第43回 牧口先生
「創価教育学体系梗概」㊤
25年10月6日
 
 信仰という言葉を口にすると、宗教家の専売品であるかのように青年の教育者などから敬遠されるが、(この言葉を置き換えて)信用や信任といい、信念というならば、日常生活において(人々が)離れることのできない基礎であることがわかるであろう。(中略)
 実のところ、一切の学術においても、また世間の生活においても、少なくとも前途に軌道を見いだして、安全に前に進むことを希望する者にとっては、(信というものが)不可欠の根底となるのであり、信仰や信用という基礎が確立していない生活は、つまるところ、砂上の楼閣を築くに等しいことを知らねばならない。
 そうであるならば、学習指導や生活指導を独特の使命としている教育において、信の確立が何よりも先決問題であることは言うまでもあるまい。(中略)
 教師自身が、信というものを確立していない状態で、子どもたちに対してのみ、信の確立を望もうとすることは、「木に縁りて魚を求む」という行為にほかならず、これほど矛盾したことはないからである。
 三十万余りの教育者で成り立つ全国の教育社会で、はたしてどれほどの信が確立しているだろうか。
    ◇ 
 他人を信用することができず、また、他人からも信用されず、野原の中で一本だけ立っている杉のように孤立無援の境涯であるならば、いつ何時、顚倒の大風の襲来を(自分一人で)受けねばならなくなるかもしれない。これほど不安なことはないのである。
 各々が自他共に、自身に対し、また他人に対して一定不変の信を確立する。そのことによって、自他共に安心して一緒に仕事をし、少なくとも予定の目的を達成するまでは固く結びついて離れる心配が起きない――。そのような方法を講じることができれば、それこそ、陰に陽に繰り広げられている生存競争に、自らの生活力の大部分を徒消して人々が困憊しているような現在の社会で、万人の渇望するところではないか。それが、たとえ容易ならざる希望だとしても、この世では全く実現できない空想に過ぎないと言うべきではないのだ。
 (『牧口常三郎全集』第8巻、趣意)

校長として初めて赴任した東盛尋常小学校で、児童と記念撮影する牧口先生(3列目の右端)

 今から90年前(1935年)、日本の教育現場で閉塞感が強まる中、苦悩を深める青年教育者たちに向けて、創価教育学会が『創価教育学体系梗概』と題するパンフレットを発刊した。
 牧口先生が前年(1934年)までに刊行した『創価教育学体系』の第1巻から第4巻の梗概(内容の概略)などに加えて、牧口先生による緒言と結語などを収めたものである。
 その結語で、教育を巡る喫緊の課題として論じられていたのが、「信の確立」というテーマだった。そこには、次のような危機意識が綴られていた。
 ――人々が日常生活を送るにあたって不可欠の基盤となるのが信頼関係であり、信用の存在である。そうした「信の確立」は、子どもたちの学習指導や生活指導を担う教育において、とりわけ重要となるものだ。
 しかし、全国の教育現場で、どれほどの信が確立していると言えるだろうか。その状況に目を向けて、子どもたちの教育に及ぼす影響を考えた時、戦慄を覚えずにいられる人はどれだけいるだろうか――と。
 この「信の確立」を基盤に据えた学校づくりは、牧口先生が1913年に小学校の校長に就任して以来、心を砕いてきたことにほかならなかった。
 最初の東盛尋常小学校や次に赴任した大正尋常小学校では、経済的事情などで学校に通うことが困難な児童が少なくなかった。牧口先生はそうした家庭を自ら訪問し、誠意を尽くして語り続ける中で、冷ややかな反応だった親たちも協力的になり、牧口先生がいる小学校で学べることを、児童も親も喜びとするようになっていった。
 また、若い教員たちが伸び伸びと教育に情熱を注ぐことができる職場づくりのためにも、全力を傾けた。さまざまな学校の様子を見聞して、胸を痛めてきたことがあったからだ。
 この点について、牧口先生は次のように述べていた。
 “いくら博学の秀才が教職に就いても、意地悪な先輩たちに囲まれて、隠忍自重せざるを得なくなる。その状態が続くと、いつしか覇気もなくなり、意気も消沈する。おとなしくなり、臆病になってしまう”と。
 このような体験を誰にもさせてはならないと、深く一念を定めた牧口先生の存在によって、若い教員が気兼ねすることなく、子どもたちのための教育を第一に考えて働くことができる環境が築かれたのである。
 その結果、大正尋常小学校の校長時代に、「理想的小学校の建設に努力した。広く全国より優良教員を招き、常に研究的態度を以って着々理想の一歩に驀然に進んだ」との評価が寄せられるまでになったのだ。

 しかし1919年12月、権力者らの策謀によって、牧口先生が大正尋常小学校から排斥されるという事件が起きた。
 地元の実力者の子どもに対する特別扱いを拒否したことがきっかけとなり、突如、他の小学校への転任を強いられたのだ。
 事件の裏には、学校中で慕われる牧口先生のことを快く思わない同校の次席訓導の存在があった。東京の行政を陰で牛耳る政治家に働きかけ、牧口先生の追放を画策したのである。
 その陰険な策謀を知った教員たちは、次席訓導を除く全員の一致で牧口先生の留任運動を開始。父母たちもその運動に呼応して、何としても転任を阻止しようと3日間の“同盟休校”を決議した。
 学校と地域を挙げての留任運動は、新聞でも「校長排斥から父兄大会 一訓導の陰謀を怒れる区民 子弟の休校を決議す」との見出しで報じられたほどだったが、大勢の声は受け入れられず、人事は押し通された。
 それでも牧口先生の胸には、教育という聖業に引き続いて取り組む上での確かな手応えが残った。後年、留任運動に立ち上がった教員たちの思いをかみ締めながら、こう述べている。
 ――当時の運動は、“理想的な団結で築き上げてきた教育の場を破壊されることは返す返すも口惜しい”という青年教育者たちの純真な思想によるものであり、為政者の圧政に反抗した民衆運動であった――と。
 その後も牧口先生は、転任先の西町尋常小学校を、政治家の圧力を受けてわずか半年で追われることになった。
 この時、留任運動に奔走したのが戸田先生だった。北海道から上京して牧口先生と初めて出会い、同校で臨時の代用教員となった戸田先生は、土砂降りの雨の中、他の教員と共に留任を求めて街を駆け回ったのだ。
 理不尽というほかない人事は再びまかり通り、三笠尋常小学校へ異動となったが、牧口先生はどのような環境に追いやられようとも、子どもたちのために理想の教育を追求し続けた。
 教育誌に寄せた文章で、“東京の四つの学校を巡ることになり、そのたびに理想的な教育の研究が中断させられたが、そのお陰で自分の教育方法をいたるところに広めることができた”と綴ったように、逆境をも好機に変えて、子どもたちが最善の教育を受けられるように努力を惜しまなかったのである。
 (㊦に続く)
 
 <語句解説>
 砂上の楼閣 崩れやすい砂の上に建てた高い建物は、外見が立派でも基礎がもろいことに譬えて、長く維持できないことや実現不可能なことを表現した言葉。

 木に縁りて魚を求む 魚を取ろうとして木に登るような間違ったやり方をすること。方法を誤ると何も得られないことの譬えで、「孟子」の故事に由来する。

 顚倒の大風 あらゆるものをひっくり返してしまうような、不慮の出来事を表現した言葉。

 隠忍自重 怒りや苦しみをじっと抑えて外に表さず、軽率な行動を起こさないこと。

 次席訓導 戦前の日本における学校の役職の一つで、校長や首席訓導に次ぐ立場の教員。