| 第39回 戸田先生 「思想の混乱」㊤ 25年8月4日 |
| 子どもたちのために教育の改良を推進 自分で考える習慣を通して「智慧」を育む ![]() 戸田先生 「思想の混乱」 (1958年4月) 世界の文化人が迷乱している思想に二つある。この二つの迷乱が、いろいろな悲劇を人生にあたえている。 一つは、知識が即智慧であるという考え方である。知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない。 つぎは、健康即生命との思いあやまりである。健康であれば、生命も長生きであるような、錯覚におちいっている。ただし、健康であることが、その人の日常生活をいかに楽しませ、いかに活動させるかを認めないのではない。それは、生活条件には必須なものではあるが、生命それ自体とは、また違ったものである。 ◇ こんな話もある。ある人が長崎へ医学の修業にいって、行李三杯ほどの講義録をためて、揚々として帰国した。これさえあれば、りっぱな医者で通せると思ったのである。ところが、瀬戸内海で大波にあい、船が沈没して自分だけが助かった。かれの頭のなかには、医学の一物も残っていなかった。 と、こんな話は、昔の人の話のように思うが、今の大学生が、たんねんに先生の講義を筆記している。(中略)その人が、その講義を全部自分の物にしているかというに、さはなくて、ただ試験に通りたいためである。このように、智慧と知識は根本的な相違がある。 ◇ 人間は何のために生まれてきたか、こういうことを人に聞くとき、満足に答える人はおらない。親孝行のために生まれてきたといっても、それは実際的ではなかろう。金もうけのために生まれてきたというならば、資本主義の変形である。人間に生まれきたったわれわれの目的は、楽しむためであるということを、どこまでも忘れてはならない。その楽しむためには、健康というものが、そうとうの役割を占めることを忘れてはならぬ。それとて度をすぎるならば、身をあやまるもとになる。 要するに、根本は強き生命力と、たくましき智慧とによって、わが人生を支配していかなくては、ほんとうの幸福は得られないことを知らねばならぬ。 (『戸田城聖全集』第1巻) かつて「軍国の花」と呼ばれた桜を、平和と友誼を象徴する花に――池田先生は1979年4月、創価大学を訪れた中華文化促進会の高占祥名誉主席(右から4人目。当時、全青連代表団団長)らと共に、中国の周恩来総理と鄧穎超夫人を顕彰する「周夫婦桜」を植樹。交流はその後も続き、2012年に対談集『地球を結ぶ文化力』を発刊。戦時中の体験などを語り合いながら、日中友好の未来を展望した 「知識」との向き合い方を学び、自分で考え抜く力を磨いて、より良い人生と社会を築くための「智慧」を育む――。 牧口先生と戸田先生が、心を一つにして取り組んだ人間教育の眼目はそこにあった。 牧口先生は1934年に発刊した『創価教育学体系』第4巻で、こう訴えていた。 「教育は知識の伝授が目的ではなく、その学習法を指導することにある。研究の進め方を会得させることにある。知識を切り売りしたり、注入することではない。自分の力で知識を学ぶことができる方法を会得させ、知識の宝庫を開く鍵を与えることにある。他の人が見いだした心的財産(知的財産)を労せずして横取りさせるのではなく、(それを自らの手で)発見し発明する過程を踏むことができるように導くことだ」(趣意) その問題意識は、牧口先生が一時期、文部省に勤務して地理教科書の編纂に携わった際にも強く抱いていたものだった。 知識を平板的に並べてひたすら暗記させるという教え方が改良されることを願い、従事した仕事だったが、“せっかく苦労をして生きた地理を書いても、大事な肉は削り取られて骨ばかりにされてしまう”と落胆せざるを得ない結果に終わった。 その後、教職に復帰し、子どもたちが“教科で学ぶ知識”と“自分の人生”との関係を見いだすことができる教育を展望して、牧口先生が1916年に著したのが『地理教授の方法及内容の研究』である。 当時は、1914年に勃発した第1次世界大戦の戦火が一向にやまず、国際社会の分断と混迷が深まっていた。 そこで牧口先生は、この世界的な大戦争について日本の人々がどれほどの知識を有しているだろうかと問いかけながら、この問題に関する“一定の見識”を持つことが望ましいが、少なくとも“自分で考えて調べることができるだけの素養”が必要ではないかと問題提起した。 また、戦争や社会の問題を考える上では、世界の出来事を報道する新聞を「読む力」、記事の内容を「正当に解釈する力」が求められると指摘した。 こうした問題意識に立って、教科の内容と教え方を改良する重要性を強調したのである。 ![]() 時習学館の生徒と記念撮影する戸田先生(2列目中央の和服姿)。塾の名称は、『論語』の「学びて時に之を習う」に由来したものといわれている その問題意識を、牧口先生は『創価教育学体系』で“考えよりも考え方を”と一言で表現していた。 戸田先生は、師の主張の正しさを自らの実践を通して証明しようと挑戦を続けた。 私塾の時習学館で使用していた教材をもとに、1930年に出版した『推理式指導算術』は100万部を超えるロングセラーとなったが、そこには次のような宣言がなされていた。 「(算術は)解き方を教える学問でもなく、解くことを記憶する学問でもない。解くことを考える学問である。考えるそのことに価値があり、考える習慣を得ることに、この学問習得の効果が現れるのである」(現代表記に改めた) また1933年には、時習学館の国語科の教員との共著で、『推理式読方指導』を出版した。 そこで力を入れていたのが、知識の習得を土台にしながら、物事の本質を推理して考え抜くための問題である。 孔子に関する文章では、「高弟にはどんな人がいましたか」といった知識を確認する問題に終始するのではなく、次のような問いが並べられていた。 例えば、「『朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり』とは、どういうことを言った言葉ですか」との問いを通して、そこまで言い切れるほどの重みを持つ“道”とはどのようなものかについて思いを馳せ、人間としての生き方を見つめ直す契機にすることが促されていた。 また、孔子が生きた中国の春秋時代に関連づけて、「日本で戦乱が止むことがなかった時代はいつですか」とあえて尋ねることで、自国の歴史に引き当てながら、孔子が直面した時代状況の厳しさについて考えを巡らすことを後押ししたのだ。 この本が出版された翌年、牧口先生が『創価教育学体系』第4巻を著した年(1934年)は、池田先生が尋常小学校に入学した年でもあった。 当時、1年生の国語で使用されたのが、“サクラ読本”と呼ばれた国定教科書である。 「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まる教科書には、当時の空気を映し出すように、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」との言葉もあった。 池田先生は、日増しに戦時色が濃くなった少年時代のことを世界の識者との対談集で歴史の証言として語り残しているが、牧口先生と戸田先生はその時代の真っ只中で、“国家のための教育”ではなく“子どもたちのための教育”を追求していったのである。 (㊦に続く) <語句解説> 行李 竹や柳で編まれた箱形の物入れのこと。旅をする時に荷物を運ぶために用いられた。 第1次世界大戦 三国同盟(ドイツ・イタリア・オーストリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の対立を背景に、1914年7月から1918年11月まで行われた最初の世界戦争。日本やアメリカなどヨーロッパ以外の国々も参戦する中、戦死者は約1000万人に達したといわれる。 孔子 中国の春秋時代末期(紀元前6世紀~紀元前5世紀)の思想家。儒教の始祖。その言行は死後に『論語』としてまとめられた。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の言葉は、『論語』の里仁篇に収められている。 |