第35回 池田先生
牧口先生 生誕記念協議会でのスピーチ㊤
25年6月2日
 
巌窟王の心で牧口先生の正義を証明
万難を越え 創価の師弟は教育で勝った


池田先生 「牧口先生 生誕記念協議会」でのスピーチ (2005年6月)
 牧口先生は獄死され、戸田先生は生きて獄を出られた。
 戸田先生は厳然と語り残された。
 「私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる」「私の代にできなければ、きみらがやっていただきたい。たのみます」
 私は、この戸田先生の意志を受け継いで、牧口先生の哲学と人生を宣揚してきた。創価学園をつくり、日本にもアメリカにも創価大学をつくった。(中略)
 世界のどこに行っても、創価教育から巣立った人材が活躍している。
 牧口先生は勝ったのである。創価の師弟は勝ったのである。私は本当にうれしい。
    ◇ 
 プラトン亡き後のことである。一人の知識人、エピクロス派のコロテスが、ソクラテス、プラトンの師弟をはじめ、名だたる大哲学者たちを批判する文章を著した。
 後に、この批判書の存在を知った一人に、『英雄伝』で有名な作家プルタークがいる。プルタークは、プラトンに代わって、コロテスの主張に対する痛烈な反論(『コロテス論駁』)を公表し、青年たちにも教えていった。
 プルタークの反論の急所は、いったい何であったか。それは、プラトンの学園(アカデメイア)で学んだ弟子たちが、世界に貢献していった具体的な事実をあげたのである。(中略)  
 社会に貢献しゆく人材を、どれだけ出したか。ここに、教育の真価に対する歴史の審判の一つがあることを、この話からも知ることができる。
 さまざまな面で行き詰まりが指摘される現代である。
 それを打破する力はどこにあるのか。
 遠回りのように見えるかもしれないが、私は、教育こそ、未来を開く根本の方途であると確信してやまない。
 要は、人間が変わることだ。人材をつくることだ。そこから、社会は変わる。世界は変わる。
 社会に世界に寄与しうる実力と人格を備えた指導者を育成していく以外に、未来は開けないのである。そこに創価教育の大使命があることを忘れないでいただきたい。
 (『普及版 池田大作全集 スピーチ』2005年〔2〕)


2005年5月に行われたアメリカ創価大学の第1回卒業式(カリフォルニア州アリソビエホ市で)。池田先生はビデオでメッセージを寄せるとともに、「21世紀の大学――世界市民の揺籃」と題する記念講演を発表。「『あの卒業生は偉大なことを成し遂げた! 光っていた!』と仰がれゆくような、偉大な人生を勝ち進んでいただきたい」との言葉を贈った

 2005年6月6日、牧口先生の生誕134周年を迎えたその日、池田先生は語った。
 「軍国日本は、偉大なる牧口先生を、その思想ごと踏みにじった。
 それに憤激し、“巌窟王”となって立ち上がったのが、戸田先生であった。
 その魂を継承したのが私である」
 「創価教育を実践する学校をつくりたい――牧口先生から戸田先生に託された“創価の師弟の夢”は、今まさに現実のものとなった」
 「『創価の師弟は、教育で勝った!』と、私は声高らかに宣言したいのである」と。
 その前月(5月22日)、太平洋を挟んだカリフォルニア州で、創価教育にとって重要な節目となる行事が開催された。
 アメリカ創価大学(SUA)の第1回卒業式である。
 歴史を振り返れば、牧口先生と戸田先生が軍部権力によって投獄された(1943年7月)のは、日本がアジアの国々への侵略にとどまらず、太平洋戦争に突入して、アメリカと全面対決していた時期だった。
 他の国々への高圧的な態度と、自国の国民への人権侵害とは、尊厳の軽視という点で表裏一体といわれるが、当時の日本はその状態にあったのである。
 高齢であった牧口先生は、信念の闘争を貫いた末に獄中で逝去した(1944年11月)。
 しかし、子どもたちの幸福を願って人間教育の実践に注いだ情熱と、平和と人道の世界を求めて訴え続けた思想が潰えたわけでは決してなかった。
 共に獄中闘争を貫き、生きて獄を出て(1945年7月)からは、師の正義と真実を満天下に知らしめるべく、残りの生涯を捧げた弟子がいたからだ。
 戸田先生はその不退の覚悟をこう述べていた。
 「牧口先生のご葬儀は、わずかの親類縁者と官憲の眼を恐れぬ二、三の人々によって行われたということを、私は出獄して初めて知った。
 この時、私は『価値論』を生みだした世界の偉人の葬儀の状態を聞いて、腹の中が煮えくりかえり、『よしっ――先生を世に出さずにおくものか!』と奮起した」
 「『先生のあとを継承し、世界における学会の使命を断固として果たして死のう!』という私の決意は、絶対に変わることはない」と。

1930年9月、白金小学校の教員と青梅に旅行をした時の牧口先生。普段は厳しい表情でも、子どもたちと接する時には、とても良い笑顔をしていたと証言されている
 戦後、戸田先生の奮闘によって学会の再建は進み、同志の数は増えていったが、牧口先生の謦咳に接したことのある人は限られており、その人柄や思想を知る人も少ないままだった。

 そこで戸田先生は、1951年4月の聖教新聞の創刊に合わせて、小説『人間革命』の執筆を開始。3年4カ月に及ぶ連載を通し、牧口先生の折々の言葉や振る舞いを伝えるとともに、戦前・戦中における学会の歴史を描いていったのである。
 そこには、戸田先生自身も“巌九十翁”の名で登場している。この主人公の名は、文豪デュマの傑作『モンテ・クリスト伯』――戦前の日本では黒岩涙香の翻案で新聞連載され、『巌窟王』の題名で親しまれてきた仇討ちの物語に由来したものだ。
 終戦の前(1945年1月)に予審判事から、牧口先生が獄死したことを突然知らされた戸田先生は、独房の中で決然と誓った。
 「よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう」と。
 “巌九十翁”の名には、その時の誓いが結晶していたのだ。
 小説は後に単行本としても発刊されたが、そこでは、牧口先生が学会の活動によって何を目指していたのかについて、主人公との語らいの場面を通し、次の言葉が記されている。
 「この世の多くの人々に、幸福になる種子……いいかえれば、幸福に必ずなる根元的な生命力を分かち与えることが、最高の善であって、これを大善というのです。この種子を心田、人の心の田へ蒔けば、必ず、幸福になる。この幸福の種子を、多くの人々へ贈る生活……これが大善生活で、根本的に運命の転換が行われるのです」
 また、“謹厳実直”というイメージにとどまらない牧口先生の人物像――同志に深い慈しみの心を注ぎ、こまやかな心遣いをする姿や、弟子の人生が大きく開けた時に底抜けの笑顔で喜ぶ姿も描かれている。
 「『福運がきた! 福運がきたよ! いよいよ、あなたも一人前になる。これを冥益というんだ。「妙楽」の……末法の初め冥利なきにあらず……という言葉を、よくよく味わいたまえ、はッ! はッ! はッ! これは愉快だ!』
 牧口常三郎が、いつも厳しく鋭く光っている眼を糸のようにして、鼻の下の髭を押上げて口を大きく開け、事務所一杯に声を響かせた」
 常に苦楽を共にした絆があったからこそ、師の人間味あふれる姿を後世に綴り残すことができたのではないだろうか。
 (㊦に続く)
 <語句解説>
 コロテス プラトンの逝去(紀元前347年)から数十年後の時代に、哲学者エピクロスに師事した知識人。プラトンらを批判する文章を著して、古代エジプトの王・プトレマイオス2世に捧げた。
 『モンテ・クリスト伯』 19世紀半ばにアレクサンドル・デュマが発表した長編小説。偽りの密告によって主人公のダンテスが孤島の牢獄に幽閉されるが、脱獄に成功して彼を陥れた人々に復讐し、恩人に恩返しをしていく物語。
 冥益 信心を深める中で知らないうちに得ている功徳のことで、冥利ともいう。唐の時代の僧・妙楽は、『法華文句記』に“末法の初めにも、人々が気づかないうちに受ける利益がある”と記した。