| 第4回 信心をたもち抜いた人が勝利者 24年8月25日 |
| • 仏法は最大の力と最大の希望の源泉 師匠との勤行 宗門の悪侶と退転・反逆者による広布破壊の謀略の嵐が吹き荒れた第1次宗門事件。秋田や大分とともに、福井はその激震地だった。 1977年、32歳の森岡正昭さんは福井県青年部長に就いた。一日一日が激闘だった。毎日のように、悪侶らから罵詈雑言を浴びせられた。それでも「学会厳護」の心に燃え、池田大作先生の正義を語り抜いた。 ――奈良県の都祁村(当時)で生まれた。病弱で消極的な性格だった。高校の時、奈良市で下宿生活を始めた。下宿先のおばさんが学会員だった。“宗教は老いた人の精神修養”と思っていたが、座談会の底抜けの明るさに興味が湧き、信心を始めた。仏法対話の末、両親を入会に導いた。 大学卒業後、鉄道会社に勤務。その後、聖教新聞社で記者として働き始めた。記事の書き方を学び、取材を重ねたものの、自分が書いた原稿に自信が持てない日々が続いた。 ある時、社内の一室で勤行をしていると、扉が開いた。振り返ると、池田先生が立っていた。 「勤行は、そんな小さな声ではいけない。一緒にやろう」 師子を思わせる力強い響き。師匠の勤行の声に合わせ、“先生の弟子として、すべての人に尽くす思いで筆を執ろう”との決意を胸に刻んだ。 体験談の取材で、岡山県のハンセン病療養所で働く女子部員(当時)と会った時のこと。森岡さんは先生の真心を伝える思いで、出会った入所者たちに手を差し出した。 当時はまだ、ハンセン病への偏見は根深く、入所者は激しい差別にさらされた。森岡さんの行動に、皆が涙を流し、手を握り返した。 言葉には魂が宿る。森岡さんが担当したその紙面を、池田先生はたたえた。 深夜の電話 「人間っていうのは、温かく接していくことが大事だよ。温かく接すれば、必ず温かい組織になる」――福井県青年部長に就任する前、先生が森岡さんに送った励ましだ。 師の指針を胸に、森岡さんは学会批判が猛り狂う福井の地を駆け回った。信心が揺らぐメンバーのもとを一人また一人と訪ねては、“もう一度、決意新たに頑張ろう”と握手を交わした。 だが、退転・反逆者たちがすぐに訪問したメンバーに、学会に対する暴言を放ち、脱会をそそのかす。森岡さんが再び、そのメンバーに信心を貫いていくよう励ます――。毎日、神経をすり減らす攻防戦が続いた。 79年4月24日、池田先生が第3代会長を辞任。暗澹たる日々が続いていた同年9月22日の深夜、森岡さんの自宅の電話が鳴った。 「森岡君、元気か!」 池田先生の声だった。驚きと同時に、目に涙があふれた。 先生は「福井が心配になって電話したんだよ」「あの人はどうしている?」「あの方の子どもさんは?」と矢継ぎ早に尋ねた。森岡さんは一つ一つの問いかけに答えながら、福井に寄せる師の深い真心に胸を熱くした。 森岡さんは池田先生に、1978年12月に武生文化会館が落成したことなどを伝え、「ぜひ福井に来てください!」と力を込めた。 先生は「行きたいんだけれど、行けないんだよ」と述べ、こう続けた。 「皆が、かわいそうでならない。皆の悲しみを思うと、私の心は苦しい」 「福井の皆さんも悔しいだろう。しかし、こんなことが、いつまでも続くわけがない」 「仏法は勝負だ。正義は必ず勝つ! 10年後には、はっきりするよ」 池田先生が第3代会長を辞任した79年、関西の友は“次の10年を開こう”と立ち上がった。次の10年を目指しての福井の前進は、さらに加速した。 その後も、先生は森岡さん、家族にも励ましを送り続けた。森岡さんの長男・伸城さんには発達障がいがあった。80年の関西訪問の折、先生は「祈るだけではだめだ。祈り抜くんだ。祈り切るんだ。そして夫婦して、学会活動し抜くんだ。必ずよくなるから。私も題目を送るからね」と語った。 伸城さんは後に、学校でいじめに遭う。それでも負けなかった。製菓専門学校を卒業。鉄道関連会社の正社員として、新幹線の駅弁製造などに携わっている。 「皆さまは、見事に勝ちました!」 ![]() 1989年4月21日、滋賀研修道場から移動する際、池田先生が関西の友や森岡さん(右端)を激励。先生は、友の日々の奮闘に感謝し、訪問できなかった福井への思いも語った 本格的な反転攻勢が開始された81年の11月24日、先生は武生文化会館を初訪問。記念植樹や役員と記念撮影を行い、さらに、同志へ贈るための書籍に揮毫し、個人指導に全精魂を注いだ。福井県代表者会議では、「信心をたもち抜いた人が、人間として勝利者なのである」と、いかなる大難にも信心を貫く姿勢を強調した。 翌25日には自由勤行会が開かれ、先生は集った友と記念撮影を。会館を出発するまで、時間の許す限り、集ってくる友に励ましを送った。 「次の10年」を目指して走り続けた福井の同志。その激闘によって、堂々たる関西の「北の砦」が築かれた。 90年10月22日、先生は福井を訪問。福井駅に到着すると、開口一番、「ついに来たよ」と語った。 前年の89年4月22日付聖教新聞2面に「福井のみなさん 今回は行けず すみません」との見出しが掲載された。前日まで、滋賀研修道場での先生の動向が連日、報道されていた。 福井の友にとって、その見出しは、先生からの伝言にほかならなかった。師の万感の真心を胸に、対話拡大に走った。その戦いをもって、師を迎えたのである。 先生は初訪問となる福井文化会館で、「素晴らしい会館だね。福井は美しいし、いいところだね」と。そして、同会館で行われた「日本海3県合同総会」で、高らかに宣言した。 「皆さまは、見事に勝ちました!」 総会が行われた翌日、先生は2首の和歌を詠んだ。 晴れわたる また 晴れわたる 常勝の 福井の諸天は 踊り舞いたり 嵐をも また 吹雪をも 胸はりし 福井の勇者を 諸仏も守れや ![]() 友の歓喜に包まれ、池田先生が9年ぶりに福井の地へ。福井文化会館を視察した(1990年10月23日) 「威風堂々の歌」の独唱 先生の提案で、平位さん(右端)と上田さんが並んで「威風堂々の歌」を歌い始める。「参加者の皆さんが一緒に歌ってくれ、宝の思い出になっています」と平位さん(1983年3月14日、京都池田講堂〈当時〉で)1983年3月14日、京都池田講堂(現・伏見平和会館)で行われた京都幹部会。席上、池田先生が、京都本部長だった平位喜七郎さんに提案した。 「『威風堂々の歌』の独唱を!」 何度も歌ってきた一曲。しかし、足が震えた。様子を察した先生は、“京都長の上田栄吉郎さんも一緒に”と。2人は並んで前に立ち、歌い始めた。 〽濁悪の此の世行く 学会の…… 参加者の歌声もすぐに加わった。平位さんは、「音痴なので緊張しましたが、今となっては最高の思い出です」と笑顔で振り返る。 幹部会の席上、先生は語った。 「人生は行き詰まりとの戦いともいえる。生死の苦しみとの対決でもある。また、現実の生活の中に生ずる苦悩との戦いである。そこに、敗北ではなく、希望の人生へと常に方向づける蘇生の力が必要となってくる」 「行き詰まった人々に最大の力と最大の希望を与えゆく源泉力こそ、この仏法である」 平位さんの信心の出発は、「生死の苦しみとの対決」だった。 36年、兵庫で生まれた。戦中・戦後、父の兄弟5人が次々と結核で亡くなる。命のはかなさ、人生の悲哀がいつも身近にあった。医師を志し、55年に京都の大学に進学した。 在学中、自らも結核を患った。腎臓が侵され、右の腎臓は摘出手術を受けた。ところが、医学書を読むと、自分の余命は長くて2年としか思えない。“何のために、この世に生を受けてきたのか”との疑問が湧き起こった。 ちょうどその頃だった。小学校時代の恩師から信心の話を聞いた。医学部生として科学の観点を培ってきた自負があった。「宗教」は「非科学」と同義語だった。だが、恩師の真心に胸打たれ、61年春に入会する。 数週間後、旧関西本部で行われた会合に参加。会場では、戸田先生の御書講義のレコードが流れた。感動した。“宗教とは何か”との疑問が一挙に吹き飛ぶ明快な講義だった。 平位さんが大きく飛躍する契機となったのが、63年から池田先生の「御義口伝」講義を受講したことだ。 東京の会場へ、京都から通った。先生は講義の中で、生命論や革命論などを縦横無尽に展開した。 その講義の内容とともに、平位さんが感動したのが、受講生に寄せる先生の真心だった。先生は毎回、「おなかはすいてないかい」「健康には注意するんだよ」など、こまやかな配慮を重ねた。時には、げた箱で受講生の靴を見て、新しい靴を贈ることもあった。師の振る舞いを、平位さんは心に深く刻んだ。 ![]() 京都広布の中心・京都文化会館(現・京都国際文化会館)から、世界文化遺産の二条城を望む。池田先生は京都に贈った長編詩で「懐かしき 今や 偉大なる広布の都」と(1986年6月、池田先生撮影) 一青年を思う師の深き慈愛 ある時、先生は平位さんに、こう書き贈った。 「名医たれ。不世出の。人の、社会の、世界の、そして 自分の――。君の前途の建設と 幸福を祈るのみ」 67年、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に留学。アメリカの地で医学を学び、学会活動にも励んだ。最初は決意に満ちていたが、時の経過とともに、日本の友人たちの音信も途絶えがちになった。 寂しさが募っていた69年1月、アメリカのアパートに1枚の年賀状が届いた。英字で「池田大作」とあった。遠く離れた場所にいる、一青年を思う師の深き慈愛に涙した。 同年9月1日、留学を終えて帰国。翌2日、先生が出席して京都市体育館(当時)で行われた関西幹部会に参加した。先生は京都の友に、“思想革命の電源地たれ!”との永遠の指針を贈った。さらに、学会歌の指揮を執り、最後には「京都を必ず日本一、幸せな国土にするぞ!」と呼びかけた。 平位さんは総合病院に勤務した後、内科医院を開業。診察に全精魂を注ぎ終えると、妻・節子さんと共に広布の最前線を走った。 89年10月18日、京都平和講堂の落成を祝賀する記念の幹部会が行われた。席上、先生は「威風堂々の歌」の制作に携わった友のことを紹介。幹部会の終了後、その友が病床に伏していることを聞くと、先生は京都総合長だった平位さんに見舞いの伝言を託した。 平位さんは友のもとを訪れ、先生からの激励を伝えた。病床でうれしそうにうなずく姿を、今でも思い出す。そのたびに、“師に応える日々を”と心が奮い立つ。 2004年1月、体調を崩しているとの連絡を受け、初代の大阪支部長を務めた白木義一郎さんのもとを診察に訪れた。体調を案じた平位さんは、白木さんに伝えた。 「白木さんは関西を築いてきた人ですから、大事にしてください。ほんまに体が危ないんです」 その言葉を耳にした瞬間、横になっていた白木さんは体を起こすと、厳しい口調で言った。 「平位くん、君の話は間違いだよ」 「関西を築かれたのは池田先生だ。僕がつくったんじゃない。そんな間違いはしてはいけない!」 こう戒めた翌日、白木さんは逝去した。最後の最後まで、池田先生を師匠として、心のど真ん中に置いた常勝の大先輩の姿――。 今、平位さんは88歳。その胸中には池田先生への報恩の一念が、熱く燃えている。 ![]() 関西幹部会の席上、池田先生は「威風堂々の歌」などの指揮を執り、渾身の励ましを(1969年9月2日、京都市体育館〈当時〉で) |