| 第31回 牧口先生 「人生地理学」〈第3篇〉㊤ 25年4月7日 |
| 生存競争に伴う犠牲が拡大した20世紀 「国家の最終目的は人道にある」と主張 牧口先生 「人生地理学」〈第3篇〉 (1903年10月) 社会の変化に伴い、生存競争の単位において変化が生じるとともに、競争の形式もまた、次第に変化していくのを見ることができる。その変遷を四つに大別するならば、軍事的競争、政治的競争、経済的競争、また、人道的競争という、それぞれの時代がこれに当たる。 ◇ (このうち3番目の)経済的競争は、商工業による平和的戦争であるとか、実力的な競争であるといわれる。(中略)武力的戦争は、突然、惨劇が起きるために、人々の意識は戦争に向けられた形で経過していく。これに対し、経済的競争は徐々に進み、緩慢に行われるため、(人々の間では日常的な出来事であるかのように)無意識的に経過するものとなっている。しかも経済的競争は、(弱肉強食的な競争が際限なく続けられるために)最終的に人々の身に及ぶ惨劇は、武力的戦争よりも、かえってはるかに激烈で甚大なものとなる。武力的戦争は、講和交渉の場を通じて、しばしば平和を回復することができるが、(経済分野における)実力的な競争はそのようには簡単に休止できるものではないのだ。 ◇ (4番目の)人道的競争の形式とは、いかなるものであろうか。従来、武力や権力をもって自らの領土を拡張させ、なるべく多くの人類を自らの意思の力の下に服従させようとし、あるいは実力を行使すること――その外見は武力や権力と違っていても同じ結果を得ようとしてきたこと――に対して、(人道的な振る舞いという)無形の勢力を通じて、他の国や人々を(望ましい方向に)自然な形で薫化していくものである。(中略) もとより、人道的な方式といっても単純な方法はない。政治的であれ、軍事的であれ、また経済的であれ、(各分野での競争を)人道という範囲内で行うことである。要は、その目的を利己主義だけに置くのではなく、自己とともに他の人々の生活を保護し、増進させることにある。言い換えれば、他のためにし、他を益しつつ自己も益する方法を選ぶことであり、(同じ世界に生きる人間として)共同生活を行うことにあるのだ。 (『牧口常三郎全集』第2巻、趣意) ![]() 『人生地理学』に綴じ込まれていた「国際勢圧力分布略図」。国名や地名が、右横書き(文字を右から左に記す形式)で表記されている 牧口先生は1903年10月に発刊した『人生地理学』で、当時の世界を取り巻く状況について、次のように描写していた。 「今の時勢は、経済的競争の時代となっている。そのため、現在の国際社会における力は、すべて富強の目的に集中するようになっており、(人道的競争のような)他の高尚な競争方式を顧みる余裕はなく、各々が離合する際の紐帯も、すべて利害問題となっている」 「それぞれの国や人々は、かりにでも利益が見込まれる所、すなわち、経済的侵略の余地がある所、機に乗じて政治的権力を振るうことのできる隙間がある場所を目がけて、虎視眈々としている」(趣意)と。 帝国主義や植民地主義が世界で大きく広がるきっかけとなったのは、1873年にイギリスを襲った大不況だった。 以来、ヨーロッパの国々やアメリカとの間で経済的競争が激化し、これらの列強諸国が勢力範囲の拡大を目指して、“世界の分割支配”に乗り出す動きが本格化したのである。 その結果、アフリカをはじめ、中南米やアジアの各地域で植民地化が急速に進み、経済的な搾取も横行する中、そこで暮らす大勢の人々は忍従と窮乏を強いられることとなった。 牧口先生はその様相に対し、「あたかも、高気圧の場所から低気圧の場所へと、空気が流動していく気象現象のような状況となっている」と述べ、苛烈さを増す“弱肉強食的な競争”に警鐘を鳴らしたのである。 『人生地理学』の巻頭には、2種類の地図が綴じ込まれており、そのうちの一つが「国際勢圧力分布略図」であった。 そこにはまさしく、世界地図の上に“天気図における等圧線”のような線が幾重にも引かれており、各国の勢力範囲が表されているだけでなく、各国がどの地域に向けて勢力を伸ばそうとしているかを示す矢印も克明に記されていた。 地図には、日本の動向を示す矢印もある。『人生地理学』の発刊の8年前(1895年)、日本は日清戦争で得た遼東半島の領有権を、フランスとドイツとロシアからの三国干渉を受けて返還することになった。そうした中で、日本が新たに太平洋の島嶼部にも関心を向け、アメリカやイギリスとの間で利害の衝突が起きようとしている様子が、日米英の3種類の矢印で示されていたのだ。 ![]() 1996年7月、池田先生は、東京・渋谷区の創価国際友好会館(当時)で平和学者のケビン・クレメンツ博士と会談。池田先生は、牧口先生と戸田先生が軍部権力と戦い抜いた歴史に言及。仏教の平和思想を踏まえつつ、「人間を犠牲にし、生命を犠牲にし、民衆を犠牲にすることを断じて許さないことです。この戦いのなかにこそ『平和』があります」と語った その後、日本が日露戦争に突入したのは、『人生地理学』の発刊から4カ月後(1904年2月)のことだった。 欧米の列強諸国の後を追い、日本も覇権争いの渦に突き進んでいった時代にあって、32歳の青年だった牧口先生は、「地球を舞台としての人類生活現象」と題した『人生地理学』の第3篇において、こう訴えた。 「国家にとっての終局的な目的は、人生における最終的な目的とも一致する、人道にあらねばならない」(趣意)と。 こうした思想が随所で説かれているように、『人生地理学』は単に地理的な知識を網羅することに主眼を置いたものではなかった。 また、生存競争に重大な関心を向けてはいるが、国際情勢を巡る当時の書籍とは異なり、勝ち残るためにはどうすれば良いのかといった戦略論に焦点を当てたものでもなかった。 20世紀から21世紀へと歳月が経過した今もなお、その先見性に多くの識者が共感を寄せるものとなっている。 例えば、牧口先生は「水界」(海洋などの場所)が“人類の交通路”として果たしてきた意義に着目していた。地球上の陸地が、人類を分断させて各々の集団が立てこもるような場所となってきた面があるのに対し、海洋は人類を移動させる道となり、結びつける役割を持ってきたと強調していたのだ。 日本と同じく太平洋に面しているニュージーランドの出身で平和学者のケビン・クレメンツ博士は、海洋の存在を国と国とを“分け隔てる濠”ではなく、“往来と交流の道”として捉えていた牧口先生の発想について、高く評価していた。 博士との対談集(『平和の世紀へ 民衆の挑戦』)の中で、そのことが話題になった時に、池田先生はこう述べた。 「私が、世界平和への行動の第一歩としてハワイの地を選んだ(一九六〇年)のも、SGI発足の会合をグアムで行った(一九七五年)のも、この美しい太平洋を、二度と悲惨な“戦争の海”“分断の海”にしてはならないとの思いからでした」 他の国や民族を犠牲にして、生存競争に勝ち残ることだけを至上視するような時代に終止符を打ち、自国も他国も「平和」と「幸福」を共に享受する世界を築く――。こうした牧口先生の思想こそが、SGIの平和運動の精神的支柱となってきたことを、池田先生は身をもって示してきたのである。 <語句解説> 日清戦争 1894年8月から1895年4月にかけて日本と清国(現在の中国)が行った戦争。欧米各国が講和を斡旋する中、下関で条約が結ばれ、戦争は終結した。 三国干渉 1895年4月、フランスとドイツとロシアは、日本による遼東半島の領有に反対し、清国への返還を要求。返還後、列強諸国による中国の分割が始まり、日本ではロシアとの戦争に備えようとする動きが強まった。 日露戦争 日本とロシアが1904年2月から1905年9月まで行った戦争。日本は約108万人の兵力を動員し、死者は約10万人に達したといわれる。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で、講和条約が締結された。 |