第25回 牧口先生
創価教育法の科学的超宗教的実験証明
〈第一章〉㊤
25年1月6日
 
遠い将来を見据えて苦言を語り残す
「教育のための社会」を築く挑戦を!

牧口先生 「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」〈第一章〉 (1937年9月) 

日蓮大聖人の言葉に、「病の起こりを知らざる人の病を治せば、いよいよ病は倍増すべし」とある。

このことは、現在、日本で起きている教育制度改革の論議にも、適切に当てはまる命題ではないだろうか。

日本の教育制度は、明治維新から70年近くの間に欧米文化の直訳や輸入で出来上がってきたが、その中で弊害となっている面を取り除いて、他の面での大きな功績を永遠に残すためには、病の原因を深くさかのぼって根底から治療しなければならない。

ところが、そのようにはせず、やみくもに枝葉末節に手を入れて外見的な体裁を整え、その場を取り繕うようにしてきたために、今日、大きな困難に直面することになった。(中略)

今や日本の現在の社会は、政治も経済も道徳もその他の生活も行き詰まっている。

(その中で)病根はすべて人材の欠乏にあると気づき、教育を改良して将来の禍根を除去する必要があると目覚めるまでにはなってきた。

しかし(対応は)、国民健康保険制度の導入といった程度の、物質面からの部分的な改善にとどまっており、根本となる人間精神のあり方に関わる立て直しを考えるまでには及んでいないようである。

それは、あたかも画竜点睛を欠くに等しいといえよう。

我々は(少しばかりの提言をするために)、本書を提供するに当たって、単刀直入に、(創価教育法による実験の)結果として表れた成績をありのままに記述した。

読者の方々は(それらの実験を)直接的に観察する代わりに、この記述を読むことを通して、忌憚のない評価をしていただきたい。

また、そのような結果が生じた原因について明らかにすることによって、検討が進められ、対策が追求されることを望むものである。

昔であれば首が飛ぶであろうと思われるほどの大胆で率直な提言を、怖れずに行うだけの自信を持っているのには、それ相応の深い根底があることを看破してほしい。

ささいな名利のために行ったのではないことだけでも、認識してもらいたいと切望するのである。 (『牧口常三郎全集』第8巻、趣意)

「時習学館」で学ぶ子どもたちと記念撮影をする戸田先生(前列左から6人目)。

戸田先生は教育方針として、“文化建設という人類共通の理念に向かって雄々しく努力する健闘主義の人間をつくる”との目的を掲げた

牧口先生が1937年9月に著した『創価教育法の科学的超宗教的実験証明』――。

それは『創価教育学体系』の発刊後に書き上げられた小冊子であり、晩年まで発表を続けた多くの論文を除いて、最後の単行著作となるものだった。

自らの思索と実践の集大成ともなる著作を出すに当たって、牧口先生はその信条を「はしがき」にこう綴っていた。

「甘い果実のように賞味されて、その場限りになるよりも、苦い種子の役目を果たして、たとえ吐き出されたとしても、遠い将来に役立つように遺すことが、我々に与えられた使命ではなかろうか」(趣意)と。

当時は、美濃部達吉の天皇機関説に対する国会での弾劾演説(35年2月)を機に思想や学問への圧力が高まっていただけでなく、日中戦争が勃発(37年7月)して間もない頃である。

牧口先生も、「四十年間の没頭、四面楚歌の裡にある」と自ら述べていたように、厳しい状況に置かれていた。

子どもたちの幸福のために教育の改善に没頭して、独自の教育理論を確立したものの、なかなか理解の輪は広がらなかったからだ。

しかし牧口先生は、決して落胆しなかった。

牧口先生の学説を実践する教師たちが成果を上げてきたことを紹介しながら、「人間教育において一定の軌道が見つかり、百発百中の普遍的方法が確立されるならば、人類の幸福のために、冷眼視するべきものではない」(趣意)と述べ、社会での公正な論議を求めたのである。

また、同書に込めた思いを、次のように切々と訴えた。

「昔であれば首が飛ぶであろうと思われるほどの大胆で率直な提言を、怖れずに行うだけの自信を持っているのには、それ相応の深い根底があることを看破してほしい」(趣意)と。

ここで言う「深い根底」には、万人の幸福のための法理を説いた日蓮大聖人の仏法への確信があったことはもとより、当時30代だった戸田先生が成し遂げた教育実践への絶大な信頼があったと思われてならない。

戸田先生が発刊した『推理式指導算術』に対し、牧口先生は自らの学説の「唯一最大の価値の証明」と称賛するとともに、戸田先生が開いた塾についても「私立小学校時習学館」とあえて表現していた。

牧口先生は、創価教育に基づく学校を創設する構想を抱いていたが、時習学館はその先駆けにほかならないとして、弟子の挑戦を“かけがえのない希望”として受け止めていたのだ。

学会創立65周年を記念して、八王子市の東京牧口記念会館に設置された「牧口常三郎先生の像」。

1995年1月2日、池田先生が67歳の誕生日を迎えた日に、除幕式が行われた。

像の前に立った池田先生は、死身弘法の精神で学会の礎を築いた先師の遺徳を偲んだ

同書の前半では教育を巡る課題を論じているが、注目すべきは、第一章の冒頭で日蓮大聖人の「種々御振舞御書」の次の一節を掲げていることである。

「病の起こりを知らざる人の病を治せば、いよいよ病は倍増すべし」(新1241・全921)

当時の教育改革は、行き詰まりの根本原因を見極めようとはせず、枝葉末節の部分ばかりに手を入れようとしていた。

それが状況を悪化させていることに対し、仏法の洞察を踏まえながら問題提起を行ったのだ。

加えて牧口先生が懸念していたのが、教育改革に対する社会の関心が低いことだった。

その背景として、牧口先生は次のような点に目を向けた。

一つは、社会において分業化が進み、それぞれの分野の関連性が複雑になる中で、人々が目前の仕事に忙殺されて、物事を全体的に見渡して考えることができなくなっていること。

もう一つは、実際の結果に基づいて証明すれば、教育問題は理解しやすい面もあるはずなのに、膨大な知識に依る形で説明しようとするために、かえって人々の理解を難しくさせてしまっていることである。

残念ながら、牧口先生の懸念は当時の社会で真摯に受け止められなかった。しかもこの傾向は戦後も基本的には変わらず、教育改革もその場しのぎの対応が続く面があった。

時を経て、こうした混迷を打破するために、池田先生が2000年9月に発表したのが、「『教育のための社会』目指して」と題する提言だった。

現代における教育改革論議に対して、「“特効薬”を求めるあまり、長期的展望を欠いた対症療法的な改革にならぬよう留意すべき」と指摘する一方で、池田先生はこう呼びかけた。

「“社会から切り離された教育”が生命をもたないように、“教育という使命を見失った社会”に未来はありません。

教育は単なる『権利』や『義務』にとどまるものではなく、一人ひとりの『使命』にほかならない――そう社会全体で意識変革していくことが、すべての根本であらねばならないのです」と。

つまり、21世紀の教育を見据えて最重要の焦点となるのは、教育を社会の一分野として埋没させずに、あらゆる人々が使命感をもって「教育のための社会」を築くことにあると訴えたのだ。