第33回 戸田先生
「第2回城東支部総会」での指導㊤
25年5月5日
 
終戦10年の日に先師有縁の地を訪問
学会の使命は民衆救う人間革命運動に


戸田先生 「第2回城東支部総会」での指導 (1955年11月)
 われわれ創価学会のなすべき仕事は、日本民衆、いな、東洋の民衆を幸福にするための宗教革命であります。昔のことから考えてみるのに、電話ができ、自動車が走り、汽車、電車、またラジオ、そのほか、あらゆる文明のものができているにもかかわらず、昔の人からみて、われわれの幸福がまさっているでありましょうか。
 昔の、おじいさん、おばあさんが悲しんだごとく、われわれ文明の民衆も同じく、悩みや苦しみをもっている。いな、むしろ社会が複雑になるにつれて、民衆の苦しみは増しているとみる以外にはありません。自由が叫ばれながら、われわれがあらゆる面において束縛されており、それは、これが解決は物質文明によってのみ幸福が得られると考えている、いまの科学者の偏見からきたものであります。
 人生の幸福には、物質文明はもちろん必要でありますが、それと並行して、正しい信仰が必要なのです。正しい宗教が必要なのです。そこに宗教革命をなさねばならない根本原因があるのです。
 ただし、革命と申しますれば、ことばがなんとなくぶっそうに聞こえる。なにか剣でも鉄砲でも持ってやらなければならないように思うでありましょうが、わが宗教革命は、けっしてそんなものではない。おのおの、個々の人間革命を行うことによってのみ、宗教革命が行われるのです。(中略)
 (その人間革命の意味について)一歩、つきすすんでいうならば、人間自体が喜んで生きていける人間になることであります。
 これから、五年、七年、十年と信仰を続けていくうちには、かならずや、あなたたちが人間革命ができ、よくもあんなにりっぱになったものといわれるだろうと思うのです。
    ◇ 
 自分が幸福になりながら宗教革命をやり、自分が得をしながら人を助けていく、こんなうまいことはないではありませんか。このような立場で、しっかりと信心を捨てずに、ゆっくりと急がず、まじめに信心をしてください。
 (『戸田城聖全集』第4巻)


日本が太平洋戦争に突入する1カ月前(1941年11月)、牧口先生は1週間余にわたって九州を訪問。福岡の二日市町(現・筑紫野市)で行われた九州総会に出席した翌朝、牧口先生は八女に向かう前に、同志と記念のカメラに納まった(前列中央)
 「幸福には、絶対的幸福と相対的幸福の二つがある。絶対的幸福を得ることが人生の楽しみであり、人間革命である」
 「われわれは、人間革命、宗教革命によってこそ、ほんとうの幸福をつかみ、平和な社会を建設することができるのである」
 終戦から10年となる1955年8月、戸田先生が北海道の旭川で訴えた言葉である。
 この夏、戸田先生は、学会の広布の陣列を年末までに30万世帯に拡大することを目指し、日本中を駆け巡っていた。
 浜松、名古屋、新潟を訪れた後、終戦記念日の8月15日には福岡県の八女郡福島町(現・八女市)に足を運んだ。
 八女は、初代会長の牧口先生が1939年の春に弘教のために訪れ、九州で初めて学会員が誕生した場所であった。
 きっかけは、東京で信心を始めた一人の青年が、“両親に仏法の話を何度もしたが、母親の反対が強い”と牧口先生に悩みを打ち明けたことだった。
 「そんなにむずかしい人なら、私が行ってあげよう」と、牧口先生は近所に出向くかのような雰囲気で、青年の実家がある八女に行くことを約束した。
 当時、牧口先生は67歳。長時間に及ぶ汽車での移動は負担が大きかったに違いないが、数日後には単身で九州に旅立った。
 東京駅を出発し、青年の実家に着いたのは翌日の夕刻近く。玄関で折り目正しく挨拶をする牧口先生の姿を見て、母親は“この人が、息子が話していた創価教育学会の会長なのか”と驚き、“わざわざ、こんなところにまで……”と言葉にならない思いが胸に迫ったという。
 仏法についての確信あふれる言葉を聞き、夫妻で一緒に入会を決意した母親に、牧口先生は「諸法実相抄」の一節を通して万感こもる言葉を贈った。
 「あなたが御本尊をいただくということは、仏法の原理に照らして、九州の全民衆が不幸という悩みから救われることになるのです!」
 「今、あなたが九州で一人、この最高の御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるということは、地涌の義によって、九州にも必ず、二人、三人、百人と御本尊を持つ人があらわれるということなのです」と。
 牧口先生の激励は一度きりでは終わらなかった。翌年(40年11月)も、また次の年(41年11月)も八女に通い続けた。
 3度目の訪問の際には、特高刑事が監視する中で行われた創価教育学会の九州総会にも出席し、刑事に制止されるまで悠然と話を続けたのである。
 その牧口先生を不敬罪などの容疑で逮捕して獄死させ、戸田先生にも2年間の獄中生活を強いた軍部権力の横暴が、終戦によって瓦解してから10年の節目を迎えた8月15日――。
 牧口先生の魂魄が留まる八女の地に赴いた戸田先生の胸に去来したのは、果たしてどのような思いであっただろうか。

1955年8月24日、札幌市内で行われた大会で挨拶する池田先生。札幌への派遣メンバーの中心者として奮闘を続ける中、師の戸田先生を迎えて大会が行われたこの日は、くしくも池田先生の入信8周年の日だった
 戸田先生は翌日(8月16日)、東京へ戻り、18日には北海道に向かった。連日、列車に乗って、旭川、夕張、小樽、函館、札幌での会合に出席し、各地の同志を励ましながら、夏季指導を締めくくったのである。
 この時、池田先生は札幌への派遣メンバーの中心者を務めていた。全国45カ所で弘教が推進される中、“札幌・夏の陣”の名で語り継がれる10日間の活動を通して、池田先生は日本一の拡大を成し遂げたのだ。
 そして8月30日、東京の豊島公会堂で行われた本部幹部会。池田先生の活動報告をはじめとして、各地の前進の模様が伝えられ、場内は広布の上げ潮による熱気で沸き返っていた。
 その一つ一つの報告を誰よりも感慨深く聞いていたのが、戸田先生にほかならなかった。
 池田先生が小説『人間革命』第9巻で、師の姿に触れながら、「戸田は、成果の数字よりも、救われた不幸な五千五百余世帯の人びとの身の上を思って喜んだ」と綴っていたように、戸田先生の願いはただ一つ、苦悩にあえぐ民衆が希望を取り戻し、幸福な人生を歩めるようになることであったからだ。
 当時、学会の前進が勢いを増す中、一部の新聞や雑誌で、根拠のない中傷記事や悪意に満ちた報道が相次いでいた。
 戸田先生はその偏見の嵐を打ち払うべく、牧口先生の十二回忌法要の2日後(11月20日)に東京で行われた城東支部の総会で、こう宣言した。
 「われわれ創価学会のなすべき仕事は、日本民衆、いな、東洋の民衆を幸福にするための宗教革命であります」と。
 その上で、“革命”といっても世間で取り沙汰されるような物騒なものでは決してなく、学会が進める「人間革命」の眼目は、一人一人が「喜んで生きていける人間になること」にあると、誰もが理解しやすい簡潔な言葉で表現したのである。
 それはまさしく、牧口先生が八女の地で訴えていた“全民衆を不幸から救う”という強い願いと、奥底でつながるものだったといえよう。
 
 〈語句解説〉
 絶対的幸福 どこにいても、何があっても“生きていること自体が幸福で楽しい”という境涯のこと。物質的に充足したり、欲望が満たされたりした時のような、外的な条件が整った時に感じる喜び(相対的幸福)とは異なり、条件に依存せず、環境に左右されることのない幸福境涯を指す。
 諸法実相抄 日蓮大聖人が1273年5月、流罪地の佐渡において著した御書。「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたうるなり。未来もまたしかるべし。これ、あに地涌の義にあらずや」(新1791・全1360)との一節を通して、広宣流布の方程式が説かれている。