オーランドは先生を命の底から慕っていました。彼には、“先生はどん底にいた自分の心を感じ取ってくださる”という実感がありました」
 ナガシマさんもまた、幼き日から幾度となく、師の心に触れてきた。ナガシマさんの母は、先生が「二月闘争」で壁を破った1952年、蒲田支部の地区部長の確信に触れて入会する。
 母は小さな書店を営んでいた。唐草模様の風呂敷を背負い、書籍の仕入れに歩いた。聖教新聞社に仕入れに行くこともあった。ある日、そこで声をかけてくれた人がいた。
 「お母さん、本は重いでしょう?」
 その声の主が池田先生であったことを、母は何よりの誇りとした。信心を貫き、懸命に生活を支える母の姿は、ナガシマ少年の胸に深く刻まれた。
 学生時代、ナガシマさんは静岡で先生との出会いを結ぶ。先生の姿を見た瞬間、力いっぱい叫んでいた。
 「先生、おはようございます!」
 あいさつに込めたのは、“先生と共に人生を歩む”との誓いだった。師を求める叫びに、先生は「君は元気がいいね」と。さらに続けた。
 「創価学会は、君たち青年のものだ。しっかり頼むよ」
 「青年は、たとえ一人になっても、広布の使命を果たしていくんだ」
 73年、ナガシマさんは世界広布の情熱を燃やし、単身アメリカへ渡る。訪米した先生は、一人一人を抱きかかえるように励まし、青年に全幅の信頼を寄せた。サーチライトを当てるようにして陰で奮闘する同志を見つけ、たたえる。その姿を通して、広布のリーダーの姿勢を胸に刻んだ。
 89年、ナガシマさんは全米青年部長に就任。翌90年2月、先生はアメリカを訪問。ロサンゼルスで行われた研修会で語った。
 「私どもは、今世のみの家族ではない。久遠以来の兄弟である。『今世だけの絆』と見るのはあまりにも浅い見方である」
 「この仲間とともに、現在から未来へ、『広宣流布』という、平和と文化と人間のための行進を、永遠に続けていくのである」
 アメリカ滞在の最終日、ナガシマさんは先生に、「先生に直結していきます」と決意を伝えた。先生は厳しい口調で「言葉じゃないよ! 『心こそ大切なれ』だよ!」と。
 師弟の「心」とは何か――。この年、第2次宗門事件が勃発。ナガシマさんは同志を守り、破和合僧の企みを打ち破るため、全米中を奔走した。
 ある日、ミュージカル「ラ・マンチャの男」を鑑賞する機会があった。主人公ドン・キホーテの後を、家来のサンチョ・パンサがついていくシーンを見て、ナガシマさんはハッとする。
 “今までの自分は、「師弟」と口にしながらも、先生の後をただついていくだけだったのではないか”
 “先生ならどうされるか”を考え、先生と同じ方向を向いて行動する――そうした弟子に自らが成長し、アメリカ青年部を構築しよう、と決意した。
 3年がたった93年、サンフランシスコでの青年部総会の折、先生はユーモアを込めて、ナガシマさんがかけている「メガネがいい」と。そして、こう続けた。「あと、心がいい」。その一言に、熱いものが込み上げた。
 96年6月、訪米中の先生に同行していた時、日本にいる母が危篤との知らせが届く。ナガシマさんは帰国。病室で「母さん、ありがとう」と語りかけると、母の閉じたまぶたから涙がこぼれた。ほどなく、母は旅立った。
 ナガシマさんは葬儀を終え、アメリカに戻った。アメリカ創価大学のロサンゼルス分校(当時)で先生と懇談する機会があった。
 夕暮れ時、「今夜はブルームーンだよ。一緒に見よう」と先生。丘を登った。月が見えるまで、先生は生命と自然の営みが一体であることを語った。
 やがて、夜空に満月が昇る。先生はナガシマさんを見つめ、輝く月を指さした。
 「ほら、お母さんが笑ってるじゃないか」
 先生の真心に涙があふれた。そして、母への感謝と、先生と共に生きる喜びに心は満ちた。
 後に、ナガシマさんはアメリカSGI理事長を務めた。時に、先生から「私がどういう思いでメンバーを守ろうとしているのか、君はわからないのか」と叱咤されたこともある。その厳愛の指導に、ナガシマさんは“何があってもメンバーを守り抜く。絶対に幸せにしてみせる”という師の慈悲と気迫を感じた。
 2010年の春、先生はナガシマさんに語った。
 「本当にアメリカは大切だ。未来のアメリカを育てていくんだ」
 ナガシマさんは今、グアムの地で同志と拡大に挑む。ここ2年ほどで、機関紙の購読者も、会合参加者の数も大幅に増加した。
 師の偉大な姿を、ナガシマさんはアメリカSGIの友に語り続けている。
 「最前線の地区や支部に飛び込んで、先生との誓いを果たしていく。その人生を歩み抜いていきます」

本部幹部会の折、池田先生が広布のリーダーに励ましを。ナガシマさん(右手前)が決意を込め、応える(2005年12月8日、東京牧口記念会館で)

地平線に太陽が沈み、ロサンゼルスの空と大地を赤く染める。池田先生が、光と影が織り成す“美の絵巻”を写真に収めた(1996年7月)。移ろいゆく色彩は、生々流転する大自然の呼吸のように