第49回 牧口先生
「創価教育学体系」第3巻㊤
26年1月5日
 
 家庭において子どもが菓子を強く欲しがる場合に、一番幼い弟が真っ先に父母にせがんで叱られる中で、他の兄や姉は、弟が叱られるのをただ傍観するといった状況がみられる。ことわざに「泣く子と地頭には勝てぬ」とあるように、最終的に父母が菓子を与えることになると、それまで傍観していた兄や姉も、当然の権利のごとく、自分たちも菓子を同等にもらいたいと主張する。かくして(兄と姉は)労せずして功を収め、涼しい顔をするのだが、大人の社会でも同様のことがみられる。
 善人が、世間でみられる不正義や横暴な悪人に反対し、立ち上がってこれと戦う。この場合、善人は往々にして孤立無援であるのに対し、悪人には必ず強大な仲間による応援があるのが普通である。
    ◇ 
 ゆえに、これ(悪人たちの結託)に抵抗して勝利する者は極めて少なく、稀有の人のみである。(中略)
 その人を尊敬し崇拝する者が、善人が払った犠牲によって(社会が)得た利益の取り分だけを手にしようとするのは、あたかも先に触れた、“自分は何もせずに、幼い弟の力で菓子をもらった兄や姉”と異なる所がないだろう。現在、私たちが当然の権利として、日常の中で獲得している利益は、すべて先人たちが(苦境に打ち勝って)残してくれた犠牲の賜物にほかならないのだ。
    ◇ 
 私が社会学を学ぶことがなく、法華経の信仰に入らなかったら、善良な友人や知人のように、自分もなるべく周囲の機嫌を損ねないよう、悪いことにも見て見ぬふりをし、言いたいことも控えめにして、“人にかわいがられなければ損である”という主義を守ることがあったかもしれない。(中略)しかし誰も彼もが(保身の面では)賢明のようにみえるこの主義であったならば、国家や社会は最終的にはどうなるであろうか。(中略)
 勢力を強めて善良な人々をますます迫害する悪人に対して、善人はいつまでも孤立して弱くなっている。一方が勢力を大きくすれば、他の人々はますます萎縮する。社会は険悪とならざるを得ないではないか。
 (『牧口常三郎全集』第6巻、趣意)

1931年に都内で行われた『創価教育学体系』第1巻発刊の祝賀会の出席者(前列左から3人目が牧口先生、後列左端が戸田先生)

 長年にわたり小学校の校長を務めた牧口先生が1930年から1934年にかけて発刊した『創価教育学体系』――。
 出版された4巻の大著には、各国の教育者の理論を丹念に踏まえた考察とともに、古今東西の精神的指導者や、さまざまな学問を切り開いた先人たちの思想が幅広く紹介されている。
 主な人物の名前を挙げれば、釈尊、孔子、ソクラテス、プラトンをはじめ、カントやルソー、教育学者のコメニウス、ペスタロッチ、ヘルバルト、社会学者のデュルケム、哲学者のディルタイ、ベルグソン、デューイといったように、人類史に輝く精神遺産が『創価教育学体系』の滋養となっていたのである。
 その第1巻の発刊から70年を迎える前日(2000年11月17日)、池田先生は、ヨーロッパ科学芸術アカデミーのフェリックス・ウンガー会長と行った会談で、これらの人物の名を列挙しながら語った。
 「独創的な『創価教育学体系』は、牧口初代会長の、諸文明の英知との“対話”のなかから誕生しました。
 そこには、日本の教育学史上、まれなほど多数の世界の思想家や学者が登場します。そのスケールは『思想の交響楽』とも言われています」
 そしてこの日に同アカデミーから授与された「功労黄金賞」に対して感謝の思いを述べた。
 「牧口会長は、ヨーロッパの精神との対話を深く志向し、その伝統から学びながら、新しいヒューマニズムを打ち立てていかれた。
 その意味から、私は、ヨーロッパの知性の正統を継承される貴アカデミーからの栄誉を、この殉教の師に謹んで捧げさせていただきたいのです」と。
 牧口先生が『創価教育学体系』の中で特に多くの箇所で言及していたのが、社会学者のデュルケムだった。全巻を通じてその名がみられ、教育の目的や価値について論じた箇所では長文にわたる引用がされている。
 牧口先生は、デュルケムをはじめ多くの先人たちの思想に対する吟味や思索を重ねる中で、自らの教育理論にさらに磨きをかけながら、創価教育学の樹立を果たしたのである。

 デュルケムは科学としての社会学の方法論を確立した人物として知られるが、その数々の研究は方法的な関心だけでなく、時代が投げかける課題に真正面から挑むという実践的な関心に導かれたものも多かった。
 1894年に起きたドレフュス事件をきっかけに、フランスで社会の分断が深刻化した時期にも、その背景にある問題を浮き彫りにする論文を発表した。
 陰謀によってスパイの嫌疑をかけられたドレフュス大尉が、実際は無罪にもかかわらず、“国家のために有罪と認定すべき”と強弁する国家主義者に対し、デュルケムは異を唱えた。
 “人格の権利が国家の上にある時、いかなる国家的な事由も人格に対する侵害を正当化することはできない”と述べつつ、こう訴えたのである。
 国家の安泰に不可欠であると認められた行政の機関が、「もし目的から離れれば、どんなに注意深く手段を維持しても何の役に立とう。生きる(vivre)ために、生(vie)の価値と尊厳を成しているものすべてを放棄するとは、なんと悲しい打算であろう」と。
 デュルケムの思想の底流には、“近代社会において道徳的な連帯をどう築けばよいのか”という問題意識があった。
 その問題意識は、牧口先生が、1903年に著した『人生地理学』で、他の人々を犠牲にする形で自分たちの安全や繁栄を求める思考からの脱却を訴え、晩年に至るまで抱き続けたテーマでもあったといえよう。
 1932年に発刊した『創価教育学体系』第3巻では、世間で横暴な動きがみられる時には“善人は往々にして孤立無援の状態に陥る”と強調し、その状態をもたらす社会の構図について次のように考察していた。
 「善良な人であっても(自分を直接的に脅かす)恐怖がない限り、他の人々と連帯して敵に当たろうとする意識が起こらないのに対して、悪人は孤立していては安心できず、自分の生存も危うくなるために、ただちに他人と共同し、特に強者による庇護を受けて自分の身を守ろうとする。そのため、当然の勢いとして昔から今に至るまで、善人は必ず強大な迫害を受けることになる。この状況に対して、他の善良な人々は、内心では同情を寄せるものの(自分たちには)たいした力がないと言って傍観するがゆえに、善人は負けることになる」(趣意)と。
 牧口先生自身も、軍国主義が勢いを増す中で、「悪人の敵になり得る勇者でなければ善人の友とはなり得ぬ」との信念のままに、多くの民衆に犠牲を強いた上で一切の異論を封殺しようとする時代の風圧に、徹底的に抗い続けたのである。