| 第58回 戸田先生 「第15回秋季総会」での講演㊦ 26年5月5日 |
| 創価学会の第15回秋季総会が開催される直前(1956年10月)、世界を震撼させる事件が東欧と中東で相次いで起きた。 23日にハンガリー動乱が起こり、ソ連が軍事介入をしたのに続いて、29日にはスエズ動乱が勃発。スエズ運河の国有化を7月に宣言したエジプトに、イスラエル、イギリス、フランスが攻撃を開始し、この動きに対してソ連が威嚇するという、一触即発の事態が発生したのだ。 この時期に戸田先生が巡らせたであろう思索について、池田先生は師の当時の言葉を結晶化させるような形で小説『人間革命』第11巻でこう描写した。 「彼は、地球上から、あらゆる悲惨事の消滅を願って戦っているものの、まだまだ遠い道程にあることに焦燥を覚えながら、歴史に思いを馳せた」 「自由主義にしろ、共産主義にしろ、相争うために考え出されたものではあるまい。しかし、この二つの思想が、この地球上で、政治に、経済に、相争うものをつくりだしていることは、悲しむべき事実といわなくてはならない」 「(かりに、さまざまな宗教の源となった先哲たちや、思想家が一堂に会して話し合うことを想像してみた場合)彼らは、『人類を、いかにして幸せにするか』という論点で争うことがあったとしても、それは『人類から悲惨を絶滅する』という希求においては一致するはずである。これらの大先達の願いを、現代のわれわれは、利己心と嫉妬と瞋りのために、素直に受け入れないがゆえに、大衆を悲惨のなかに陥れ、迷わせているのではないだろうか」と。 その中で迎えた11月1日、東京の後楽園スタジアム(当時)での秋季総会の講演で、戸田先生は、物質文明が発達してきたにもかかわらず、「幸福の総量は、減っているとしか考えられない」「悲劇がずいぶん生まれている」と指摘した。 その上で、不幸や悲劇が広がる要因について、仏法の思想に照らして言及。三毒と呼ばれる「貪」「瞋」「癡」という生命の最も根源的な煩悩に目を向けることが、問題の解決に欠かせないと訴えたのである。 この三毒が倍増していくと、社会や世界はどのような状況に陥ってしまうのか――。 戸田先生は、日蓮大聖人の仏法における重書中の重書である「立正安国論」の講義で、端的にこう言い表していた。 「常識では意外と思うようなことがちっとも意外ではなく、当然のことのように行われる」 そうした事態は現在の世界でも見受けられるのではないだろうか。基本的なルールや社会的な良識として越えてはならないとされてきた一線(レッドライン)が、いとも簡単に越えられたり、なかったもののように扱われたりする出来事が横行しつつあるのである。 戸田先生はまた同じ講義で、「(思想の乱れを起こし、社会を混乱させる存在は)民衆の幸福を奪うを能とし、民衆の苦しむのをもって喜びとする」と警鐘を鳴らした。 仏法の生命論では、特定の存在だけがこのような負の働きを起こすのではないと説く。 三毒という根源的な煩悩はどのような人間も向き合わなければならない共通の課題であり、自分自身がそれらを克服するために努力を重ねるだけでなく、他の人々と共に力を合わせて、社会や世界における混迷の闇を晴らしていく挑戦を促すのが、仏法の思想なのである。 ![]() アルゼンチンの人権の闘士であるエスキベル博士夫妻との語らい(1995年12月、東京・千駄ケ谷の創価国際友好会館〈当時〉で)。人類が直面する課題の解決には「多くの人々の意思と力と努力」の結集が必要と述べる博士に対し、池田先生は「それしか人類が生きのびる『道』はないのではないでしょうか」と訴えた。この時の両者の思いは、2018年に発表した共同声明にも脈打っている 池田先生もまた、世界の識者と文明の課題を語り合う中で、この「三毒」を巡る仏法の思想にしばしば言及してきた。 2018年6月にイタリアのローマで発表された、池田先生とアドルフォ・ペレス=エスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)との共同声明でも、次のような問題提起がなされていた。 「核兵器の脅威をはじめ、紛争による難民の急増、気候変動に伴う異常気象、そして、マネーゲームが過熱する中での貧富の格差の拡大――。これらの問題の根底には、軍事の暴走、政治の暴走、経済の暴走があり、我々が『共に暮らす家』である地球に大きな暗雲が垂れ込める元凶となっている」 「東洋の思想には、社会の混迷を招く三つの要素に関する洞察がある。一つ目は、利己的な欲望に突き動かされる『貪(むさぼり)』で、二つ目は、他の人々を憎んで争う『瞋(いかり)』である。 そして三つ目は、自分たちの生きるべき方向性や社会の羅針盤を見失ってしまう『癡(おろか)』だ」 池田先生には、その「三毒」に打ち勝つ力が人間に具わっているとの信念があった。 仏法で「変毒為薬(毒を変じて薬と為す)」と説かれるように、歴史の悲劇を悲劇のままで終わらせてしまうのではない。悲劇の教訓を胸に刻み、悲劇を繰り返させないために行動を広げる中に“人間としての証し”があると確信していたのだ。その確信は、エスキベル博士との共同声明にも脈打っている。 「世界の青年たちよ! 人類の重要な挑戦のために連帯し、自らの人生と、新しき世紀の歴史を開く建設者たれ!」 「植えたものは、必ず収穫される。自分たちの一つ一つの行動が未来に必ず実を結ぶことを信じ、『民衆と共に人生を歩む』という責任を勇んで担おうではないか」――と。 時代の混迷は、今なお深い。しかし、“混迷を変毒為薬していく力”が自分にも他の人々にも等しく具わっていることを信じ、時代変革の潮流を強めていく中に、私たち仏法者の社会的使命はあるのだ。 <語句解説> ハンガリー動乱 1956年10月、民衆デモが起こる中で発足したハンガリーの新政権が、ソ連の影響から抜け出そうとする姿勢をみせたことに対し、ソ連が軍事介入。多数の民衆が犠牲となった。 スエズ動乱 1956年10月に、スエズ運河の管理などを巡って起きた紛争。11月に国連の緊急特別総会で即時停戦を求める決議が採択され、国際世論も高まる中で、紛争終結に向けた道が開かれた。 三毒 仏法において、生命の最も根源的な三つの煩悩(貪・瞋・癡)を毒に譬えたもの。 変毒為薬 インドの大乗論師・竜樹の著作とされる『大智度論』の「大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」の文に由来した言葉。 戸田先生 「第15回秋季総会」での講演 (1956年11月) 今日の物質文明というものは、ひじょうに、極度までといっていいほど進んでおります。私は地方へ行くたびに、それを強く感ずるのであります。大阪へ飛行機で行けば、一時間四十分、北海道まででも三時間、また汽車に乗って大阪にまいりましても、朝乗って夕方に着く。まことに便利な世界になったものだと思うのであります。 また、家庭的にみましても、電気せんたく機、あるいはラジオ、テレビ……。これを、今から百年前の人がとつぜんに現れて、この物質文明の世界へきたとしましたならば、どれくらい驚くことでありましょう。また、百年前の人に今の世界の話をしましたならば、さぞや、おとぎ話の国のことのように思うてうらやましがったであろうと思うのであります。 しかるに、人類の幸福は、物質文明によってなされたでありましょうか。いな、むしろ幸福の総量は、減っているとしか考えられないのであります。かえって、物質文明のおかげによって、悲劇がずいぶん生まれているのです。また瞋、怒ることです、また貪、むさぼりです、また癡、おろかさ、あるいは自慢、あるいは疑い、こういうような、われわれに不幸をもたらすわれわれの生命の作用が、ひとつも解決されてはおりません。これは、なにによることであろうか。 すなわち、物質文明もわれわれに幸福をもたらすと同時に、このわれわれの心の状態における幸福をもたらすものは、宗教でなければならないのであります。それは迷信や、観念的な宗教でなく、ただ修養的な宗教でもありません。そういうもののみが日本にあるがゆえに、ほんとうの幸福というものを、日本民衆はつかめないのであります。いな、世界じゅうがそうなのであります。(中略) (人類に幸福を与える宗教は)観念論でもなく、迷信でもなく、修養的でもありません。生きた宗教、生活にとけこみ、生活ににじむ宗教であります。だが、これを日本の民衆に、どうして納得させるかということが問題なのであります。 これは、皆さまの清き信心よりいずるところの体験による以外にはないのです。 (『戸田城聖全集』第4巻) |