| 第29回 池田先生 「第7回本部幹部会」でのスピーチ㊤ 25年3月3日 |
| 池田先生 「第7回本部幹部会」でのスピーチ (1988年7月) 私の胸には、日興上人の次の仰せが、強く深く響き、また迫ってくる。(中略) ――かつてインドの仏法がしだいに東へと向かった時、インドのサンスクリットの音を漢語に翻訳して、中国へ、日本へと伝えられた。それと同様に、日本の、大聖人が使われた尊き言葉も、広宣流布の時には、かな(で書かれた御書)を訳して、インドへも中国(震旦)へも、世界中に流通していくべきである――との御遺命であり、必ずそうなるとの御予見である。(中略) この日興上人の御確信を仰いで、私も世界の広布に走った。御書の翻訳も厳たる軌道に乗りつつある。 ◇ 世界への広布の広がりも、皆さま方が日本のそれぞれの地域にあって、地道に、また着実に根を張り、活躍してこられたがゆえである。“わが地域の前進”こそが、そのまま“世界への流布”の原動力となる――。ゆえに、皆さま方こそ、もっとも大切な“根っこ”の存在なのである。(中略) さて、大聖人は仏法流布の方軌について、「教機時国抄」に、こう記されている。 「仏教は必ず国に依つて之を弘むべし」(御書全集四三九ページ)と。(中略) また「随方毘尼」の毘尼とは「戒」のことで、仏法の本義に違背しないかぎり、各地域の風俗や習慣にしたがい(随方)、また時代の風習にしたがう(随時)べきであるとの戒である。 仏教は本来、こうした幅広い柔軟な考え方をしている。信心を根本に、その国の良き国民とし、良き市民として、ありのままに伸び伸びと成長し、社会に貢献していくことが、大聖人の仰せにかなった正しき軌道なのである。 ともあれ世界は広い。いよいよ、これからである。私は今、一年また一年、限りなき希望をいだきながら、また真心の応援を重ねつつ、本格的な“世界の舞台”を開くために、一つ一つ盤石な布石を打っている。私どもの努力は、時がたてばたつほど、壮大な未来図として結晶すると確信している。 (『池田大作全集』第71巻) ![]() 1988年7月、東京・信濃町の創価文化会館(当時)で行われた第7回本部幹部会。池田先生は、日蓮大聖人が門下に対する手紙で、かな文字を使いながら、わかりやすい言葉で大法を説いたことに言及。「どこまでも民衆を愛し、民衆の大地に根ざしていく――これ以外に正しき広宣流布の大道はない」と訴えた 「この曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや」(新1633・全1124) 日蓮大聖人が、佐渡流罪中に認めた「経王殿御返事」の一節である。 幼い子どもが病気になったとの報告を門下から受けて、一日中、その快癒を祈念したことを伝えるとともに、門下自身が信心を奮い起こして苦難を乗り越えていけるように、渾身の激励をした御書だ。 当時の政治の中心地だった鎌倉から遠く離れた場所に流罪となり、手紙を書くための紙を得ることも難しい状況下で、1273年に執筆された一つの御書――。それは750年以上の歳月を超えて、今も日本のみならず、世界192カ国・地域の同志にとって“かけがえのない信心の依処”となっている。 病気だけに限らず、さまざまな試練に直面して、目の前が真っ暗になった時に、この一節に脈打つ“大聖人の深き慈愛と揺るぎない大確信”に触れて、どれだけ多くの世界の同志が“前に進む勇気”を得て、苦難を乗り越えてきたことだろうか。 大聖人の御書が数多くある中で、この「経王殿御返事」は、学会として初めて全文を英訳した御書にほかならなかった。 1966年7月、池田先生の提案によって、来日する海外の同志の研修用のために、急遽、英訳が用意されたのである。 その後、教学研鑽でよく学ばれる御書を中心に、一編また一編と、英訳が進められるようになったが、翻訳担当者の労苦は並大抵のものではなかった。 池田先生は、その前人未到の労作業の尊さを世界広布の歴史に厳然と留めるべく、小説『新・人間革命』第11巻で次のように綴っている。 「仏法用語など、英語にはない概念の言葉や、文化の違いをどう説明するかも、難しい問題であった」 「たとえば、有名な『諸法実相抄』に、『鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし』(全1361)という御文がある。日本では、虫の音についても、『なく』という感覚でとらえる伝統があるが、欧米では、そうとらえる人は少ない。これは、文化的な風土の違いによるものといえよう」 「翻訳は、華やかなスポットライトを浴びることもない、地味で目立たぬ労作業である。しかし、それは、世界の広宣流布を推進するうえで、いかに大きな貢献であったか。偉業というものは、賞讃も喝采もないなかで、黙々と静かに、成し遂げられていくものといえる」 ![]() 英語やスペイン語をはじめ、世界の10言語以上で翻訳・出版されてきた日蓮大聖人の御書 一つの御書の全文が初めて英訳された 1966年は、池田先生の呼びかけによって、学会が『日蓮大聖人御書講義』の編纂を開始した年でもあった。 池田先生自身もこの取り組みに先駆ける形で、同年の7月3日に、日蓮大聖人御書十大部講義の第1巻として『立正安国論講義』を発刊している。 その時の思いを池田先生は、「大聖人の御指南が、いかにすばらしくとも、現代人が御書を理解できないのであれば、価値を創造することはできない」と記している。この問題意識は、第3代会長として御書の翻訳に力を入れた責任感にも通底していたと思えてならない。 以来、学会では御書講義の編纂とともに、御書の翻訳に力が注がれ、1979年には「観心本尊抄」や「佐渡御書」など、36編を収録した『英文御書解説』第1巻が発刊された。 その後、1999年に172編の御書を収めた『英文御書』が発刊され、2006年にその続編が刊行。「経王殿御返事」の英訳から、実に40年間に及ぶ労作業を経て、御書のほぼ全編の英訳が完成したのだ。 最初の英訳から20年以上の歳月が経過した1988年7月。池田先生は本部幹部会でのスピーチで、大聖人の弟子である日興上人が“広宣流布を進める時には、御書を外国の言葉に翻訳して世界中に伝えなければならない”と遺命していたことに触れて、次のように語った。 「この日興上人の御確信を仰いで、私も世界の広布に走った。御書の翻訳も厳たる軌道に乗りつつある。 そして今、いかなる不思議な約束であろうか、まさに、この時に、はるか世界の各地から、使命の若人たちが一時に集いきたった」と。 この時、世界23カ国から青年たちが来日し、大聖人の仏法の研鑽に真剣に臨んでいた。 その姿に対して池田先生は、「これは、表面は小さな動きのように見えるかもしれない。また社会から注目されることもないであろう。しかし因果俱時の法理に照らし、その意義の深さは計り知れない。必ずや将来、人類のために大きく開花し、結実していくことを確信する」と、讃えてやまなかったのだ。 (㊦に続く) <語句解説> 日興上人 日蓮大聖人の弟子として、2度の流罪にも同行。大聖人滅後の妙法弘通を託された。 曼荼羅 信仰の本尊として、仏などの諸尊を総集して掛け軸などに図顕したもの。日蓮大聖人は、策謀によって斬首の危機に見舞われた「竜の口の法難」を機に、御本尊を図顕。御本尊を「曼荼羅」「大曼荼羅」とも呼んだ。 佐渡流罪 1271年9月、鎌倉幕府の権力者らが、日蓮大聖人を斬首しようと策謀したが失敗し、10月に佐渡への流刑に処した。1274年2月に無罪が認められ、大聖人は3月に鎌倉に帰還した。 因果俱時 人間の一念(瞬間瞬間の生命)に、「因」と「果」が共に同時にそなわること。 |