第24回 池田先生
「沖縄広布35周年開幕記念総会」
でのスピーチ ㊦
24年12月17日
 
60年前に執筆を開始した小説の主題
一人一人の「人間革命」が世界を変革

1988年2月18日に沖縄研修道場で行われた記念総会でのスピーチで、池田先生は開口一番、こう呼びかけた。

「沖縄の皆さまと五年ぶりにお会いでき、本当にうれしい。

四年前の『世界平和の碑』の除幕には出席できず、申しわけなく思ってきたし、また広布三十五周年の開幕にあたり、ぜひともご一緒に佳節を祝賀したいとの思いから、訪問させていただいた」

そして、法華経の「三変土田」の意義を論じるに当たって述べたのが、次の言葉であった。

「妙法は“永遠の幸福”への法である。しかも、わが身ばかりではない、先祖も子孫も、また国土をも永遠に栄えさせていける不可思議の大法である。

他にも功徳を及ぼしていくその原理が『回向』である。

私は仏法者として、いずこの地にあっても、その地の人々の先祖代々の追善回向をさせていただいている。

ここ沖縄でも毎日、皆さま方のご先祖はもちろんのこと、戦争の犠牲になったすべての方々のために、追善の題目を唱えている。

戦禍に逝いた民衆も兵士も、また米軍の兵士も、すべて含めて、真剣に回向している。その人の立場に立てば、同じくみな悲劇である。

仏法者としてだれ人も差別することはできない」

ここで池田先生が仏法の生命尊厳の思想に照らして訴えていたように、民衆も、日本の兵士も、アメリカの兵士も、“戦争に巻き込まれて命を失った”という一点において、悲劇であることに変わりはない。

そうした人々のことを胸に浮かべながら、仏法の慈悲に基づく「回向」の祈りを行うことによって、悲劇に見舞われた国土も平和と幸福の方向へ向けることができると訴えたのだ。

日蓮大聖人の仏法における「回向」の本義は、故人を弔うだけでなく、自身の信心を通して得た功徳を、他の人々に回らし向けて、三世にわたる生命が幸福の軌道に向かうように、功徳を及ぼしていくことにある。

そうした「回向」に関する思想は、大乗仏教において開花したものであった。

古くからあった「因果応報」や「業報輪廻」といった考え方に立った時には、悲劇に見舞われた人々や国土の運命は、他の人が状況を変えたいと努力を重ねても、最終的には“どうすることもできないもの”として諦めるしかなくなってしまう。

そうではなく、法華経の化城喩品で説かれる「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生とは 皆共に仏道を成ぜん」との言葉のままに、大聖人の仏法では“皆が平和で幸福に生きられる世界を築くこと”を自らの使命とする精神が脈打っているのだ。

この点に関して、池田先生はスピーチで、「妙法受持の人の世界は、もはや無常や悲哀に閉ざされた世界では決してない」「この苦悩に満ちた人生、社会・国土を『常住』の『寂光楽土』へと転じていくことができる」と強調したのである。

まさに大聖人の仏法の実践を通して変革できるのは、一人一人の人生だけにとどまらない。

社会も、国土も、そして世界をも変えることができるというのが、法華経の「三変土田」の法理であり、池田先生が今から60年前(1964年12月2日)に沖縄の地で執筆を開始した、小説『人間革命』の主題にほかならなかったのだ。

かつて核ミサイルが格納されていた発射台も、“冷戦対立の中で否応なく設置された、自分たちとは直接関係のないもの”と捉えれば、取り壊す以外に選択肢はなかったのかもしれない。

しかし、取り壊すことで“目の前の風景”を変えることはできても、それだけでは“核兵器を巡る世界の状況”を動かすことはできない。

本当の意味で必要なのは、核兵器によって大勢の民衆の生命を奪うことを許さない思想を、人類共通の精神として確立することだ。

池田先生はその挑戦の象徴として、ミサイルの発射台を「世界平和の碑」に変え、その場所に課せられていた役割を百八十度転換したのである。

この意義について、池田先生との対談集で“軍事目的を平和目的に転換する方向へ、立派なモデルを示した”と高く評価していたのが、核時代平和財団で長らく会長を務めたデイビッド・クリーガー博士だった。

1998年2月、沖縄研修道場に博士を迎えた時、池田先生は平和への信条をこう語った。

「戦争を引き起こす魔性を打ち破り、生きて生きて生き抜いて、平和を実現しゆく無限の『希望』の力――それは、人間の生命の中にあります」

「その力を一人一人から引き出し、結集していくのが、『人間革命』の平和運動です」と。

「世界平和の碑」に刻まれた、「願わくは 全人類の前途に安穏なる歴史の日の一刻も早く来らんことを」との池田先生の言葉は、理想や願望を述べたものでは決してない。

先に触れた法華経の化城喩品の「願わくは」で始まる一節の精神と同じように、自らの人生を賭して「生命尊厳の世紀」を開く先頭に立つことを誓った池田先生の深い覚悟と、創価学会の歴史的使命を力強く宣言したものだったのである。


<語句解説>

因果応報 

古代インド哲学における因果論で、前世や過去の善悪の行為が「因」となり、その報いとして現在に善悪の「果」がもたらされるという考え方。

これに対して仏教では、「因」が直接的に「果」をもたらすのではなく、外在的な間接因である「縁」と合わさること(因縁和合)で、はじめて「果」が生じるという、因縁説(縁起説)が説かれた。



業報輪廻 

それぞれの人間の善業や悪業は、生まれ変わっても、必ず当人に受け継がれて輪廻していくという考え方。

仏教の業の思想はこのような決定論的な宿命論ではなく、日蓮大聖人の仏法では宿命転換の法理を通し、業による束縛からの解放が示された。



池田先生 「沖縄広布35周年開幕記念総会」でのスピーチ (1988年2月)

(日蓮大聖人は)安房の国(千葉県南端部)の一婦人にあてた御手紙の中で「うらしまが子のはこなれや・あけてくやしきものかな」

――浦島太郎の玉手箱のように、あなたからのお手紙をあけたことが悔やまれるのである――と仰せになっている。

懐かしい古里に住む一婦人から手紙をいただき、喜んで開いて読んだ。

しかし、それは、その婦人が最愛の息子に先立たれたという悲しい知らせであった。本当に残念で残念でならない、と。

亡くなったその子息を悼む大聖人の御心情が、しみじみと伝わってくる御言葉である。

御本仏の大慈大悲、また寄るべない婦人に対するこまやかな心遣いに、深い感動の思いを禁じえない。

     

妙法は“永遠の幸福”への法である。

しかも、わが身ばかりではない、先祖も子孫も、また国土をも永遠に栄えさせていける不可思議の大法である。

他にも功徳を及ぼしていくその原理が「回向」である。

私は仏法者として、いずこの地にあっても、その地の人々の先祖代々の追善回向をさせていただいている。

ここ沖縄でも毎日、皆さま方のご先祖はもちろんのこと、戦争の犠牲になったすべての方々のために、追善の題目を唱えている。

戦禍に逝いた民衆も兵士も、また米軍の兵士も、すべて含めて、真剣に回向している。その人の立場に立てば、同じくみな悲劇である。

仏法者としてだれ人も差別することはできない。

     

沖縄の地には、ある意味で、どの地よりも、苦しみぬいて亡くなった方々が多いといえる。(中略)

沖縄の地に眠るそうしたすべての方々を「抜苦与楽」していくことによって、この国土の福運をも増していく。

いかなる国土も、妙法の光でつつみこみ、仏国土へと変えていける。これが法華経の「三変土田」に通ずる法理である。

国土の宿命をも転換しゆく、この真実の平和と繁栄の大原理は、他の政治や科学や経済等の形而下の次元にはない。

ただ妙法による以外にない。(『池田大作全集』第70巻)