第9回 病魔を打ち破る大確信
25年2月2日
• 広宣流布のために頑健金剛の身体生命にさせ給えとの祈りを忘れるな
全ての瞬間に師弟の劇あり

梅雨空の下、磐梯山の山容は少しかすみ、アヤメの色彩は滴に光っていた。1995年6月16日の午後、池田大作先生は猪苗代町にある福島研修道場を初めて訪れた。
「雨の研修道場も、いいじゃないか」
本館のロビーにはジオラマ模型が置かれていた。この日、栃木から移動した先生は、「栃木はどっちの方角かな」「白河は?」と質問。地元幹部が答えていく。「なぜ、猪苗代と言うようになったんだい?」との問いに応じたのは道場の管理者だった。来館者に何でも説明できるよう、郷土史や民話を勉強していた。「そうか! ありがとう」と先生は深くうなずいた。
6日間の福島滞在で、先生は信心の指針を送り、寸暇を惜しんで友を激励した。来場者のために開かれた物産展ではテントを回り、一人一人に声をかけた。友を思い、“大楠公”をピアノで奏でた夜もあった。
21日、帰京の途につく直前。見送る友の列に沿って歩き、ユーモアを交えながら、一人一人に感謝を伝えた。
「皆さん、ありがとう」
「忘れないよ、胸に入っているよ」 「幸せになるんだよ」
笑顔が咲き、決意が深まる。全ての瞬間に師弟の劇があり、喜びがあった。

当時、東北長を務めた上田金治郎さんは昨年6月、推敲した原稿を携え、仙台市から福島研修道場へ向かった。行われたのは福島・新世紀圏の「家族総会」。新世紀圏の友は、東日本大震災による原発事故で全町・村避難を強いられた。
言うに言われぬ苦労に思いを寄せ、上田さんは東北広布史を振り返った。
「東北としても、また福島県としても、池田先生の最後の激励行はここ、福島研修道場であり、歴史的にも重要な意義があると思います」
95年の福島研修道場での師の言葉を、新世紀圏の友に紹介した。
「この誉れ高き福島の天地に、私どもの力で、人材の『宝の山』を堂々と築いてまいりたい。心こそ大切である。人材を見つけよう、人材を育てようという心が『宝の山』を築く土台となる。若い人を育てれば、自分も若くなる。学会員のために尽くせば、自分が幸福になる。『心』である。『心』で決まる」
上田さん自身、この思いで病と対峙し、友に接してきた。2017年、左まぶたに皮膚がんを患う。手術から3年後に再発。次は8時間に及ぶ手術を受け、皮膚を再形成した。その後も眼球とまぶたを摘出する可能性もあったが、陽子線治療などが功を奏した。経過観察が続く中、“ここで負けるか!”と師弟の魂を語り続けている。

「学会についてくるんだよ」「役員だね、お世話になりました」――帰京の直前まで、一人一人の友の顔を見つめ、励ましを送る池田先生(1995年6月21日、福島研修道場で)

世界を包む境涯
1953年12月、14歳の上田さんは母に続いて入会。同月20日、先輩と東京へ。男子青年部総会に参加した。
総会の席上、25歳の池田先生が「水滸の誓」を基本にした宣誓を、戸田先生の前で烈々と訴えた。その場で意味を理解できずとも、凜然たる池田先生の姿と声は、若き心に刻まれた。
上田さんは、人と接することが苦手な青年だった。それでも、仏法対話や訪問・激励に果敢に挑戦した。
1958年4月2日、戸田先生が逝去。恩師の告別式が行われる8日、上田さんは上京。早朝、学会本部に到着すると、広間に数十人のメンバーが集まっていた。
その場に、池田先生が姿を見せ、一人一人に声をかけた。「どこから来たの?」と尋ねられた上田さんは、「仙台です」と答える。そして、父が病に伏し、母が家計を支えていること。大学進学を諦め、漠然とした不安が拭えないことなど、胸の内を語った。
池田先生は温かかった。
「大丈夫だよ! 私についてきなさい。負けずに信心を貫くことです。必ず思いもかけない境涯になります」
「本当に大丈夫でしょうか……」と口にすると、先生は「大丈夫だ!」と力強く応じた。その確信に、上田さんは“学会の中で戦い切ろう”と腹を決めた。その後、国鉄(現・JR)の職員となり、連結手として働く。男子部の誇りを胸に父母を支えた。

60年5月3日、池田先生が第3代会長に就任。1年後の61年5月17日、東北三総支部の結成大会が福島で開催された。終了後、リーダーとの懇談会で、先生は“新しい東北の歌の制作を”と提案した。
だが、歌の作成は遅々として進まなかった。2カ月が過ぎた7月、先生は東北男子部の総会に出席。その折、歌の制作状況を尋ねた。
まだ準備段階との返答を聞くや、先生は壮年や婦人に遠慮する青年たちの姿勢を指摘。「いつも真っ先に立ち上がるのが青年部ではないか」と訴えた。
以降、青年が中心となり、歌作りが進む。やがて歌詞ができた。作曲に苦心するも、上田さんが部隊歌にと作っていた曲があった。それをもとに、上田さんが歌詞に合わせた曲を作った。
11月20日、東北本部の落成式で“東北健児の歌”として発表。先生は「素晴らしい歌だ。学会歌として全国で歌うようにしよう」と。歌詞に手を加え、「新世紀の歌」と新たな曲名も付けた。
翌日、上田さんは先生と懇談する機会があった。「今どうだ?」。恩師の告別式の日に話した内容を、先生は克明に覚えていたのである。
師の慈愛の深さに感動しながら、上田さんは近況を報告。先生は欧州初訪問を振り返りながら語った。
「私は世界広布を始めたばかりだよ。世界というと人種、文化、言葉も違う。宗教というと、仏教は少ない。日蓮大聖人の仏法を知る人は、ほとんどいない。だが、見ていなさい。世界広布は、あっという間にできるよ」
そして、親指と人さし指の間を少しあけて、「南無妙法蓮華経は宇宙大なんだ。それから見れば、地球はちっぽけなものだ」と述べ、「私は御本尊に祈り抜いて戦っているんだ。君は今、悩みがある。これからもあるに違いない。しかし、何があっても祈り抜くんだ。そして学会と共に、私と共に戦おう!」と呼びかけた。
世界を包む境涯に触れ、上田さんの返事が部屋に響く。先生が続けた一言が、心の奥にいつまでも残った。
「ただ心配なのは、私の体力が続くかどうかだけなんだよ」
命を懸けた闘争に続く弟子にと誓った。その後、上田さんは東北男子部長、同青年部長を歴任。池田先生と共に、東北に人材の城を築いていった。

1969年10月31日、宮城県スポーツセンター(当時)で行われた宮城総合本部幹部会。池田先生が「新世紀の歌」の指揮を。この2年前、同じ会場で、永遠の指針「人材の牙城・東北たれ」が発表された

微に入り細をうがつ指針
第1次宗門事件の渦中にあった78年、先生は北海道から九州まで10方面を訪れ、30曲ほどの学会歌を作る。8月6日には東北の歌「青葉の誓い」も発表。山形の県長だった上田さんはこの年、原因の分からない高熱が長く続き、苦しんでいた。
師の激闘を思えば、病魔を破れぬ自分がふがいなかった。同年10月、先生は上田さんに厳しい口調で語った。
「勤行をしっかりやらなければ、病気に負けてしまう!」
日夜、唱題を重ねていた。だが、師の言葉に、祈りの姿勢を見つめ直した。翌11月の下旬、先生から手紙が届く。
「少々、生命力と身体が衰弱しておるように見受けられ、君の健康を心より心配しております」との一文で始まる手紙は、原稿用紙3枚に渡った。
「連続の昼夜をわかたぬ県長としての重責と大任の指揮のための激務なれば、当然の理と思うが、指導者というものは、大勢の人びとの依怙依託であり、柱でもあるが故に、あらゆる方途を講じながら、健康の姿にいつもいつも満ち満ちていなければならない」
「そのためにも、第一に勤行を、余裕をもって深々と行うこと」
「第二には、あらゆる価値的な生活法を考えて(生み出しながら)、睡眠をとること」
「第三には、全力をあげて行動する時、余裕をもちながら指導、活動をする時を、リズム正しくわきまえなければならない」
「最後に、ただひたすらに、広宣流布のために頑健金剛の身体生命にさせ給えとの強く深い祈りが根本であることを忘れまい」
微に入り細をうがつ指針だった。
「どうか、大切な山形創価学会のために、君の第二期の偉大なる信心と、人生の転換期と思って、新出発あられん事を祈ります。幹部諸兄を兄弟の如く大切に、そして、その幹部諸兄に呉々も宜しく」
師の慈愛に泣き、「新出発」の文字が心のもやを払った。79年1月、県長を交代した。翌2月、先生から「その後はどうだ」と聞かれ、「まだ分かりません」と返す。すると、先生に「結核じゃないかな」と言われた。
検査をすると、結核菌による仙腸骨関節炎と判明した。若い時に罹患した肺結核による珍しいケースだった。
すぐに入院。手術を受けた。4月24日、病床で先生の会長辞任を知る。愕然とし、悔しかった。ほどなく、“5月3日記念”と記された封筒が届く。原稿用紙に先生の文字が見えた。

光明を
断じてわするな
われは待つ

度重なる配慮に心が震えた。あふれる涙は、蘇生への決意となった。歩行もできなかったがリハビリに挑み、翌80年秋、広布の最前線に復帰。5年後、上田さんは東北長に就任し、友の激励のため、東北6県を駆け巡った。
師から、何度もリーダーの姿勢を教わった。89年9月、先生は旧・東北文化会館を訪れた折、功労の先輩をたたえた後、上田さんの方を見て、「君はこれからだ。今の千倍戦うんだ! 絶対に威張ってはいけない」と語った。
95年6月の最後の東北指導。福島研修道場での会合を終えた後、先生は言った。「弟子たちが戦いに出発するんだ。見送ろう」
沿道に立ち、バスで帰る同志に手を振る先生の姿を、上田さんは心に深く刻んだ。
上田さんは今も、“命の限り、報恩の道を”と、原稿を10枚、20枚と書きつづり、師の正義を語り抜く。その胸に、先生の言葉が響いている。
「皆を励ますんだ。行くところ、向かうところ、枯れ木にパッと花が咲くように。心が軽く、明るくなる話をするんだ」

雄大な空と湖面の青がさえ渡る。池田先生が青森の東北研修道場を訪れた折、十和田湖の自然美にカメラを向けた(1994年8月23日)

1994年9月、宮城県白石市の東北池田記念墓地公園を訪れた池田先生は、同志が丹精込めた“花づなの森”を歩いた。「んだ、んだ」と東北弁を交え、友と和やかに語らう