| 第7回 広布の母に永遠の栄光あれ 24年12月8日 |
| • 平和を願うならば、平和の準備をせよ! • すなわち、断固として広宣流布せよ! 広布の途上で亡くなった同志を偲び 八王子市の東京牧口記念会館が、歓喜に包まれた。2001年9月23日、千葉青年部の第1回総会。池田大作先生の予期せぬ出席に、青年たちの歓声が上がった。 池田先生はスピーチで語った。 「大聖人の仏法は、民衆のための仏法である。ゆえに、大聖人は、民衆の中で生まれ、民衆とともに生きることを、何よりの誇りとしておられた。どんなに身分が高かろうが、財産があろうが、そんなものは、生命の次元から見れば、幻である。どれも、来世まで、持っていけるものではない」 「いちばん大事なのは、わが生命の中に、三世永遠に崩れぬ“幸福の城”を築くことである。そのための仏法であり、仏道修行なのである」 総千葉女性部総主事の鳥井規代乃さんは、婦人部(当時)のリーダーとして参加した。先生の「私は、縁した方々が亡くなられた後も、信義を貫き、三世永遠の幸福を祈ってきた」との言葉が、ひときわ胸に響いた。 広布の途上で亡くなった同志に思いを寄せる先生。そのぬくもりを、鳥井さんも心から感じてきた。 池田先生と初めて出会ったのは、67年ほど前と記憶している。広布の会場として提供していた福岡の自宅を、先生は幾度か訪れた。両親から違う部屋にいるように言われたが、好奇心が勝る。ふすまの間から様子をのぞくと、優しい声が聞こえてきた。「そこから見ていないで、こちらへおいで」。池田先生だった。戸田先生と父・柴田邦彦さんが語らう様子も印象に残る。 母・宮子さんは幼い長男と次男を疫痢で失い、悲嘆の中で1954年に入会。福岡支部の初代婦人部長、九州総支部婦人部長を務めた。九州各県を駆け巡り、山口や島根、遠く種子島や奄美大島にも広布の足跡を刻んだ。 信心をして7年の歳月を重ねた61年。宮子さんは会合に参加するため訪れた熊本で、霊山に旅立つ。心臓病だった。残された4人の子どもは、3人姉妹と一番下の男の子はまだ6歳。突然、悲しみに突き落とされた一家を、懸命に励ましたのが先生だった。 第3代会長に就任して1年。先生は、宮子さんとの早すぎる別れを心から惜しんだ。葬儀に出席し、子どもたちを力強く励ました。翌日、空港でも「生命は永遠なんだよ」と、見送りに来た姉妹に語った。 当時17歳の鳥井さんは悲哀の底で、師匠の心、同志の思いやりに胸打たれた。婦人部の先輩はしばらくして、姉妹を熊本へ案内してくれた。母が歩いた道をたどりながら、母の様子を聞かせてくれた。 葬儀から3カ月後、先生は欧州の平和旅へ。「夢はヨーロッパに仏法を弘めに行くこと」と語った宮子さんを偲び、近くの店へ立ち寄った。子どもたちへの土産を求めた。先生の胸中から、共に戦い、苦労を分かち合った同志のことが離れることはなかった。 49歳で亡くなった宮子さんは、小学校までしか学べなかった。仏壇の横で、御書に黙々とふりがなを振って読む姿が鳥井さんの心に深く残った。母を胸に、家族は信心を継承していった。 ![]() 2001年9月23日に行われた第1回千葉青年部総会。池田先生は後継の友に万感の期待を寄せ、「創価学会も、青年で勝ってきた。青年が炎となって戦ったから、勝ってきたのである」と(東京牧口記念会館で) 真っすぐに師を求めて 鳥井さんは結婚して子どもが生まれた後、離婚する。池田先生の励ましを何度も思い返し、広布に生きた母を浮かべ、祈りを重ねた。後に再婚。先妻を病で亡くした夫にも2人の子がいた。新しい5人家族で和楽を築いていった。 1983年7月27日、鹿児島の九州研修道場(当時)に「母の碑」が建立される。鳥井さんの母・宮子さんをはじめ、広布に生き抜いた全世界の母をたたえ、顕彰するもの。池田先生は碑文に刻んだ。 「草創長征の旅路にあって 常に共戦の同志を支えしは 健気なる婦人の群像なり 戦争を憎み 平和を愛するが故に すべてを妙法流布に賭けたる崇高の日々 この尊き人々に 私は無上の 讃辞を贈りたい 広布の母に 永遠の栄光あれと」 この日、先生と共に皆で題目を三唱し、除幕式が行われた。鳥井さんはじめ一家も参加。父・邦彦さんは師の真心に恐縮し、決意を深めた。 福岡支部の初代支部長を務めた邦彦さんは、妻の訃報を先生と同じ静岡の地で聞いた。先生は“悲しみも寂しさも強く乗り越え、共に妙法に生きよう”と励ました。その言葉を、邦彦さんは胸に抱き締めた。宮子さんの分も、広布の人生を生き抜くと固く誓った。 真っすぐに師を求めた邦彦さんは、同志の励ましに奔走し、九州広布の礎の建設に汗を流した。 88歳で亡くなる3年前のこと。邦彦さんの病床に花が届けられた。先生からだった。師の真心に泣いた。 退院して87歳の時には、子どもたちを家に呼び、一緒に勤行を。鳥井さんは小さくなった父の背中を見つめた。勤行が終わると、前を向いたまま、邦彦さんは居住まいを正して言った。 「いよいよ人生の終わりの時が来ました」。右上を向いた。視線の先に、池田先生の写真があった。「先生、こんな私を……。ありがとうございました!」。師へのあふれる感謝。そんな父の娘であることを、鳥井さんは心から誇りに思った。 2001年、鳥井さんは先生と懇談する機会があった。「九州の柴田の娘です」とあいさつすると、先生は母をたたえて語った。 「お母さんが信心に頑張った分、子ども、孫にいたるまで遍く功徳・福運がゆきわたり、必ず守られます」 鳥井さんの姉・明石恭江さんは大阪の地で常勝の使命に生き、今春、霊山へ旅立った。妹・林邦江さんは福岡で県女性部総主事を務める。弟・邦幸さんは福岡の施設で朗らかに生活する。鳥井さんの3人の子や孫たちも信心の後継者として成長している。 01年の千葉青年部総会。先生は訴えた。 「平和を願うならば、平和の準備をせよ! すなわち、断固として広宣流布せよ!」 「宇宙の根本法則である妙法を持つ私たちこそ、根本の平和主義者であり、広宣流布こそ、具体的な平和への行動となる」 池田先生と共に両親が歩み抜いた広布の道。一家全員が報恩の心を燃やし、その道に続いている。 ![]() 1977年5月24日に行われた福岡県の功労者追善法要。池田先生は功労の同志の遺族を激励。前から2列目に、父・邦彦さんはじめ鳥井さんたち姉妹の姿も(北九州文化会館〈当時〉で) ![]() 広布の母をたたえる「母の碑」の除幕式(1983年7月27日、九州研修道場〈当時〉で)。碑は後に、大分の九州池田記念墓地公園に移設された “妙法の外交官”に 物心がつくと、中村靖範さんは母への不信感を抱いた。戦時中に生まれ、生後5カ月で両親が離婚。結核を患う父はまともに働けず、非国民扱いを受けた。母の実家が別れを迫った末の苦渋の選択だった。 病身の父との生活は、中村少年にとって不安な日々だった。中学2年の時、その父が他界。中学校卒業後、働きながら定時制高校に学んだ。 20歳になる頃、母が自宅を訪ねてきた。話を聞くうちに母の思いを知る。慚愧の念があったこと。父を追善し、恩返しをしたくて、信心を始めたこと。息子の幸せを願い、信心を伝えたくて思い切って会いに来たこと……。 母の愛情に触れ、入会を決めた。その母に背中を押され、静岡から東京へ転居。アルバイトに励み、大学を目指した。 1963年の秋、師との出会いがあった。男子部の会合終了後、池田先生は役員一人一人と握手。中村さんの前に立つと、「顔色が良くないね。どこか病気かな?」と。 軽度の結核と闘っていることを伝えると、先生は「そうか。私も結核だった。大丈夫だ! しっかり信心しなさい」と、力強く手を握った。中村さんは勉学と学会活動に挑戦する中で、病魔を克服していった。 大学進学後、外交官を目指したが、結果は不合格。その後、先生と懇談の機会があった。不合格をどう伝えるか戸惑っていると、先生が口を開いた。 「聞いてるよ! 良かったじゃないか。これからは“妙法の外交官”を目指しなさい!」 “妙法の外交官”という新たな目標に向かって出発を開始した時、先生が創立した民主音楽協会で働くことが決まった。しかし、音楽経験に乏しく、不安が募った。そんな中村さんを奮い立たせたのも、先生だった。 「誰しも、苦手なこと、嫌いなこと、逃げたいことに挑戦してこそ、自身の可能性を開花できる」 師の万感の激励に、腹を決めた。演劇の企画を担い、後に音楽資料館の準備で書籍の収集作業に奔走した。 74年11月27日、北新宿の「民音音楽資料館」(当時)を池田先生が訪問。事務室に入った先生が真っすぐに向かったのが、常勤顧問を務めていた小川昻さんのもとだった。NHK資料センターのセンター長などを務めた音楽情報学の第一人者である。設立の労を担った小川さんに感謝を伝えた。 その後、先生は館内を回った。資料館の一室で、小川さんに語った。 「この民音と創価大学があれば、どんな弾圧や迫害があっても、再建できますね」「芸術と教育の世界から必ず優れた後継者が現れるよ。地涌の義だもの」 学会員ではない小川さんに、自らの心情を率直に語る先生の姿に、中村さんは感動した。小川さんも胸打たれたのだろう。この日を境に、小川さんは先生のことを「池田さん」ではなく、「池田先生」と呼ぶようになった。 97年9月22日、先生は民音文化センターを初訪問。古典ピアノ室で中村さんの姿を見ると、先生は声をかけた。 「やあ、しばらくだったね!」。続けざまに「中村君、悔いはなかったかい? 妙法の外交官!」と唐突に語った。あの悔しい不合格から約30年。中村さんは衝撃にも似た感動に打たれつつ、「悔いはありません!」と応じた。 中村さんは学芸員として、世界中から民音を訪れる来賓を案内した。その中には、先生と交流を結ぶ海外の要人もいた。“妙法の外交官”としての使命を果たす日々だった。 胸に残るのは2002年。インドネシアのワヒド元大統領が民音を見学した。脳卒中で倒れ、ほとんど視力を失った元大統領は、中村さんの説明に耳を傾けた。中村さんの名前を尋ねると、笑顔を浮かべて言った。 「あなたは本当に幸せです。もう何十年も世界の指導者・池田先生にお仕えしているんですから。これ以上の幸せはありません」 ![]() 民音の音楽資料館(当時)を訪れた池田先生が、小川昻さんたちと視聴閲覧室へ。ヘッドホンを耳に当て、ベートーベンの「交響曲第5番」に聴き入る(1974年11月27日) ![]() 民音創立者の池田先生が、開館直後の民音文化センターを初訪問。芳名録に「祈、世界一の発展 祈、芸術運動の先駆 祈、人間文化の夜明け」と記した(1997年9月22日) |