| 第3回 “陰の人々”をたたえて 24年7月28日 |
| • 私の生命のなかには • 師匠の脈々たる血脈が • 激しく流れ、沸騰している 弟子としての決意 自然に恵まれ、色彩豊かな花々が咲き薫る群馬多宝研修道場。2004年8月13日、池田大作先生はここを訪れ、道場内の「草津共栄会之碑」の前に立った。 群馬・草津に道場がオープンして以来、真心込めて宝城の整備・清掃等を担ってきた「共栄会」(会館守る会)。その功労を永遠に顕彰する碑を見つめ、陰の労苦に感謝をささげた。 道場では13日から3日間、関東・東京の研修会が行われた。13日の研修会で、先生は「私が決めた人生は、戸田先生の弟子の道――それ以外にない。どんな立場になろうとも、一切、変わることはない」と述べ、「戸田先生の偉大さを全世界に宣揚してきた。後世に残そうと戦ってきた。それが弟子としての私の決意であった」と語った。 この研修会からさかのぼること47年前の1957年8月13日、池田先生は、軽井沢に滞在中の戸田先生の元を訪れていた。戸田先生は、かつて牧口先生と訪れた浅間山の鬼押出しの景観を懐かしそうに眺め、池田先生に語った。 「あっちには草津がある。そこで人材を気宇壮大に育てたいものだ」 「学会も研修の道場をつくりたいものだな……」 恩師の言葉を、池田先生は心に深く刻んだ。群馬多宝研修道場が完成したのは、師弟の語らいから36年がたった93年6月30日である。 市場徒治さんは長年にわたって、共栄会の責任者を務めた。道場完成の前年から、地元の同志と共に、雑木の伐採や草刈りなど、敷地の整備に献身の汗を流した。 生後すぐ、父が日本軍として海を渡る。出征後、弟が生まれた。だが、弟はわずか2年の命だった。 戦争が終結しても、父は戻ってこなかった。シベリアに抑留されていたからである。市場さんが父と対面したのは、終戦から4年が過ぎた頃だった。 父は硫黄鉱山で働き始めた。だが、抑留の影響で満足に動ける体ではなくなっていた。家族は春夏秋冬、同じ服を着続けるような生活だった。 明日が見えない暮らしの中で、父が知人から仏法の話を聞く。戦争に翻弄され、貧苦にあえぐ宿命を、信心で転換すると決めた。56年、一家は人間革命の大道を進み始める。 父に連れられて、市場さんは座談会に通った。会場まで、徒歩で1時間ほどの道のり。夜空の星を眺め、2人で学会歌を歌うこともあった。父子の楽しい時間だった。 中学校卒業後、市場さんは理容師の道へ。東京で腕を磨いていた頃、池田先生から「安穏」との揮毫が届く。脇書には「八月十五日」。父を苦しめた戦争の悲惨を胸にとどめ、平和を建設する地涌の使命の自覚を新たにした。 68年、草津に戻り、理容店をオープン。店は中心街から離れた場所にあったが、年々、繁盛していった。仕事がどんなに多忙でも、学会活動から一歩も退かず、挑戦を重ねた。 ![]() 池田先生が群馬多宝研修道場を訪れ、「草津共栄会之碑」を見つめる。碑文には、先生が共栄会の友に贈った和歌が刻まれている。「広宣乃 宝城守りし 皆さまに 法財おくらん 今世も 来世も」(2004年8月13日) 一番苦労した人に思いを寄せて 1993年7月8日、池田先生は群馬多宝研修道場を初訪問。12日までの滞在で、各部の代表と懇談するなど、友の激励に全力を注いだ。この訪問の折、先生は市場さんにも励ましを送っている。 同年8月12日、先生は再び道場へ。この日、ペルセウス座流星群が夜空を彩った。ロマンあふれる大宇宙の天体ショーに、先生は「天空に 明星舞いて 祝賀せむ 広布の我らを 守り飾りて」など、3首の和歌を詠んだ。13日の開所記念勤行会では、共栄会の労作業をたたえた。 道場の完成から10年となる2003年。市場さんは、開所前からの記録写真をアルバムにまとめた。写真を見た先生は、共栄会の真心の献身に深く感謝した。 人材育成の要諦やリーダーの姿勢など、先生は道場で、学会精神を語り残した。ある時、道場の近くにあるハンセン病の国立療養所・栗生楽泉園が話題になった。池田先生は小学校時代、担任の檜山浩平先生から、“草津にはハンセン病を患う人の療養所がある”との話を聞いていた。 草津訪問を望んでいた戸田先生も、療養所について認識し、思いを寄せていた。ある時、池田先生は戸田先生に“こうした病と闘う人と、どのように関わっていくべきか”と尋ねた。恩師は“一番苦労してきた人たちの味方になっていくのが学会の使命だ”と語った。 長年、国策によって隔離され、偏見と人権侵害に耐えてきた人々である。先生は道場を訪問した折、栗生楽泉園の前まで2度、足を運び、祈りをささげている。 その栗生楽泉園に、初めて信心する人が現れたのは、昭和30年代のこと。入会した入所者は、来訪した友が流した同苦の涙が、たまらなく「うれしかった」という。療養所内では、毎月、座談会が行われた。 市場さんは、何人もの入所者と交流を重ねた。後遺症で目や手を失った人、外出することをためらう人……。偏見の目を向けられ、虐げられてきた友に、市場さんは尽くした。 また、県の理容生活衛生同業組合理事、町の民生・児童委員協議会会長、社会福祉協議会理事などを歴任し、地域のために奔走した。その行動の源流には、師の激励がある。 「広布の 草津城の 城主に敬意」 先生から贈られた書籍の扉に記されていた言葉だ。 8年前、胆管がんを患ったが、命の危機を乗り越えた。草津は、師弟の思いが結実した道場が立つ地――市場さんの胸中には、ここで戦う誇りが満ちている。 ![]() 群馬多宝研修道場で居合わせた市場さん(前列右から5人目)ら同志に励ましを送る池田先生(1995年8月) ミカン農園の思い出 創価の師弟を離間させようと、宗門の悪侶らが謀略を巡らせた第1次宗門事件。その嵐が吹き荒れていた1979年1月8日、東京・信濃町の創価文化会館(当時)で、静岡圏婦人部の集いが行われた。 池田先生は「勤行こそ、宿命の暗雲を払い、わが胸中に“福運の太陽”“功徳の太陽”を燦々と輝かせゆく原動力であると確信していただきたい」と訴えた。 3カ月後、先生は第3代会長を辞任。先生の指導、動向が本紙に報道されない日々が続いた。 同年11月6日、先生は静岡研修道場を訪問。静岡県婦人部長を務めていた坂野佐知子さんも駆けつけた。先生は、研修のため道場に集っていた関西の婦人・女子部に励ましを送った。 翌7日、伊東市の功労者宅を訪れた。功労者が営むミカン農園で、地元の友とミカン狩りの時間を持った。 この時、先生は「みんなで勤行をしよう」と提案。農園の小屋に移動し、勤行が始まった。 終了後、先生は、伊豆が牧口先生の不当逮捕の場所であること、暗く冷たい独房で牧口先生が獄中闘争を貫いたことを語った。 その場にいた一人一人が、何があっても師弟に生き抜くことを誓う厳粛な瞬間となった。 ![]() 1979年1月8日、東京・信濃町の創価文化会館(当時)で池田先生が静岡婦人部の友を激励(前列左から3人目が坂野さん) ![]() 伊東市の農園で、同志の真心こもるミカンに手を伸ばす。この時、池田先生はビデオカメラで友の様子を撮影するなど、思い出をつくった(1979年11月7日) 最高の幸せとは 88年1月、先生は香港、タイ、マレーシア、シンガポールを歴訪するアジア平和旅へ。坂野さんは交流団の一員として、香港、タイ訪問に参加した。 同年2月3日、先生はプーミポン国王を表敬訪問。会見は当初、30分の予定だったが、時間を大幅に超えて、1時間以上に及んだ。その後、先生は92年、94年にも、国王と会見している。それほど、88年の会見は、国王との友情を育むものだった。 会見の終了後、先生は役員の友に、国王と会見したことを述べ、「皆さんの祈りのおかげです」と語った。 タイでの諸行事の通訳を務めた一人が、創価学園・創価大学出身の坂野さんの長男・カズヒコさん。当時、タイの大学院で学んでいた。次の予定が控えている中、時間を割いて役員と会い、陰の労苦に心から感謝する師の真心に、カズヒコさんは「感動しました」と振り返る。 このタイ訪問で、先生はチュラロンコン大学での図書贈呈式に出席。タイから創大に学ぶ留学生らと記念撮影を行った。また、タイ会館を初訪問し、友の奮闘をねぎらった。 諸行事の合間を縫って、先生は長編詩を詠むなど、同志に励ましを送り続けた。坂野さんは、誠意を尽くして、人間と人間の絆を結ぶ大切さを心に刻んだ。カズヒコさんは今、タイ創価学会の副議長として世界広布の一翼を担っている。 ある時、先生との懇談の場で、坂野さんは自らの率直な真情を語った。 「池田先生と共に広宣流布に戦うことが、最高の幸せです」 夫との離別、経済苦を味わった。心は負の感情が支配した。その中で、信心の話を聞き、63年に入会する。 題目を唱え、学会活動に励むほど、どんな困難も乗り越えてみせるとの勇気が湧いた。先生の指導を学んでは、師弟の道を真っすぐに進もうと誓い、広布拡大に駆けた。 先生は坂野さんの言葉を聞くと、力強く「そうだ!」と語り、「師弟して広宣流布に戦うことが一番幸せなんだ」と強調した。 坂野さんは、こうした懇談の機会が何度かあった。その折、先生が語った「私の中にはいつも戸田先生がいる。戸田先生が一緒なんだ」との言葉を、人生の指針として進んできた。 師匠を胸に抱き、師匠と共に進む人生が、いかに崇高か。その確信を、後輩に語っている。 先生は、静岡での思い出をつづった随筆に記した。 「今もって、私の心には、否、生命のなかには、師匠の脈々たる血脈が、激しく流れ、沸騰している」 「人が何と批判し、非難しようが、師弟不二の生命の奥底にある大河の血の流れから見れば、すべて小波に過ぎない」 ![]() 1986年1月、池田先生が威風堂々とそびえる富士を写真に収めた。先生は静岡の友に贈った長編詩に詠んでいる。「富士と語りつつ/三世に薫るこの道を/肩組み ともどもに行こう!/どこまでも また どこまでも」 |