| 第53回 池田先生 「歴史と人物を考察――迫害と人生」 (1981年10月)㊤ 26年3月2日 |
| 私は、十代の時に読んだある西洋の哲学者の「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」との格言が胸に迫り、大好きでありました。言うなれば、この格言を土台として、人生を歩んできたとも言えるかもしれません。 長い人生行路にあって、偉大なる作業をしていくためには、それなりの限界や絶望の時もあるかもしれないし、巨大なる幾多の障害もあるに違いない。その時こそ、いやまして、自らが逞しく光り鍛えられていくことを、忘れてはならないと思います。 ◇ 私は、いわゆる“英雄主義”“天才主義”にくみするものでは決してありません。歴史的偉業といえども一人の手で成し遂げられるものでは絶対にない。多くの無名の民衆に支えられ包まれながら、支持されて成就するのが道理であると信じております。 歴史的偉業というものは、どんなに偉大な個人の名が冠せられていようとも、民衆という大地に、しかと根を張っているものなのであります。 ◇ ゲーテは「人間もほんとうに下等になると、ついに他人の不幸や失敗を喜ぶこと以外の関心をなくしてしまう」境涯にまで堕落してしまっていると言っております。そこから民衆のリーダーに対して、迫害の嵐が巻き起こるのは必然の理なのであります。(中略) 私も一仏法者として一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながらこの“迫害の構図”に照らしてみれば、迫害こそむしろ仏法者の誉れであります。人生の最高の錦であると思っております。後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく審判していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます。 若き学徒の諸君にあっても、長いこれからの人生の旅路にあって、大なり小なり悔しい嵐の中を突き進んでいかねばならないことがあると思いますが、きょうの私の話が、その時の一つの糧となれば、望外の喜びであります。 (『池田大作全集』第1巻。※引用の表記を一部改めた) 数千年にわたる人類史を俯瞰し、文明の盛衰について探究したアーノルド・J・トインビー博士が、大著『歴史の研究』の扉に掲げたラテン語の詩がある。 「苦悩の深手が眠れる魂をよみがえらせる」 それは博士の人生哲学を象徴するだけでなく、「挑戦と応戦」という歴史観の根底にある思想を凝縮した言葉でもあった。 この博士からの招請を受け、池田先生がロンドンにある博士の自宅を初めて訪れたのは、1972年5月のことだった。 自宅には、博士が向き合い続けてきた苦悩の片鱗を窺わせるものが、暖炉の飾り棚の上に大切に置かれていた。オックスフォード大学の学友たちの写真である。第1次世界大戦で若くして戦死した友人たちであった。 博士は悲しみと憤りを胸に、全12巻からなる『歴史の研究』の執筆に心血を注ぐとともに、毎年の世界情勢を巡る「国際問題大観」の執筆に全力で取り組んだ。その真情が、『回想録』でこう綴られている。 「私は自分の目に映る世界を静かに眺めていることに甘んじることはできない」 「人間が互いに害悪を与え合うのを私は見てきた」「私と同年輩の人々のうちあれほど多くの人の命を途中で断ち切るという罪を犯した運命に、私の孫たちや曾孫が襲われることのないように、私はできるかぎりのことをしなければならないのだ」 この信念を貫く中で直面した迫害について、博士は池田先生との対談で赤裸々に語った。 その一つが、1919年に勃発したギリシャ・トルコ戦争について、現地に直接赴いて文章を発表した時の話である。 学問の自由という原則を守り抜こうとした博士は、窮地に追い込まれた。「実情をこの眼で確かめてきた以上、ありのままに事実を発表することはもとより、この問題の正邪についての私見を表明する道義上の義務があると感じました。その結果、私は教授職を辞さざるをえなくなったのです」と。 また対談では、博士が敬愛してやまない人物として挙げる、中世イタリアの詩聖ダンテのことが話題となった。 博士は、苦悩の体験こそがダンテの詩の源泉になったことを指摘しつつ、ダンテが故郷から追放されるという苦しみを味わうことがなかったとしたら、「あの『新生』や『神曲』は決して生まれなかったでしょう」と強調したのである。 ![]() 池田先生は1979年4月の会長辞任後、横浜・中区の神奈川文化会館を何度も訪問。世界の識者との会談を行うとともに、日本や各国の友の激励を重ねた。80年4月には、関西の地から“お会いできないかもしれない。それでも先生のもとへ”との思いで集った友のためにピアノを演奏。「厚田村」などの曲を通し、“負けてはいけない”“頑張れ”と励ました そのダンテの家を復元したフィレンツェの博物館を池田先生が訪れたのは1981年6月だった。この時期、池田先生自身も、いわれなき中傷非難と迫害の嵐にさらされていた。 池田先生はその2年前(1979年4月)、宗門僧と退転・反逆者らによる策謀が吹き荒れる中、創価学会と同志を守るための苦渋の決断として会長を辞任した。 その後も一部の雑誌による悪意に満ちた攻撃が執拗に続いただけでなく、宗門側も学会に対して非道な要求を突きつけた。“名誉会長となった池田先生を聖教新聞に出してはいけない”“会合でスピーチしてはいけない”“先生と呼んではいけない”と、陰険きわまりない圧迫をかけたのである。 会合で話してはいけないと言うのならばと、池田先生は全国の学会の功労者の家を一軒また一軒と訪ねて長年の労をねぎらい、共戦の誓いを固め合った。 またある時は、神奈川文化会館に集まった関西の友のために、ピアノで「うれしいひな祭り」「夕焼小焼」「月の沙漠」「厚田村」、そして“大楠公”の5曲を弾いた。 こうした中、会長辞任から1年を経た時期からは、反転攻勢の助走を開始。できる限り多くの同志を励ましたいと、自由勤行会や記念撮影を通して、一人一人と金の思い出を紡いだ。 このうち、名古屋の中部文化会館(当時)では、午前中だけで5回の勤行会に出席し、池田先生は喉を痛めてもなお、同志のためならばと、午後も6回にわたって勤行会に臨んだ。そのわずかの合間にも、広間以外の場所にいたメンバーと握手をしたり、記念撮影をしたりして、心と心を結び合ったのだ。 当時の心境を池田先生は、ある時のスピーチ(1991年12月)でこう語っている。 「真実を真実として、事実を事実として言える世界。学会員一人一人が、魂の自由を謳歌できる世界――。その幸福の時代をつくるために、私は時を待った。時をつくった。 しゃべるなと言われても、書くことができる。書くなと言われれば、音楽を弾いてでも激励できる」と。 そして、会長を辞任した時から続けてきた功労者宅への訪問が200軒を超える中で、1981年10月31日に池田先生が創価大学の創大祭で行ったのが、「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題する記念講演だったのである。(㊦に続く) <語句解説> ギリシャ・トルコ戦争 第1次世界大戦で戦勝国となったギリシャがイギリスの支援を受け、1919年5月、敗戦国トルコ領のイズミル(スミルナ)に出兵。これに対し、トルコ民族運動の指導者ムスタファ=ケマルがギリシャ軍を破り、22年9月にイズミルを奪回。23年7月に独立を回復するローザンヌ条約を締結した。 |