第1回 仏法は永遠に
「夜明け」であり「出発」
24年6月2日
「師弟の絆」こそ人生の原点

1992年8月30日、北海道の戸田記念墓地公園で、池田先生が、出迎えた友に車中から三色旗を振って感謝を伝える。この日、先生は語った。「あの歓呼の声は一生、忘れません。あの方々のおかげで、今日の正法の大発展がある。学会の勝利があるんです」

創価学会の至る所に光る、池田大作先生と同志の絆。ただ一途に師を求め抜き、師と共に戦うことを誉れとする一人一人のストーリー(物語)が、世界広布のヒストリー(歴史)を紡いできた。連載「ストーリーズⅡ」では、池田先生の励ましと師の激励を原点として広布の道を歩んできた友を紹介する。

初めてほめてくれた人
その日、北海道石狩市厚田区の戸田記念墓地公園に、歓呼の声が響き渡った。1992年8月30日、池田先生は同墓地公園を訪問した。
恩師・戸田城聖先生の故郷である厚田。先生は訪問前、北海道文化会館で小説『人間革命』第12巻「寂光」の章を書き上げた。恩師の生涯の最後を描いた章である。先生は、墓地公園での勤行会の席上、同章を北海道の地で書き上げた思いを語った。
「この戸田墓園に来て、先生にご報告したんです。私は、きちっと、『師弟の儀式』をふんでいるんです。なぜ札幌で書いたか。それは牧口先生にも、戸田先生にも、そして私にもゆかりの深い札幌だからです。全部、意義があるんです」
勤行会の後、先生は同志と語らい、励ましを送った。その場で、声をかけた一人が、墓地公園の管理を担ってきた佐藤幸一さんである。先生の呼びかけに、佐藤さんはいつものように大きな声で「はい!」と返事をした――。

かつてソメイヨシノの北限は札幌までといわれた。“戸田先生が大好きだった桜で荘厳したい”――池田先生の思いが結実し、戸田記念墓地公園は桜の名所に

現在、佐藤さんは90歳。自宅には、炭鉱労働の友とドイツへ旅立つ際、池田先生を囲んで撮った写真が飾られている。師が世界広布を誓った厚田の海を、妻・幸恵さんと見つめる写真も。今なお、その胸には師弟の誓いが熱く燃える。
北海道は利尻島の生まれ。7歳で父を亡くした。満州(現・中国東北部)に渡って戦火の死線を越え、引き揚げ後は貧しさにあえいだ。大工の見習として働き、釧路の炭鉱へ。橋の下に小屋をつくり、母や妹、弟たちと身を寄せ合う。母も18歳の時に亡くした。
小学校にも満足に通えず、漢字の読み書きもできなかった。「周囲から、ばかにされる人生だった」。炭鉱に命を懸けた男は、23歳で創価学会に入会。人生の歯車が大きく動き始めた。
学ぶ喜びに燃え、挑んだ教学部任用試験。不合格が続いた。5回目の挑戦で合格した。その直後、初めて池田先生と出会う。任用試験の合格を伝えたが、ふがいなさも抱えていた。先生は佐藤さんをじっと見つめて語った。
「君が試験に合格できたことは、素晴らしいことだ! このことが光る時が来るよ」
この一瞬が佐藤さんの人生を決定づけた。「俺のことを初めて心からほめてくれた人が池田先生だった。大きな心に包まれた気持ちがして、“生涯、戦うぞ!”と決めました」
1961年、世界広布の道を開く師に続こうと、炭鉱作業員としてドイツへ渡る。言語や文化の壁に戸惑うこともあった。行き詰まりを感じた時は、日本の方角から昇る太陽を仰いで、師を思い、心を奮い立たせた。炭鉱の事故で亡くなった日本人がいた時は、請われて、教会での葬儀を担当。追善の唱題を響かせた。
「若獅子号」と名付けた車で、ドイツはじめ欧州各国を駆け巡った。ある時、先生は佐藤さんたちをたたえた。
「君たちは、須梨槃特だね」
須梨槃特は、愚鈍な弟子の代表として、多くの経典に登場する。御書には「閻浮第一の好く忘るる者」(新1318・全976)と。自分の名前も忘れるほど物覚えが悪かった。それでも愚直に仏道修行を続け、ついに悟りを開く。強き「信心」の勝利だった。
佐藤さんの心は躍った。師の励ましは、劣等感という闇を晴らす希望の光だった。

ドイツを流れるマイン川。周辺に緑豊かな田園が広がる。自然が織りなす美を、池田先生がカメラに収めた(1991年6月)。このドイツ訪問の折、先生は青年部に贈った長編詩で詠んだ。「君よ! 森の王のごとく/君が理想をもって 天空の高みに至れ」

真っすぐに純粋に、広布のロマンに生きた。その佐藤さんに、創価大学の管理者の話があった。創大開学前のことである。
ドイツに骨をうずめる覚悟だった。だが、創価大学は創価三代の夢の結実。佐藤さんは悩みに悩み、祈りを重ねた。夜通し題目を唱え、朝を迎えた。その中で、管理者になることを決めた。
ある時、先生は佐藤さんに語った。
「建物ができた。教員もそろった。学生も集う。しかし、そこに住する人間で全て決まる。成功するもしないも、人で決まるんだ」
佐藤さんは「頑張ります!」と、この時も大きな声で返事した。
“創立者の大切な宝”との思いで、学生たちと語らった。地域の人々にも友好を広げた。創大で過ごした約6年は、黄金の思い出だ。
77年、戸田記念墓地公園の開園に伴い、佐藤さんは同墓地公園で働くことに。先生は何度も「厚田を頼むよ」と励ました。
10月の開園の折には、佐藤さんにこう語った。
「偶然ではないんだよ。ここに来ることは過去から決まっていたんだ」
佐藤さんは墓地公園で献身の汗を流した。厚田支部で支部長を務めた時には、弘教拡大の先頭に立った。
92年8月30日、墓地公園の開園15周年を記念する勤行会で、先生は「黎明」の章で開始した小説『人間革命』の連載を、「新・黎明」の章で結ぶと述べ、こう語った。
「仏法は永遠に『夜明け』であり、永遠に『出発』なのです」
佐藤さんは「世界青年学会」の新たな歴史を開く後継の青年が、陸続と育ちゆくことを祈り続ける。

絶対に守るという気迫
「やあ、お母さんも来ていたのか」。99年2月28日、宮崎で行われた創価同窓の友との記念撮影。池田先生は最前列に立つ林田恵美子さんに、親しみを込めて声をかけ、握手を交わした。宮崎婦人部(当時)のリーダーを務めてきた林田さんの忘れ得ぬ瞬間だ。
「池田先生は、法華経の『当起遠迎、当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし)』が大切だと、何度も語ってこられました。私自身、先生の振る舞いから、そのことを学びました」
72年、林田さんは宮崎の婦人部長に任命された。宮崎広布に尽くす林田さんを、先生は陰に陽に励ました。ある時には、色紙にこうしたためた。
「一、勤行は なるべく早い時刻に正確にしましょうね。
一、電話は 簡潔に要領よく致しましょうね。
親しき法友より。」
揮毫を贈った後、先生は「暗記するだけではダメだよ。実践することが大事だよ」と。林田さんは“日々を価値的に生きる指針”と捉え、今でも実践を続ける。

九州・宮崎「創価教育同窓の集い」の参加者との記念撮影の折、池田先生が林田さんと握手を交わす。集いでは「諸君こそ、『新しい世紀を照らす太陽』」と語った(1999年2月28日、宮崎市内で)

この激励とともに、林田さんが「生涯の原点」として心に深く刻んだのが、78年夏の師との出会いだ。当時、池田先生と学会員の絆を分断しようとする宗門の学会攻撃が激化していた。第1次宗門事件である。
悪侶らの学会批判は、宮崎の地でも吹き荒れた。その中で、先生は宮崎を訪問した。
先生は後につづった。「大変な今こそ、かわいい大切な同志を激励したいと思い、私は宮崎に飛んだ」
78年4月、宮崎平和会館が開館。同年8月9日、先生は同会館に足を運んだ。功労者との懇談で、先生のユーモアあふれる励ましに、友の笑顔が広がった。
翌10日の午後、熊本・大分・宮崎3県合同の幹部会が行われた。先生は代表の支部長にバッジを授与。“偉大な歴史は地道な作業によって創造される”“先輩を心から尊敬し、後輩を自分以上の人材に育てる努力を”とリーダーの姿勢を語り、「勤行を真面目に励行している人は、全てに勝利している」と、信心の基本の実践を強調した。
11日は朝から多くの友が同会館に集った。当初、1回の予定だった自由勤行会は5回にわたって開催された。
会館の駐車場には、続々と集まるメンバーを暑さから守るため、テントが張られた。さらにテントでは、参加者にスイカが振る舞われた。どちらも、先生の提案である。
先生は全ての自由勤行会に出席し、全精魂を注いで励ましを送った。「一生成仏のための、勇気ある信心を!」「わが信念の道を堂々と生き抜く地涌の勇者たれ!」と。林田さんは師の姿を目に焼き付けた。
「汗だくになられながら、同志を絶対に守るという気迫でした。それこそ、一人でも見つけたら激励されていました」
勤行会の終了後、先生は腰に蚊取り線香の缶を下げ、会館周辺を歩いた。その途中、会員が営む喫茶店に足を運んだ。そこで出会った友の手を握りながら、先生は力を込めた。
「退転してはいけないよ!」
先生は78年の宮崎訪問で、この言葉を繰り返した。第1次宗門事件の嵐から、愛する宮崎の友を守ろうと、1万人を超すメンバーと魂の絆を結んだ。

宮崎平和会館で池田先生が友と出会いを結ぶ(1991年2月10日)。この日に行われた宮崎・大分県合同最高会議で、宮崎の友に「皆が希望、皆が前進、皆が満足」と指針を示した

一人を大切にする――99年の宮崎訪問でも、先生は真心の行動に徹した。同年2月、沖縄での激励行を終え、26日に宮崎研修道場へ。翌27日から3月2日まで、同道場で行われた諸行事に臨んだ。
その折、先生のもとに、草創期に出会いを刻んだ友から、家族の写真が届けられた。先生は写真を御宝前に供え、一家の健康と長寿、幸福と勝利を祈った。
“ここまで一人を大切にしてくださるなんて……”。師の真心の励ましを知り、心の底からわき上がる感動と決意が、林田さんの五体を貫いた。
先生の行動に続こうと、林田さんは今も友との語らいの時間を大切にし、御書の研さんも重ねる。
78年から書いてきた「個人指導ノート」は、師弟の道を一筋に歩んできた記録だ。先生の宮崎での激励行も書き残した。そのメモに、林田さんが師弟共戦を深く誓った、先生の指導が記されている。
「『師弟の絆』こそ、人生の原点といってよい。人間の聡明さは、学歴で決まるものではない。いつの時代、いずこの世界にあっても、『師弟』という人生の原点をもっている人こそ、もっとも聡明に人生を生きている人なのである」
91年2月11日、戸田先生の生誕日に、宮崎平和会館で行われた本部幹部会での、池田先生のスピーチである。