| 第50回 牧口先生 「創価教育学体系」第3巻㊦ 26年1月6日 |
| 1930年に牧口先生が『創価教育学体系』第1巻を発刊した時、新渡戸稲造や柳田国男が序文を寄せる中、その冒頭を飾る序文を記した人物がいた。 社会学者の田辺寿利である。 ドレフュス事件が起きた1894年に生まれた田辺は、牧口先生の母校の北海道師範学校で学んだこともある人物で、30代にしてデュルケムの『教育と社会学』の翻訳を手がけるなど、気鋭の学者であった。 牧口先生はこの田辺と交友があり、フランス語が堪能な田辺が翻訳を進めていたデュルケムの著作について議論を交わすとともに、ヨーロッパの最新の学術情報を巡って意見を述べ合う間柄でもあったのである。 交流を重ねる中で牧口先生がどのような思いで教育理論を構築してきたかを知った田辺は、『創価教育学体系』に序文を寄せただけでなく、当時の日本を代表する総合雑誌の「改造」に書評を発表し、牧口先生の人物像を満天下に示した。 「牧口氏は、未だ曽て自己の所説を権力の下に屈服せしめたことはない。氏は現に、東京市の最優秀校たる芝白金小学校長であるが、威武に恐れず金銭に迷わざる氏の高潔なる性格は、あらゆる暴圧と闘って信ずるところを常に貫徹している」(現代表記に改めた) かつては「暗中模索の不安」や「生来の引込思案」もあったという牧口先生は、教育学に加えて社会学を学んだ経験を通して人間社会を洞察する力を磨き抜くとともに、日蓮大聖人の仏法の信仰を深めていく中で、自らの信念を揺るがぬものへと鍛え上げていったのである。 ![]() 牧口先生が晩年まで所持していたと伝えられる外国語の書籍。右からデュルケムの『道徳教育論』、カントの伝記、ストウの『アンクル・トムの小屋』 牧口先生は『創価教育学体系』で、嫉妬や迫害があろうとも、「さらに『不自惜身命』の決心をもって、いよいよこれを力説するつもりである」「だれかが言わねば、社会は遂に改まるの期はないことを思うからである」(趣意)と師子吼した。 その精神は、13世紀の鎌倉時代において日蓮大聖人が、災害や飢饉などに苦しむ民衆を救うために著した「立正安国論」を貫く「言わずんばあるべからず」(新25・全17)の精神を、20世紀において体現したものであったといえよう。 戦時中に牧口先生と共に投獄され、戦後は創価学会の再建のために一人立った戸田先生も、大聖人の御遺命である広宣流布を前に進めるために非難をものともせず敢然と道を開いた。 また、日本における問題のみならず、地球的な課題に対しても積極的に発言し、「原水爆禁止宣言」(1957年9月)に象徴されるように、国家やイデオロギーの次元ではなく、どこまでも民衆の側に立って問題の解決を求め続けた。 「社会の不幸に目をつぶり、宗教の世界に閉じこもり、安穏として、ただ題目を唱えているだけだとしたら、大聖人の立正安国の御精神に反する。この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、人間の尊厳を守り、平和な社会を築いていくなかにこそ仏法の実践がある」と、訴えてやまなかったのだ。 池田先生も同じく、仏法の生命尊厳の思想を基軸に、世界の平和と人類の幸福への道を開くために生涯を捧げた。 歴史には、逃してはならない「時」がある。 世界には、開かねばならない「道」がある――。 二人の先師が投獄されてから60年が経った2003年12月、池田先生はスピーチの冒頭でこの言葉を述べつつ、日中国交正常化提言(1968年9月)を行った時の覚悟を回想した。 「当時は、東西冷戦の時代であり、中国に対する国内世論は厳しかった。 提言に対しても、批判の声を数多く受けた。脅迫電話もあった。両国の友好を叫ぶことは、命の危険さえともなった。 しかし、民衆のため、平和のため、断じて日中友好の歴史を開かねばならない――それが、私の信念であった」と。 その上で、ソ連を初訪問した時(1974年9月)の真情についても、「『なぜ宗教者が宗教否定の国へ行くのか』等と、ごうごうたる非難を受けた。しかし、批判はもとより覚悟のうえであった。ただ、日ソの友好、そして、対立を深めていた中ソの緊張緩和を願って対話旅を決断した」と語ったのである。 また先師の投獄から70年となる2013年の平和提言でも、創価学会の創立に込められた志についてこう強調していた。 「牧口常三郎初代会長は大著『創価教育学体系』で、なぜ一部の例外を除いて、より良い社会を目指して立ち上がった人々の多くが挫折を余儀なくされてしまうのか、その背景について、次のように考察していました」 「(立ち上がった善人たちに対し)迫害を受けていることに同情はしても、自分には何も力がなく彼らを支えることはできないと考え、最終的に傍観してしまう人々は、生き方の底流に『単なる自己生存』の意識しかないため、『社会の原素とはなるが結合力とはなれず、分解の防禦力ともなり得ぬ』と、問題の所在を明らかにしたのです。 この悲劇の流転を断つために、牧口初代会長は戸田第2代会長と創価学会を創立し、『単なる自己生存』ではなく『自他共の生命の尊厳』を求めて行動する民衆の力強い連帯の構築に立ち上がりました」と。 池田先生が創立100周年を見据えながら、「2030年へ 平和と共生の大潮流」と題して発表したこの提言に、創価学会の出自に刻まれた社会的使命が示されているといえよう。三代会長に脈打つ精神を共に受け継ぎ、民衆による“善の連帯”をさらに大きく広げていきたい。 <語句解説> 新渡戸稲造 明治から昭和期の日本教育界に重きをなした人物。国際連盟事務次長や太平洋問題調査会理事長を務める中で、国際理解と世界平和のために活躍した。 柳田国男 日本民俗学の創始者で、『遠野物語』や『石神問答』などの著作がある。新渡戸稲造らと郷土会を結成し、神奈川県で行った日本で最初の村落調査には、牧口先生も参加した。 不自惜身命 法華経の如来寿量品にある言葉。仏法求道のため、また、法華経を弘通するために、身命を惜しまないこと。 「立正安国論」 1260年7月に日蓮大聖人が、鎌倉幕府の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出した国主諫暁の書。 ※次回(第51回)は2月2日に配信予定 牧口先生 「創価教育学体系」第3巻 (1932年7月) 家庭において子どもが菓子を強く欲しがる場合に、一番幼い弟が真っ先に父母にせがんで叱られる中で、他の兄や姉は、弟が叱られるのをただ傍観するといった状況がみられる。ことわざに「泣く子と地頭には勝てぬ」とあるように、最終的に父母が菓子を与えることになると、それまで傍観していた兄や姉も、当然の権利のごとく、自分たちも菓子を同等にもらいたいと主張する。かくして(兄と姉は)労せずして功を収め、涼しい顔をするのだが、大人の社会でも同様のことがみられる。 善人が、世間でみられる不正義や横暴な悪人に反対し、立ち上がってこれと戦う。この場合、善人は往々にして孤立無援であるのに対し、悪人には必ず強大な仲間による応援があるのが普通である。 ◇ ゆえに、これ(悪人たちの結託)に抵抗して勝利する者は極めて少なく、稀有の人のみである。(中略) その人を尊敬し崇拝する者が、善人が払った犠牲によって(社会が)得た利益の取り分だけを手にしようとするのは、あたかも先に触れた、“自分は何もせずに、幼い弟の力で菓子をもらった兄や姉”と異なる所がないだろう。現在、私たちが当然の権利として、日常の中で獲得している利益は、すべて先人たちが(苦境に打ち勝って)残してくれた犠牲の賜物にほかならないのだ。 ◇ 私が社会学を学ぶことがなく、法華経の信仰に入らなかったら、善良な友人や知人のように、自分もなるべく周囲の機嫌を損ねないよう、悪いことにも見て見ぬふりをし、言いたいことも控えめにして、“人にかわいがられなければ損である”という主義を守ることがあったかもしれない。(中略)しかし誰も彼もが(保身の面では)賢明のようにみえるこの主義であったならば、国家や社会は最終的にはどうなるであろうか。(中略) 勢力を強めて善良な人々をますます迫害する悪人に対して、善人はいつまでも孤立して弱くなっている。一方が勢力を大きくすれば、他の人々はますます萎縮する。社会は険悪とならざるを得ないではないか。 (『牧口常三郎全集』第6巻、趣意 |