第6回 労苦に輝く「生命の勲章」
24年11月3日
時代がどう動こうが、これだけは譲れない
• その学会精神の根幹が、師弟の魂である
新生の第一歩

人生の幾つもの山坂を越える力をくれた師匠が、そこにいた。2010年4月2日、創価大学の第40回入学式。池田大作先生は壇上に姿を現すと、来賓にあいさつ。新入生の方を向くと、右手を胸にあてた。スピーチでは新出発を祝福した。
この時、通信教育部に孫と共に入学した宇都宮千枝さん。中継会場で、その模様を見つめた。包み込むように励ましを送る池田先生。温かな振る舞いに目頭が熱くなった。胸には学ぶことができる喜びがあふれた。
――1931年、父が仕事で赴任した台湾で生まれた。戦時下の青春は激動だった。42年、父が病死。終戦後、日本への引き揚げ船は地獄だった。衛生状態は悪く、乳飲み子は次々に亡くなった。埋葬もできず、投げ込まれた遺体は海へと沈んだ。
引き揚げ後、学校でげたを売り、生活の足しにした。母・ヤスコさんと東京へ出ると、米軍将校の家に住み込みで働いた。
やがて結婚し、娘が生まれた。ところが、夫は家庭を顧みない。61年、宇都宮さんは30歳で離婚を決断。“孤独で病弱な母のような人生にはなりたくない”と思ってきた。気付けば、同じ不幸の道をたどっていると感じた。
苦難は続いた。母が胃がんを患い、医師は残された時間を告げた。その中で、母は入会。題目を唱える母のやせた背中を見ると、ふびんに思った。
当初、宇都宮さんは信心に猛反対だった。しかし、最後の親孝行のつもりで、形だけ入会した。“宗教なんて無駄”が本心だった。
ところが、医師の余命宣告を覆し、母の病状が劇的に回復する。確かな実証に、宇都宮さんは信心の力を感じ、学会活動に励むようになる。
離婚後、美容の専門学校へ通い、美容室を開店した。店舗のバックヤードに仏壇を置き、仕事に取り組んだ。1畳半ほどのスペースで、娘と重なるようにして眠った。
67年4月12日、池田先生が出席して行われた中野・杉並の合同幹部会に参加。その折、質問会が行われた。宇都宮さんは、とっさに手を挙げた。名前を伝えると、先生は語った。
「皆から、『千枝ちゃん、千枝ちゃん』と親しまれるようにね」
美容室の経営は軌道に乗らず、心に余裕がなかった。「今、とても苦しいです」と素直に打ち明けた。先生は優しいまなざしを向けて語った。
「信心は、悠々と楽しみ切っていくんだよ」
ちょうどその頃、宇都宮さんは、あるポスターの家族写真のモデルに起用されていた。そのポスターを見た先生は、「明るくていいね」と。さらに、「現実の生活の上でも、明るく進んでいくんだよ」と語った。
宇都宮さんの心には、離婚した夫への憎しみの感情が渦巻いていた。師の励ましが胸に突き刺さった。自身を変革するんだ!――新生の第一歩を踏み出した瞬間だった。

2010年4月2日、創価大学の第40回入学式に創立者・池田先生が出席。アルメニア共和国の「エレバン国立芸術アカデミー」から、先生に「名誉博士号」が授与された

祈りで開いた使命の道
1969年秋ごろから、学会批判の嵐が起こる。発端は、学会批判書を書いた著者に、学会のリーダーが事実に基づく執筆を要望したことだった。著者は、それを言論弾圧として騒いだ。あらゆるメディアが非難の集中砲火を浴びせた。
渦中の70年、本部総会に参加した宇都宮さんは、もどかしさに焼かれる思いだった。師匠への侮辱をはね返したかった。“自分に言論の力がなくとも、言論で戦う若い人たちの陰の力にでもなれたら”。その夜から猛然と祈りを開始した。
経営が振るわなかった美容室は閉店し、着物着付けの教室で働くことに。着物に関する書籍編集も担った。その後、月刊の婦人雑誌「婦人と暮し」の編集者の話が舞い込んだ。
すべての経験が生かされ、文筆の使命の道が開けた。はつらつと仕事に臨んだ。学会活動も一歩も引かず、セミナー講師として各地を回った。
家事評論のライター、文芸部の女性の中心者の一人だった宇都宮さんに、86年、広布文化賞が贈られた。その折、池田先生はスピーチで、社会にはさまざまな勲章があることに触れつつ、語った。
「大切なことは、永遠に輝く不滅の『生命の勲章』を持つことである。社会も、世間の評価も、人の心も絶えず変わっていく。ゆえに、自らの使命の道で、自分らしく、いつまでも変わることのない『我が生命の勲章』を輝かしていく人こそ、真実に幸福な叙勲者なのである」
宇都宮さんは師が示した「わが生命の勲章」が輝く道を、真っすぐに進んだ。先生は和歌を贈るなど、折に触れて励ましを送り続けた。
93年11月、母・ヤスコさんが霊山へ旅立った。師を求め続けた人生だった。先生はヤスコさんの生涯をたたえ、別海町の北海道研修道場に桜を植樹することを提案。一人に真心を尽くす師の深い慈愛に、宇都宮さんは報恩の決意を強くした。
翌94年夏、宇都宮さんは同道場へ足を運んだ。「ヤスコ桜」の前で、信心を教えてくれた母への感謝を伝えた。この年の8月10日、池田先生も訪問。同志と共に、緑を茂らせる「ヤスコ桜」が師を出迎えた。
宇都宮さんは、昨年もセミナーで登壇した。これまで講演した回数は、1088回。参加者は、30万人を超えている。93歳の今なお健筆を振るう。先月も一般紙への投稿が掲載され、戦争の悲惨さを訴えた。

創価文化の日に開かれた各部合同記念大会。池田先生が広布文化賞などを一人一人に授与。着物姿の宇都宮さん(右から3人目)も壇上に(1986年11月3日、創価大学で)

池田先生が北海道研修道場を訪れた折、別海町の自然をカメラに。晴れ渡る大空のもと、緑の大地が命を育む(1994年8月)

「その名 炎と 諸天も讃えむ」
40年以上前の情景が、鮮明に残っている。三重研修道場での諸行事のために設置した仮設トイレ。全ての行事が終了した後、下村博明さんは撤去作業を担当。埋め込み式だったため、悪戦苦闘した。
気が付くと、月明かりの下での作業になっていた。雨が降り始め、足元はぬかるんだ。だが、「誰も見ていない陰の労苦こそ、『中部炎の会』の魂だ」と心は燃えた。
各種行事の設営を担う「中部炎の会」。その淵源は、1971年に行われた中部文化祭の大道具係にある。名称を提案したのは池田先生だ。先生は友の献身をたたえ、「いついつも 陰の陰にて 戦いし その名 炎と 諸天も讃えむ」と詠み贈っている。
作業が無事に終わり、下村さんは夜空を見上げた。大きな月が輝いていた。自然と先生の笑顔が浮かんだ。雨と汗にぬれた顔は誇りに輝いた。
85年10月7日、先生が出席して三重池田青年塾(当時)の開所式が行われた。同青年塾の建設に携わったことは、下村さんの生涯の誉れだ。
福岡の炭坑で働く父に続き、母と共に入会したのは8歳の時。小学生の時から一般紙を配達した。
男子部の先輩の人柄にひかれ、自らも学会の中で薫陶を受けた。輸送班(現・創価班)の一員として、同志に尽くす喜びを五体に刻んだ。
鉄工所で旋盤工として働いた。福岡から大阪へ転勤し、その後、三重へ。どの場所でも、仕事にも学会活動にも全力投球した。
74年10月6日、伊勢市の三重県体育館(当時)で開催された三重県総会。下村さんは、場外の整理・誘導役員に就いた。
総会には妻・美代子さんが参加していた。席上、池田先生は「“信心の勇者”は、それに即して“生活の勇者”という姿を現すものと、私は信じています」と確信を語った。
この日は、「三重の日」に制定された。下村さん夫婦にとっても原点の日となった。
76年、夫婦は待望の子どもを授かった。が、胎盤早期剝離によって死産となる。悲しみに打ちひしがれる中で、夫婦は信心で立ち上がると決めた。
さらに、試練が下村さんを襲った。会社が倒産の憂き目に遭った。それでも、「信心の勇者」としての誉れを胸に、宿命転換を祈り続け、新たな職場に「工場長」として移った。
87年、下村さん夫婦は会館管理者に。美代子さんの胸には、90年5月8日の出来事が、今も鮮やかに輝く。
この日、津文化会館の外で、側溝の清掃をしていた。しゃがみながら、軍手でゴミを拾っていると、クラクションが鳴る音がした。振り返ると、車中の池田先生の笑顔が飛び込んできた。
先生の励ましは、華々しく活躍する友だけでなく、陰で使命に徹する同志にも、サーチライトで照らすように注がれた。この時も、三重文化会館を初訪問する前に、津文化会館に立ち寄り、会館管理者に真心の激励を送ったのである。
下村さん夫婦が管理者を務めた会館では、夏に近隣の方々を招いて催しが行われた。夫婦も、会館が地元の人々から愛されるように努力を重ね、地域の絆を育んだ。
夫婦は、先生が三重を訪問した折の諸行事を陰で支えた。それが、何よりの喜びだった。
先生は三重の友に贈った随筆につづっている。
「学会には、学会の行き方がある。時代がどう動こうが、これだけは譲れない」「その学会精神の根幹が、師弟の魂である」
心に師を抱き、師への誓いを果たそうと行動する中に、師弟の魂は脈動する――陰の労苦に徹してきた下村さん夫婦の確信である。

1985年10月7日、三重研修道場内に建てられた「三重池田青年塾」(当時)の開所式に池田先生が出席。“常に師匠と共に!”との、弟子の情熱が込められた“師弟の宝城”だった。先生は、建設に携わった友に「三重紅将会」との名を贈り、功労をたたえた

池田先生が「学会とともに歩む姿勢だけは堅持してほしい」と訴えた第1回「岐阜県青年部記念集会」。先生は、帰路に就く青年たちのバスに手を振り、最後まで全精魂の励ましを(1977年4月29日、三重研修道場付近で)