| 第8回 共に核なき世界を 24年12月29日 |
| • 使命に燃えた民衆の連帯こそ • 核兵器を廃絶する最強の力 平和記念公園に響いた題目の声 晴れた秋空が広がっていた。1975年11月8日、池田大作先生は広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑を訪れた。被爆2世の学会員を代表して、男子部員と女子部員(当時)が献花のための花輪を運ぶ。慰霊碑にささげ、二人が左右に分かれると、池田先生が慰霊碑の前に立った。 静寂に包まれた中、池田先生の題目を唱える声が響いた。献花した女子部員は、こう証言している。 「『南無妙法蓮華経』という先生の声が3回、公園に響いたことをよく覚えています。題目三唱の後、くるっと振り向かれた時の表情を、私は忘れることができません。紅潮した、とても厳しいお顔で、怖いくらいでした」 師匠の気迫に、思わず後ずさりしたほどだった。先生は彼女に「ありがとう。体、大丈夫?」と優しく声をかけ、握手を交わした。先生の温かさと共に、題目の力強さが心に刻まれた。 「ものすごい祈りを込められた題目だったのでしょう。原爆で亡くなったたくさんの人たちが、先生の題目を聞いたのでしょうね。そう感じました。すごかったんです、本当に」 先生はこの時、被爆者でもある当時の広島市長に思いを語った。「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています」 師匠のこの言葉が、「特に胸に迫ります」と語るのは、松浦信江さん。今年の夏、東京から訪れた孫と広島平和記念公園へと出かけた。 亡き夫・唯幸さんは被爆者だった。夫は原爆のことを決して口にしたがらなかった。明年は原爆投下80年。改めて今、夫の深い悲哀と核廃絶への決意が、信江さんの心に迫ってくる。 「池田先生の広島への心、平和の誓いに胸を打たれて、夫は勝利の人生を送れました。誇りに思っています」 ――信江さんは戦後、広島県北部から広島市内に転居してきた。原爆投下から3年。全てが破壊された町の「寂しい印象」が心に深く残った。家族を失った苦しみ。生き残った苦悩。原爆の後遺症。生活の再建を目指しつつ、誰もが塗炭の苦しみにあえいでいた。 自身の家庭も暗かった。生まれた翌年に父を病気で失う。母と4人きょうだいの暮らしは貧しかった。 「4人が生活のためにばらばらに親戚に預けられました。食べていくだけで精いっぱい。私は郵便局で懸命に働く母と暮らしましたが、いつも独りで寂しく、おなかがすいていた。母の帰りを泣きながら待っていました」 人生に光がともったのは、終戦から9年が過ぎた1954年。母が郵便局の仕事先で、仏法の話を聞いた。母や姉が信心を始めたものの、信江さんは反対だった。だが、姉と女子部の会合に出てみると、心の景色が変わった。 「自分の変革に挑戦するという姿勢が新鮮でした。“自分も努力すれば、何かができるかもしれない”。そんな希望を感じたんです」 57年1月26日、池田先生は広島地区の総決起大会に臨むため、広島に第一歩をしるした。高校生の信江さんは母や姉と、その集いに参加した。 ![]() 1975年11月8日、広島の平和記念公園を訪れた池田先生。原爆死没者慰霊碑に献花し、祈りを込めた。翌日、広島での本部総会で「この地上から一切の核兵器を絶滅する日まで、最大の努力を傾けること」を宣言した “先生はじっと見ている” 広島地区の大会で池田先生は、“難にひるまぬ信心”“清らかな信心”“一生涯、不退の信心”との指針を示した。会合終了後、青年たちとの懇談に。「みんなで輪になろうよ。きょうは同志愛の歌を教えてあげよう」。青年たちとの合唱が始まった。 「友の憂いに/我は泣き/我が喜びに/友は舞う……」 繰り返し、一緒に歌った。「そうじゃない、こうだよ」と、優しく語り掛ける先生。歌声が、次第に力強くなっていく。同志愛の大切さを心に刻む場となった。 初訪問の2日後、先生は日記にこう書きとどめている。 「宿命打開と、広布の布石に、全力傾注の闘争せり。その実証、いつの日に出づるや」 信江さんは、姉と共に女子部の部隊長として、広布にまい進した。「信心したら功徳があるけぇ、折伏しんさい」。先輩の言葉を信じて対話に駆けた。バスや電車がなくなれば、皆で学会歌を歌いながら夜道を歩いた。今、全てが青春の思い出と輝く。 池田先生と共に人生を歩む中で、原爆の惨劇から蘇生していった広島の人々。信江さんが活動の中で知り合った唯幸さんも、その一人だった。 1945年8月6日の朝。10歳の唯幸さんは、爆心地から800メートルの場所で被爆する。建物の高い壁のそばを歩いていたため、倒壊した壁の下敷きとなり、頭部に傷を負う。血まみれになりながら、何とかはい出した。 奇跡的に一命を取り留めた。だが、憎き原爆は父や母、姉や妹の命を奪った。一人になった唯幸さんは、戦地から生きて帰ってきた兄に育てられる。 原爆の影響は、白血球の減少など、自らの体に次々と現れた。苦しみの連続だった。亡くなっていく人々を見聞きすると、やるせなかった。唯幸さんは書き残している。 「やがては自分も同じ運命をたどるのかと思うと、不安と病苦で、人生は灰色であった。内気で孤独、ヒネくれた性格は、ますますこうじていった」 親を失った悲しみ、孤独は拭いようもなかった。造船所の技師として働き始めた時、仏法の話を聞いた。ためらい、踏み切ることができなかった。「必ず立派な人材になれる」「体も良くなる」。紹介者の確信ある言葉が胸を離れず、56年に入会した。 被爆の苦しみは続いたが、広宣流布の歓喜と、蘇生のうねりの真っただ中で、唯幸さんは自らの変化を感じた。手記につづっている。 「もっと本気で頑張れば、原爆病もきっと、治るぞ、十年間抱いたことのない明るい希望と喜びが、雲がわくように大きくなるのを禁じえなかった」 「妙法で蘇生した生命であるから、一生を広宣流布のために戦うことを決意した」 57年7月17日、池田先生が選挙違反という無実の容疑で不当逮捕されたことに抗議して開かれた大阪大会。怒りに燃えて広島から駆けつけた。大阪市中央公会堂の外で雨に打たれながら、不退転の決意を定めた。 同年9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で「若人の祭典」が行われた。席上、戸田先生が青年への遺訓の第一として、「原水爆禁止宣言」を発表。民衆の生存の権利を脅かす核兵器を使用したものは、「これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」と喝破した。恩師の宣言は、唯幸さんの胸を感動で包んだ。 平和への闘争を誓うが、肺結核を患う。入院生活は1年半に及んだ。病魔克服を強く祈り、退院後は清新な決意で、広布に走り抜いた。 男子部の部隊長に就任した時、池田先生から1枚の写真が届いた。裏には「共に元気に」と記されていた。 唯幸さんは、“被爆し、絶望した人生から立ち上がった自分を、先生はじっと見ている”と感じた。一つ一つの広布の戦いに全力を注いだ。 やがて、原爆症の症状は収まり、中国方面の高等部長などを担った。信江さんと結婚後、唯幸さんは聖教新聞社の職員になった。 ![]() 広島文化会館で行われた広島県総会(1983年4月2日)。戸田先生の祥月命日でもあるこの日、池田先生は恩師の遺徳をしのびつつ、一生成仏のための信心の姿勢などについて語った ![]() 中国第1・第2本部結成大会が行われた後、清掃に当たっていた青年部の役員たちを励ます池田先生。「ここから何百人、何千人、何万人の戸田城聖が、また池田大作が出てもらいたいのです。それが私のただ一つの念願です」と全精魂で激励を(1963年10月19日、広島県立体育館で) お父ちゃんの願い――二度と戦争のない世界を 原爆の後遺症で、かつては2時間動くと、横になって休まざるを得なかった体。その後遺症を乗り越えた唯幸さんは、聖教新聞の輸送・配達の業務を担った。 時に本紙を運ぶトラックに乗って、各家庭に届くまでのルートの確認に回った。池田先生から書き贈られた「生涯 若武者の意気を失わず」との言葉のままに、中国各地を飛び回った。 だが、1982年1月、唯幸さんにがんが見つかる。すでに手の施しようがなかった。信江さんは付きっ切りで看病をした。唯幸さんは体よりも仕事のことばかりを気にかけた。 亡くなる前、唯幸さんは息子たちに語り聞かせた。 「10歳で被爆して『20歳までは生きられない』と医者から言われた私が、47歳まで生きた。『生き抜いた』ことが、わが子に残せる、ただ一つの財産である。あとは被爆2世の使命を持つ君たちが、二度と戦争のない世界をつくるために戦っていきなさい。それが、お父ちゃんの願いだ」 息子たちは当時、長男は大学生、次男は高校生、三男は中学生だった。82年12月に夫が旅立つと、信江さんは3人に強く言った。 「これからは、あんたらが広宣流布のために生きていくんよ!」 覚悟はしていたが、夫を失った悲しみは深かった。信江さんは、その思いの丈を手紙に記して、先生に届けた。先生は「いつか、お子さんと一緒にお会いしましょう」と伝言を贈った。 翌83年1月、次男が学ぶ創価学園で、先生は母子4人を温かく激励する。 「お父さんは亡くなられたけれども、これからは兄弟3人で力を合わせて、日本一福運のある家庭を築いていきなさい」 その後、信江さんは事務の仕事に就く。懸命に働き、子どもたちに愛情を注いだ。 85年、先生が出席して、第6回世界青年平和文化祭が開催された。 「永遠の平和 広島」 フィナーレで浮かび上がった白い大きな文字を、信江さんは目に焼き付けた。“夫の分も、子どもたちと共に”。広島の地で妙法を実践する使命をかみ締めた。 文化祭の翌日、先生は原爆投下の目標とされた相生橋に立ち、原爆ドームを望んだ。そして、原爆死没者慰霊碑に向かい、追悼の祈りをささげた。 この日、世界46カ国・地域のSGIメンバーが慰霊碑に献花。メンバーはさらに、原爆病院を訪れて被爆者と対面し、核兵器の悲惨さを心に刻んだ。 先生はつづった。 「私は心強かった。偉大な使命感に燃えた、民衆の『平和の連帯』の世界的拡大こそ、悪魔の兵器の暴走を止める最強の力だからである」 夫の分も、わが足元から「平和の連帯」を築いてきた信江さん。84歳になった今、3人の息子家族はじめ、師の平和への誓いを継ぐ創価の青年たちの成長が、何よりの誇りだ。 「池田先生が私たちに教えてくださったことは、『時代は民衆が自らの手でつくっていくもの』ということです。闇が深くとも、必ず道は開けていく。次の若い世代が創価の心を受け継いでいってほしい」 その思いのまま、信江さんは日々、同志のもとへと歩く。“私の一歩から恒久平和は開かれる”と確信して――。 ![]() 1985年10月21日、池田先生は、原爆の投下目標にされた広島市の相生橋に。後年、先生は中国の友への長編詩に詠んだ。「原爆か。/平和か。/愚かな人類が/やがてまた/この二つの道を交差しながら/憎しみの葛藤を持ちながら/ヒロシマの悲劇を繰り返すことを/決して 断じて/許してはならない!」 |