| 第11回 この素晴らしき沖縄を見よ! 25年3月23日 |
| 21世紀の平和の舵取りを 高く掲げられた右手の三色旗 降り続いていた雨がやみ、太陽の光が恩納村の沖縄研修道場に差し込んだ。1995年3月21日、池田大作先生は同研修道場を訪問した。 三色旗を手にした先生は、出迎えた友に「ありがとう! みんな元気だったかな?」と語りかけた。 研修道場内に設置された鐘が、先生の視界に入った。「あの鐘、誰かたたけないかな。鳴らないかな」 その言葉に、県長だった桃原正義さんが反応した。鐘の音が鳴り響くと、先生は右手の三色旗を高く掲げた。 鐘は、陰の労苦を誉れとする沖縄鉄拳会(設営グループ)の手で設置されたものだった。友の真心に報いる激励となった。 先生は構内を歩き、整備された花々を見つめた。 研修道場が開所したのは77年。悲惨な沖縄戦を経験した友らが、敷地の草刈りに汗を流し、施設の清掃に真心を込めた。 沖縄戦で両親を亡くした人がいた。飢えとマラリアで苦しんだ人がいた。終戦後、落ちていた銃弾が爆発し、弟の命を奪われた人がいた。誰もが平和への思いを携え、研修道場の整備に当たってきた。 その心を、誰よりも深く知っていたのが池田先生だった。この訪問の折、守る会の友に感謝し、和歌を贈った。 沖縄の 広宣流布の 道場は 今日は霊山 明日は仏土か ![]() 戦後50年の節目となる1995年の3月21日、池田先生が恩納村の沖縄研修道場を訪問。設置された鐘の音が鳴ると、手にしていた三色旗を空へ掲げた。同研修道場は、きょう、リニューアルオープンを迎える 「戦争を二度と起こさない」 太平洋戦争末期の45年3月26日、米軍が沖縄の慶良間列島に上陸。凄惨な地上戦が始まった。 “一木一草といえどもこれを戦力化すべし”の号令のもと、全島が要塞化された。沖縄は本土防衛のための「捨て石」にされた。 総勢55万人の米軍は、当時の沖縄の人口よりも多かった。陸海空からの米軍の猛攻撃は、沖縄の地形までも変えた。軍人よりも住民の犠牲ははるかに多く、県民の「4人に1人」の命が奪われたといわれる。 戦後、サンフランシスコ平和条約が発効され、日本は主権を回復した。だが、沖縄はアメリカの施政権下に置かれ続けた。東西冷戦下、沖縄は“基地の島”となり、67年、沖縄には1300発もの核兵器があったという。 戦中だけではない。戦後も、沖縄は「捨て石」にされたのである。 60年代、沖縄の4カ所に広島型原子爆弾の70倍の破壊力を持つ核ミサイル「メースB」が配備された。 その一つの基地跡に誕生したのが、沖縄研修道場だった。83年3月20日、道場を初めて訪問した先生は、ミサイルの発射台の前に立った。発射台は、すべて取り壊される予定だった。 だが、先生は「永遠に残そう!」と提案した。 「『人類は、かつて戦争という愚かなことをした』との一つの証しとして」 「『戦争を二度と起こさない』との誓いを込めて」 翌84年、発射台の上に6体のブロンズ像が設置され、「世界平和の碑」の除幕が行われた。先生の提案によって、戦争の基地跡は、平和を発信する“要塞”に生まれ変わった。 ![]() 1995年3月21日、池田先生は機上の人となった。目的地は、凄惨な地上戦が始まった3月26日から50年となる沖縄。羽田空港を離陸後、窓の外に雲が流れ、やがて富士山が現れた。曇り空に浮かぶ白雪の頂き。先生はカメラを向け、その姿を収めた 「おばあちゃん、万歳!」 1995年3月21日から始まった、池田先生の沖縄での激励行。沖縄の多くの友と絆を結びつつ、兵庫や大阪、北海道、東京、岩手など各地の同志へ和歌を贈った。 研修道場内では、来場者を迎える物産展が開かれていた。琉球ガラス、三線、壺屋焼、紅型など伝統工芸の店が並ぶ。先生は道場に到着後、連日のように訪れ、三線の音色を聞き、七宝焼の絵付けも行った。沖縄文化に精魂を注いできた一人一人を励ました。 平良和さん(故人)は、沖縄本島北部の大宜見村に生まれ育った。14歳の時から母の元で、沖縄伝統の芭蕉布を織る仕事に就く。結婚後、夫は戦地のフィリピンで命を落とした。 先生が第3代会長に就任し、沖縄を初訪問した60年、信心を始めた。仏法対話に歩くと、“ヤマトガミ(本土の宗教)なんて拝むな”と批判された。それでも、信心の喜びを語り広げた。一人息子を病で失う悲哀を味わった時も、信心が揺らぐことはなかった。 大宜見村・喜如嘉の芭蕉布は国の重要無形文化財。平良さんは、物産展で機織りを実演した。 先生は見学した折、84歳の平良さんをはじめ、実演していた友に優しく声をかけ、握手を交わした。先生との思い出を宝に、平良さんは90歳を越えても、現役で芭蕉布に心を込めた。 自宅にはいつも、近隣の高齢者が集まり、座談の花が咲いた。さびしさや不安をこぼす人を笑顔にした。 朝4時半に起床し、2時間の唱題が日課だった。周囲に「動けるまで働くさー。いつも題目をあげているからね。御本尊様に感謝の毎日さー」と語った。元気な姿は、縁する人たちの心に生きる勇気をともした。 ![]() 沖縄研修道場での物産展で芭蕉布の機織りを実演した平良和さん(左端)をはじめ、大宜見村の友に声をかける池田先生。握手を交わし、「ありがとう。一生、忘れません」と(1995年3月) 池田先生は物産展で、沖縄菓子のサーターアンダギーを振る舞う店にも立ち寄った。店頭で笑顔で迎えたのが、金城真津さん(故人)だった。 金城さんを知る友は、「沖縄のおばーの代表のような女性でした」と振り返る。今帰仁村で生まれ、沖縄戦の時には、北部の“山原”で生き延びた。戦後、紡績工場で働くも、苦労は絶えず、夫は仕事に失敗。失意の中で、信心に希望を見いだした。 料理が得意で、女性部の友を娘のように温かく包み込むのが常だった。先生、同志と共に歩む日々は、人生の色彩を“暗”から“明”に変えた。 先生はサーターアンダギーを購入すると、「うまいね。おいしい」と。 「アハハ、うれしい!」 金城さんの無邪気な笑い声が響いた。先生は周囲の役員にも勧めた。店を離れる際、先生は言葉に力を込めた。 「おばあちゃん、万歳!」 その一言は、沖縄戦のことを語ることがなかった金城さんの心を、いつまでも温め続けた。 ![]() 池田先生が物産展でサーターアンダギーを振る舞う店へ。運営する女性部員や金城真津さん(左から2人目)を激励した(1995年3月) 沖縄青年部の平和の取り組み 24日、先生は、研修道場のミサイル発射台跡内部に設けられた「沖縄池田平和記念館付属展示室」に足を運ぶ。青年部の平和運動のパネルを見ると、「尊い」と2回、繰り返した。 沖縄青年部は、81年から戦争体験者による「沖縄戦の絵」を描く運動を始めた。沖縄戦の写真資料として残っている多くは、米軍が撮影したもの。沖縄の人々の悲惨な思いを記録した資料は、ほとんどなかった。 取り組みを始めてから数カ月がたっても、絵は1枚も集まらなかった。沖縄戦を経験した人にとって、思い出すこともつらく、苦しいことだったからである。 青年たちは戦争体験者のもとを訪れては、自分たちが平和を継承していく思いを語っていった。その真剣さが、体験者の心を動かし、約700点の絵が寄せられた。 泣きながら描いた1枚の絵。高齢の女性が孫にクレヨンの使い方を教わり、何日もかけて描き上げた絵――。 85年から始まった「沖縄戦の絵」展は、県内の各市町村を巡回。一部は複製パネルを作成し、平和教育の資料として、今も県内の学校等で活用されている。2022年からは、沖縄戦体験者への聞き取りをもとに制作した「沖縄戦の紙芝居」の貸し出しもスタート。シナリオ作成と作画を中心的に担ったのは、青年部である。 師が平和への闘争を託した記念総会 「きょう三月二十六日は五十年前、沖縄戦が開始された日である」 「第1回沖縄記念総会」の冒頭、先生はそう切り出し、言葉を続けた。 「その日を『アジア・太平洋の世紀』の開幕記念として、第1回沖縄記念総会が開催されたことは、深い意味がある」 「私は毎日、沖縄戦のすべての犠牲者の方々を追善しているが、今朝もねんごろに追善させていただいた」 県長だった桃原さんは、「池田先生が私たちの思いまで話してくださるようでした」と述懐する。先生の一言一言が、沖縄の友の心を抱擁し、深く刻まれていった。 先生は語った。 「沖縄は生き生きと伸び、発展しておられる。本当にうれしい。日本と世界に向かって、『このすばらしき沖縄を見よ!』と私は申し上げたい」 安東京香さんは、青年部の「群星合唱団」の一員として歌や演舞を披露した。当時22歳。百貨店に勤めながら、練習に励み、初めての池田先生との出会いを刻んだ。沖縄の友を慈愛深く見つめる師の姿が目に焼き付いている。 結婚後、試練に見舞われた。誕生した長男・奏音さんには眼球がなく、さまざまな障がいがあった。現実を受け止めることができなかった。 夫・大作さんの仕事の都合で関東で暮らしていた。見知らぬ土地での心細さ。病院通いの苦労に周囲の目。外で母子と接すると心は沈んだ。 創価家族のぬくもりが大きな支えだった。信心で立ち向かう中、池田先生の前で披露した群星合唱団の思い出が前へと進ませてくれた。 人生において何が勝利なのか――。何度も涙を拭い、祈る中で感じたことがある。それは「弱気になったとしても、諦めずに前を見ていること。戦う心を失わないこと」。 母は宿命転換を懸けて戦った。一歩また一歩と強い人間へと自らを成長させていった。奏音さんも、すくすくと成長していった。目は見えなくとも、「奏音」と名付けたように、生きる喜びを奏でている。奏音さんは妹の星彩さんと大の仲良し。「家族の賑わいが幸せの証し」と安東さんは実感する。 学会創立100周年の2030年、奏音さんは20歳を迎える。安東さんは母として、「先生に“こんなに幸せになりました”って言える家族でありたい」と明るい声で語る。 安東さんは5年前の20年、家族で沖縄へ戻った。沖縄広布の使命を胸に、子育てに、活動に元気に励んでいる。 先生は沖縄記念総会で、こう未来への期待を寄せた。 「二十一世紀の『平和の大航海時代』の舵取りは、沖縄健児が担うべきである。また、必ずや担ってくださると私は確信している」 国内外から多くの要人や識者を迎えるまでになった沖縄研修道場。きょう23日、リニューアルオープンする。核ミサイルの発射台跡を保存した例は世界でもまれだという。近年、メディアでも報じられ、平和学習で高校生や大学生が訪れている。 かつては公然の秘密であった沖縄に核があった事実。発射に至るかもしれない危機があった事実。その歴史を体感し、誰もが平和への思いを新たにしている。 ![]() 50年前、沖縄戦が始まった日に開催された第1回沖縄記念総会。沖縄戦の歴史を振り返った池田先生は、権力の魔性の残酷さを訴え、平和への闘争を友に託した(1995年3月26日、沖縄研修道場で) |