第23回 池田先生
「沖縄広布35周年開幕記念総会」
でのスピーチ㊤
24年12月16日
 
国土の宿命転換を説いた法華経の法理
不戦を誓い「世界平和の碑」を建立

(日蓮大聖人は)安房の国(千葉県南端部)の一婦人にあてた御手紙の中で「うらしまが子のはこなれや・あけてくやしきものかな」

――浦島太郎の玉手箱のように、あなたからのお手紙をあけたことが悔やまれるのである――と仰せになっている。

懐かしい古里に住む一婦人から手紙をいただき、喜んで開いて読んだ。

しかし、それは、その婦人が最愛の息子に先立たれたという悲しい知らせであった。本当に残念で残念でならない、と。

亡くなったその子息を悼む大聖人の御心情が、しみじみと伝わってくる御言葉である。

御本仏の大慈大悲、また寄るべない婦人に対するこまやかな心遣いに、深い感動の思いを禁じえない。

妙法は“永遠の幸福”への法である。しかも、わが身ばかりではない、先祖も子孫も、また国土をも永遠に栄えさせていける不可思議の大法である。

他にも功徳を及ぼしていくその原理が「回向」である。

私は仏法者として、いずこの地にあっても、その地の人々の先祖代々の追善回向をさせていただいている。

ここ沖縄でも毎日、皆さま方のご先祖はもちろんのこと、戦争の犠牲になったすべての方々のために、追善の題目を唱えている。

戦禍に逝いた民衆も兵士も、また米軍の兵士も、すべて含めて、真剣に回向している。その人の立場に立てば、同じくみな悲劇である。仏法者としてだれ人も差別することはできない。

沖縄の地には、ある意味で、どの地よりも、苦しみぬいて亡くなった方々が多いといえる。(中略)

沖縄の地に眠るそうしたすべての方々を「抜苦与楽」していくことによって、この国土の福運をも増していく。

いかなる国土も、妙法の光でつつみこみ、仏国土へと変えていける。

これが法華経の「三変土田」に通ずる法理である。

国土の宿命をも転換しゆく、この真実の平和と繁栄の大原理は、他の政治や科学や経済等の形而下の次元にはない。

ただ妙法による以外にない。(『池田大作全集』第70巻)

恩納村の沖縄研修道場にある「世界平和の碑」。

2019年10月に研修道場で本部幹部会が行われた折には、海外から参加した友が碑の前に集い、不戦の誓いを新たにした

「沖縄は永遠平和の砦にして まさに世界不戦の象徴なり」

「願わくは 全人類の前途に安穏なる歴史の日の一刻も早く来らんことを」――

恩納村にある沖縄研修道場の「世界平和の碑」に刻まれた、池田先生の言葉である。

碑の除幕後、池田先生がこの場所に初めて足を運んだのは、1988年2月16日だった。

この年の1月2日に還暦を迎えた池田先生は、実業家の松下幸之助氏から次のような祝詞を受け取っていた。

「本日を機に、いよいよ真のご活躍をお始めになられる時機到来とお考えになって頂き、もうひとつ〈創価学会〉をお作りになられる位の心意気で、益々ご健勝にて、世界の平和と人類の繁栄・幸福のために、ご尽瘁とご活躍をお祈り致します」

まさにこの言葉に応えるかのように、池田先生は以前にも増す勢いで、日本と世界に平和建設の波動を大きく広げるべく、日夜、奔走を続けた。

新たに「第1回」と銘打って行われた本部幹部会をはじめ、日本での諸会合に出席した後、1月27日からは香港と東南アジアを20日間にわたり歴訪した。

タイのプーミポン国王、マレーシアのマハティール首相、シンガポールのリー・クアンユー首相と会見したほか、香港大学、チュラロンコン大学、マラヤ大学、国立シンガポール大学を訪問。また、香港、タイ、マレーシア、シンガポールの同志に、それぞれ長編詩を贈った。 

沖縄の「世界平和の碑」を訪れたのは、こうした海外での行事や激励を終えて、那覇の空港に到着した翌日だった。

2月16日、碑の前で沖縄の同志と記念撮影した池田先生が、休む間もなく、精魂を込めて取り組んでいたことがあった。

一つは、長編詩「永遠たれ“平和の要塞”――我が愛する沖縄の友に贈る」の執筆である。

 17日の夕方の会合で池田先生が「長編詩を書いたよ」と伝えると、会場は歓喜と驚きの拍手に包まれた。

その日の朝、北陸の同志への長編詩が聖教新聞に掲載されていたのを、皆が目にしたばかりだったからだ。


 「ああ 沖縄!
 忍従と慟哭の島よ
 誰よりも 誰よりも
 苦しんだあなたたちこそ
 誰よりも 誰よりも
 幸せになる権利がある
 そうなのだ
 ここに安穏なくして
 真実の世界の平和はない
 ここに幸の花咲かずして
 人の世の幸福はない」


翌日(18日)の新聞で長編詩を読んだ沖縄の同志は、“沖縄に生まれ合わせたことの使命”や“沖縄の地で広布開拓の人生を歩むことができる喜び”を共にかみしめ合ったのだ。

1988年2月18日、恩納村の沖縄研修道場で行われた「沖縄広布35周年開幕記念総会」。

池田先生は「立正安国論」の一節を通しながら、「妙法は、社会と国土を繁栄させゆく無量の福運の源泉である。

そして、この大法の偉大さを証明していくのは、妙法を受持し実践する『人』にほかならない」と呼びかけた

そしてもう一つ、池田先生が心血を注いでいたのが、「沖縄広布35周年開幕記念総会」のスピーチの準備であった。

総会の前日(17日)、沖縄の代表と懇談した際に、池田先生が総会にかける思いを込めて、「明日は長い話になるな」と語っていたように、そのスピーチは約1時間に及ぶものとなった。

そこで重要なテーマとなっていたのが、法華経で説かれる「三変土田」の現代的な意義だった。

「三変土田」とは、法華経の宝塔品において、釈尊が三度にわたって娑婆世界や他の国土を浄化して、同じ一つの浄土へと変じさせたことを指す。

池田先生はスピーチの5年前(83年3月)、沖縄研修道場を初訪問した折に、この「三変土田」の意義を現実の姿を通して示すべく、「世界平和の碑」を建立することを提案していた。

研修道場の敷地内には、かつて核ミサイル「メースB」が格納されていたアメリカ軍の発射基地があった。

沖縄に設置された四つの発射基地のうち、三つは沖縄の本土復帰前に取り壊されていたが、研修道場にだけ、当時の姿のままで残っていたのだ。

池田先生は、堅牢なコンクリートで造られた発射台の内部を丹念に視察し、その施設も取り壊す計画があることを聞いた。

熟慮を重ねた先生が、翌日に語ったのが、発射台を平和の記念碑として永遠に残すという、思いもよらない提案だった。

「『人類は、かつて戦争という愚かなことをした』との一つの証しとして」

「『戦争を二度と起こさない』との誓いを込めて」と。

その提案から1年後(84年4月)、沖縄研修道場で「世界平和の碑」の除幕式が行われた。

池田先生は、除幕式の前日から5日間、東京で会見が続いたために出席はできなかったが、

「この日こそ、沖縄の地が、全世界に平和を叫びゆく原点の地となったことを、声高らかに宣言しておきたい」とメッセージを贈り、碑の誕生を祝した。心は沖縄と共にあったのだ。 


 <語句解説>

抜苦与楽 

仏法で説く慈悲の行為。人々から苦しみを取り除き、喜びや楽しみを与えること。



メースB 

広島に投下された原子爆弾の約70倍の破壊力を持つ核ミサイル。アメリカの施政権下にあった沖縄に、1960年代前半から配備された。

射程距離は約2400キロで、中国やソ連の一部が射程範囲にあったといわれる。

69年の日米首脳会談で撤去の方針が決定し、70年までに撤去された。

沖縄の本土復帰 太平洋戦争後、日本は1952年発効のサンフランシスコ平和条約で主権を回復したが、沖縄はアメリカの施政権下に置かれた。

69年の日米首脳会談で沖縄の返還が決定。72年5月15日、沖縄は日本に復帰した。