| 第40回 戸田先生 「思想の混乱」㊦ 25年8月5日 |
| 戦時中に子どもたちが学校で受けてきた教育は、終戦を機に一変することになった。 新しい教科書づくりも進められたが、紙不足の影響で用意が思うように進まず、従来の教科書の軍国主義的な箇所を墨で塗りつぶす形で流用するという、急場の措置がとられた。 この“墨塗り教科書”のことは、池田先生も小説『人間革命』の第2巻で、終戦直後に各地の学校でみられた象徴的な出来事として言及していた。軍国主義的な教育によって子どもたちに植え付けられた知識の多くは、意味を失ったのである。 次元は異なるが、人間と知識との関係を巡って、戸田先生が「思想の混乱」と題する文章で紹介していた逸話がある。 ――医学を学ぶために長崎に行った人が、講義の内容を書き留めたものを荷物に詰め込み、船で帰郷しようとした。しかし瀬戸内海で大波に遭い、すべてを失った。講義録が手元にあれば、故郷で立派な医者として通用すると考えていたために、自分の頭の中には何も残っていなかった――という話である。 牧口先生も戸田先生も、知識の習得は価値を創造する土台になるものと位置付けていた。 ただし、知識の中には、他の国や別の時代において通用しないものがあったり、自分の血肉のようになっていなければ、いざという時に役に立たなかったりするものも少なくない。 この知識に対する認識を人々が改める必要性を痛感し、教育はもとより、出版の事業にも力を入れてきた戸田先生であればこそ、生涯で最後の文章となった「思想の混乱」において、次のような警句を残したのだ。 「知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない」と。 ![]() 池田先生は、“知識と智慧の混同”を巡る問題について、学生部の第10回総会(1967年8月)で論じたのに続いて、第11回総会の講演でも重ねて言及。また、この時の講演を通じて、日本と中国の国交正常化を呼びかける歴史的な提言を行った(1968年9月、東京・墨田区の日大講堂〈当時〉で) この文章が「大白蓮華」に掲載されたのは、1958年4月1日。戸田先生が58歳で逝去する前日であった。 戸田先生がその中で“知識と智慧の混同”に加えて問題視したのが、“健康の意味と生命の意味が同じであるかのようにみなす錯覚”に対してである。 ――確かに「健康」は、日常生活を楽しむ上で相当の役割を占めると言えるだろう。しかし、人間の幸福にとって本当に大切となるのは、自分が生まれてきた意味を見つめながら、人生を輝かせていく「強き生命力」ではないか――と訴えたのだ。 亡くなる最後の最後まで生命力を振り絞って、すべての願業を果たし抜いた戸田先生。 その後を継いで、1960年に第3代会長に就任した池田先生は、学生部など特に若い世代に向けて、“知識と智慧との混同”を正す必要性を呼びかけ続けた。 また、仏法者として社会的な発信を重ねる中で、この問題に何度も言及。1984年8月に教育部(現在の教育本部)の総会に寄せて発表した「教育の目指すべき道――私の所感」では、次のような主張を行った。 ――近代科学は“知識のための知識の追求”を発条にして発展をしてきた面があるが、一方で、核兵器の出現や有害物質をまき散らす公害も招いた。 教育現場に即して、この問題を考えるならば、古典や名作と向き合うことなく、内容を簡略的にまとめた知識だけを求め、「それ以上は知らないし知ろうともしない」といった状況にも通じているのではないか。 「自分だけよければ、という小さなエゴイストではなく、『知恵の全体性』を問いながら、自分の生き方を人類の運命にまで連動させゆく『全体人間』ともいうべき俊逸の育成こそ、教育の本義であることを、私は信じてやまない」――と。 ![]() 1984年8月、東京・千代田区の日本武道館で行われた全国教育者総会。池田先生は総会に寄せて、「教育の目指すべき道――私の所感」を発表。そこで呼びかけられた提案を受け、教育本部の友は40年以上にわたって「教育実践記録運動」を積み重ねてきた その後も池田先生は、インターネットが急速に普及した時期に、ハワイの東西センターでの講演(1995年1月)で、改めてこう問題提起した。 「空前の高度情報化社会を迎えた今、膨大な知識や情報を正しく使いこなしていく『智慧』の開発は、いよいよ重大な眼目となっている」 その上で、「発達した通信技術は、民衆の『恐怖』と『憎悪』を煽るために悪用される場合もある。その一方で、教育の機会を世界に拡充するために活用することもできます。それを分かつのは、人間の『智慧』と『慈愛』の深さなのであります」と呼びかけたのである。 また21世紀に入ってからも、この問題を取り上げて注意を喚起し続けた。 「ネットで検索すれば、どんな知識もたちどころに閲覧できるようになったのは便利に違いありませんが、そうしたデータの多くは玉石混交であり、場合によってはミスリードを目的にした悪意に基づくものさえあります」 「どれだけ情報を集めても、かえって自分の考える力を埋没させたり、悪意の情報に流されてしまえば、本末転倒になってしまう」と。 池田先生がこう訴えたのは、現在の生成AI(人工知能)の発達につながる礎の一つとなった研究が発表された時期(2014年)でもあった。 インターネットによる情報検索の時代を経て、生成AIが多くの分野で活用され始めるようになった今、人間の幸福につながる「知」のあり方を見つめ直す重要性は、ますます高まっているのではないだろうか。 <語句解説> エゴイスト 自分の利益や自分の立場のことだけを考えて、他の人々や社会のことは考慮に入れずに、自分勝手に振る舞う人。 玉石混交 宝石としての価値を持つ「玉」と普通の「石」が入り交じっているという譬えを通し、優れたものと取るに足らないものが混在していることや、良いものと悪いものが一緒になっているような状態を指した言葉。 生成AI あらかじめ学習したデータをもとにして、文章や画像や音声などを新たに生成するAI(人工知能)技術の総称。近年、性能が飛躍的に向上してきた一方で、誤った情報の生成・拡散や、著作権の侵害をはじめ、さまざまなリスクも懸念されている。 ※次回(第41回)は9月1日に配信予定 戸田先生 「思想の混乱」 (1958年4月) 世界の文化人が迷乱している思想に二つある。この二つの迷乱が、いろいろな悲劇を人生にあたえている。 一つは、知識が即智慧であるという考え方である。知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない。 つぎは、健康即生命との思いあやまりである。健康であれば、生命も長生きであるような、錯覚におちいっている。ただし、健康であることが、その人の日常生活をいかに楽しませ、いかに活動させるかを認めないのではない。それは、生活条件には必須なものではあるが、生命それ自体とは、また違ったものである。 ◇ こんな話もある。ある人が長崎へ医学の修業にいって、行李三杯ほどの講義録をためて、揚々として帰国した。これさえあれば、りっぱな医者で通せると思ったのである。ところが、瀬戸内海で大波にあい、船が沈没して自分だけが助かった。かれの頭のなかには、医学の一物も残っていなかった。 と、こんな話は、昔の人の話のように思うが、今の大学生が、たんねんに先生の講義を筆記している。(中略)その人が、その講義を全部自分の物にしているかというに、さはなくて、ただ試験に通りたいためである。このように、智慧と知識は根本的な相違がある。 ◇ 人間は何のために生まれてきたか、こういうことを人に聞くとき、満足に答える人はおらない。親孝行のために生まれてきたといっても、それは実際的ではなかろう。金もうけのために生まれてきたというならば、資本主義の変形である。人間に生まれきたったわれわれの目的は、楽しむためであるということを、どこまでも忘れてはならない。その楽しむためには、健康というものが、そうとうの役割を占めることを忘れてはならぬ。それとて度をすぎるならば、身をあやまるもとになる。 要するに、根本は強き生命力と、たくましき智慧とによって、わが人生を支配していかなくては、ほんとうの幸福は得られないことを知らねばならぬ。 (『戸田城聖全集』第1巻) |