第5回 励ましの手紙Ⅱ
2024年5月22日
 
真心には真心で応えたい
「絶対に忘れない」

戸田先生が第2代会長に就任した1951年の5月末のこと。恩師が顧問を務め、池田先生が営業部長を務める会社の事務所が、東京・市ケ谷駅の近くに移転した。
お堀端に立つ、3階建ての市ケ谷ビルである。若き池田先生は、ビルの内外で出会う人と青年らしく元気なあいさつを交わし、友好を結んだ。
ビルには、鉢植えの行商をする植木屋がよく来ていた。池田先生は折あるごとに、その人にも声をかけた。
96年、植木屋は、ある婦人部員からの勧めで、先生に手紙をしたためた。彼は往時の交流に思いをはせ、感謝を込めてペンを握った。一鉢のジャスミンと共に、手紙は学会本部へ届けられた。
先生からすぐに、写真集などの返礼があった。写真集の見返しには、こう記されていた。
「崇高な あの日の姿を忘れまじ 世界一なる 宝木屋 万歳 鉢植え・御手紙、感謝 合掌」
また、市ケ谷ビルの2軒先には食堂があった。池田先生はそこで毎日のように食事をした。
食堂経営者の家族である女性は、若き日の池田先生を鮮明に記憶している。彼女は長年、聖教新聞を購読し、終生、学会の良き理解者であった。
2002年1月には、友人に誘われ、東京戸田記念講堂での中継行事に参加した。そのことを聞いた先生は、和歌を詠み贈った。
「青春の 思い出多き 市ケ谷の 日本一なる 食堂懐かし」
先生は語っている。
「私は、お世話になった方々のことは絶対に忘れない。写真のように、その光景を覚えている」
「皆さんからいただいている大切な報告は、すべてきちんと整理し、大事にとってある。妻と二人で朝方までかかって、目を通すこともある。はがき一枚、報告書一枚たりとも、おろそかにしない。真心には真心でお応えしたい」
戸田先生の事業を支え、戸田先生の広布の構想を実現するために戦い続けた激闘の日々。その中で、池田先生は手紙・ハガキを通して、多くの人と絆を育んだ。

2019年3月、池田先生は東京・市ケ谷駅とその周辺を撮影。同駅近くのお堀端に、かつて市ケ谷ビルがあった

先輩の祈りと確信
1953年4月、池田先生は文京支部長代理に就任する。
当時の広布の組織は、紹介者と新入会者とのつながりを基調とした「タテ線」と呼ばれる形態。そのため、支部員は東京だけでなく、神奈川や群馬など各地に点在していた。
仕事では営業部長を務めていた。先生は時間をこじ開けるようにして、友の激励に駆けた。移動の合間や活動を終えてから、ペンを走らせた。
この頃、神奈川・保土ケ谷にいた女子部員に、「青春再び来らず。真実の歓喜と幸福の建設は、法戦に舞い戦いゆく以外に知らずや」と絵ハガキに書いて送っている。
相模原の友が原点にしてきたのも、先生からの手紙だ。「全力なる指揮を執れ。戦いは長い。そして、楽しくあらねばならぬ」。第一線で活躍する友へ書かれた手紙は、人生の苦難を乗り越える糧となった。
さらに、静岡・沼津のリーダーには、「城はうちより破らる。御本尊様を信じ学会についた者が最后の勝利者となるは道理なり」と強盛な信心と団結を促し、「堂々たる家庭も地区も勝利の年であられん事を」と訴えた。
ある時、文京支部の座談会からの帰り道、先生は青年リーダーに人材育成について語った。
「先輩の指導いかんで、人材にもなるし、駄目にもなってしまう。相手の幸せを願う真心と、信心の確信で決まってくる」
5日後、その青年のもとに、先生からハガキが届いた。
「全力を傾注し、全班員を慈愛でつつみて指揮をとられよ。貴殿の使命の達成を祈る。丈夫になり切れ」
先生が支部長代理に就いた時、約700世帯だった文京支部は、後に「日本一」の拡大を達成。先生が第3代会長に就任する頃には、約7万世帯という「100倍」の陣容に大発展する。
そこには、相手の幸せを祈り、励ましに徹し抜く、若き池田先生の率先垂範の実践があった。

文京支部長代理として、同志と語らう池田先生(1956年7月)

実に楽しい思い出
戸田先生の生涯の願業である75万世帯の達成へ向け、夏季地方指導が行われた。1955年8月、池田先生は札幌で指揮を執った。「札幌・夏の陣」である。
わずか10日間の短期決戦。先生は北海道入りする1カ月以上も前から、目標達成のためのスケジュールなどをつづった手紙を、札幌のリーダーに送っている。
そこには、「一切衆生を救出せんと、勇しく、信心に励まれる眞の同志の微笑の顔が見たいです」「全班員の皆様方に何卒よろしく、又大事な奥様によろしく御伝言下さい」と書き添えられていた。
手紙は回覧された。恩師の青春の故郷で戦う喜びとともに、どこまでも友を思う真心の一文は、友の心を燃え上がらせた。
戦いが後半戦を迎えた8月20日、早朝の御書講義を終えた先生は、札幌各地のリーダーへ、カタカナで「最後の戦闘に入る 悔いなき闘争を祈るのみ 池田」との激励の電報を送った。
この日、札幌は当初の目標を達成。さらなる拡大へと意気軒高にスタートを切った。
札幌で指揮を執っていた間、先生は次々と和歌を詠んだ。時には、自分の名刺の裏に一文を記して励ますこともあった。
ある友には、「北海の大地は我等が守らん 妙法広布の旅に丈夫と死せん」と書き贈った。また、ある同志には「冬信心や 春必ず来るべし 希望に燃える信心」とつづった。
夏季地方指導を終え、札幌を発つ26日にも、「妙法の 功徳の華は 咲き匂う 時は間近と 君よ励めよ」と絵ハガキに書いた。
その後も、先生の心から、札幌で共に戦った同志が離れることはなかった。
9月12日付で友に送られた手紙には、「札幌の十日間の斗争は実に楽しい思い出、又意義のある斗争でした」と記し、「水の如く、静かにして深く、雄々たる信心に進まれんことを、東京には何時頃お出ですか、詩の街、札幌の状況を是非共お知らせ下さい」とつづった。
「札幌・夏の陣」の折、結核で入院していた同志には、帰京後に手紙で心を配った。
「私も君と同じ様に肺病では苦しみぬいて来た一人です」
「一日も早く良くなり、楽しい青春時代を、思い出を多く、又、意義ある青春時代を悔いなく生きゆける身体になって、立派な国家の為に社会の為に尽くせる人になられます様に」
出会った人、縁を結んだ人が信心の喜びを知り、崩れざる幸福の境涯を開くまで、励ましを送り続ける――先生のその戦いがやむことはなかった。

「札幌・夏の陣」に臨んで、池田先生が送った手紙(1955年8月)

千里の果てまでも
池田先生の指揮のもと、当時の世帯数を約10倍に拡大した「山口開拓指導」。1956年10月、11月、翌57年1月の計3回、延べ22日間に及ぶ闘争は、広布史に燦然と輝きを放つ。
この折に入会した男性は、持病のリウマチに苦しみ、先生から何度も激励を受けた。それでも、信心に疑いを起こす彼を、先生は時に温かく包み込み、時に厳しく諭すこともあった。
彼の持病が再発した時には、こうしたためた。
「長い長い人生です。声高らかに題目をあげ、苦をば苦と開いて必ず必ず来る春を待つ事です。ゆうゆうと、闘病生活をされ度しです。皆、勉強と思って」
「成仏の出来得る大法を受持して、何で病魔に負け得る事がありましょうか。大兄の元気な身体を顔を楽しみに」
この手紙が書かれたのは、61年3月22日。第3代会長として、全国を駆け回る最中だった。
師の深き慈愛に、彼は涙した。己心の奥底に潜む「不信」を猛省し、生涯、学会と共に歩み、先生と共に広布に戦い抜くことを固く誓った。
先生は述懐している。
「私は、一度会った人は、最後まで励まします。その人が、千里の果てに行こうとも、信心を少々休んでいようと、どんなことがあっても守ってあげたい」
この心こそ、創価の「励ましの世界」の根幹である。
先生は、一人一人の所願満足の人生と、世界広布の大願成就を願い、ペンを執り続けた。
そして今、師の不惜の激闘に連なる弟子の陣列が、世界各地で乱舞する時代を迎えた。
師の心をわが心とする人材の流れが、滔々たる大河のごとく続く限り、世界青年学会の未来は、どこまでも開かれていく。

1977年5月21日、山口広布20周年を祝う記念勤行会で、ピアノを演奏する池田先生(徳山文化会館〈当時〉で)。先生は、「御本尊に直結し、広宣流布に生き抜いていくならば、一生成仏は間違いない。その道を教え、正しく実践しているのは、世界中で創価学会しかない」と訴えた