第22回 戸田先生
「科学と宗教」㊦
24年12月3日
 
物理学者と仏法者が相違を超えて対話
人間の「生死」を巡る大乗仏教の思想

「科学と宗教」というテーマは、牧口先生が強い関心を抱き続けたテーマでもあった。
1930年に発刊した『創価教育学体系』では、宗教家は科学を軽視すべきではなく、「二十世紀までの科学の発達を無視して、如何にして現代人を満足せしめる事が出来よう。

何物を創造し得よう」と述べていた。

さらに1936年には「科学と宗教との関係を論ず」と題した論考を発表している。当時の雑誌に科学者の石原純博士が発表した論文を批評しつつ、自らの考えを明らかにしたものだ。

石原博士は欧州留学中にアインシュタイン博士の下で学んだ経験があり、アインシュタイン博士が来日した時(1922年)には、各地の講演で通訳や解説を務めた物理学者だった。

慶應義塾大学で講演会が行われた際には、牧口先生も戸田先生を伴って、アインシュタイン博士の話に耳を傾けた。

その機縁もあって、石原博士が発表した論文にも、強い関心をもったのではないかと思われる。

科学万能主義に立って宗教を無視する傾向を誡める一方で、既成宗教の迷信的要素を批判した論文の内容に、牧口先生は敬意を表しつつも、“宗教によって幸福を期待し、自己の幸福のために祈ること”を一律に否定する主張には疑問を呈した。

『創価教育学体系』で訴えていたように、「人を救い、世を救うことを除いて、宗教の社会的存立の意義があろうか」(趣意)というのが、牧口先生の揺るがぬ信念だったからである。

モスクワ大学元総長のログノフ博士と、21世紀の教育と科学と哲学を巡る語らい(1998年4月、八王子市の東京牧口記念会館で)。

その前年、池田先生夫妻は、博士の伴侶(アンナ夫人)の逝去を悼み、「ログノフ夫婦桜」と「ログノフ夫人桜」を庭園に植樹。会談前に庭園を訪れた博士は、「この桜を見て、『本当の人間主義が、ここにある』と実感しました」と語った

社会を良くする役割を担うべきはずの科学と宗教が、互いを否定し合う状態から脱しなければ、混乱は深まるばかりである――。

この牧口先生の問題意識を受け継いだ戸田先生に続く形で、積年の課題に道筋をつけようとしたのが池田先生だった。

その結晶の一つが、理論物理学者でモスクワ大学の総長などを歴任したアナトーリ・A・ログノフ博士との対談集『科学と宗教』(94年発刊)である。

「私の歩んできた人生、私が受けた教育は、宗教的世界観を完全に否定した環境の下にあった」という博士が、対談集の第1章で池田先生に率直に語ったのが、

「生命という不可思議な心の次元の世界は、唯物主義、科学万能主義でははかりしれない」との実感であった。

そして対話が終盤に差しかかる中、博士は、21世紀の科学の要件についてこう述べた。

「科学は宗教と対立すべきものではない。互いに“協調”して発展しゆくべきものです」

「宗教の豊かな智慧を、吸収できる科学であるべきだと思います」と。

一方、この博士の見解に全面的に賛同した池田先生が、21世紀の宗教の要件として挙げたのが、以下の4点だった。

第一に、科学の発達によって、その法理がますます明快になるような普遍性をもつ。

第二に、科学の成果を積極的に認知しつつ、自らの世界観を豊かにしていく奥行きをもつ。

第三に、科学の発展のために直観力を与え、独創性を生みだす源泉になる。

第四に、科学技術が人類のために役立つよう、方向づけをしていく使命を担う――。

このような形で冷戦終結後に物理学者と仏法者の間で交わされた対話は、「あとがき」で博士が、「両者の立場がまったく異なっていながらも、ある面で共通の結論に行き着いている」と記したように、意義深い実りをもたらすものとなった。

池田先生とログノフ博士の対談集『科学と宗教』。『第三の虹の橋』に続く博士との対談集として、1994年に上下2巻で発刊された

対談集の最終章では、人間の根源に深く関わる「生死」の問題が焦点となっている。

ログノフ博士は、対談の連載中(1993年7月)に、子息のオレグさんを亡くした。

「息子の死を契機として、『生死』の問題をさらに真剣に考えました」と述べる博士に、池田先生は「四年ほど前、ログノフ博士とオレグさんが来日されたおり、ご一緒に親しく懇談したことが忘れられません。

聡明なすばらしい青年科学者でした」と言葉をかけ、こう語った。

「私は仏法者として、ねんごろに追善させていただきました。ハーバード大学の講演でも、ご子息の墓前に捧げる思いで、仏法の生死論を展開してまいりました」と。

講演は、オレグさんの逝去から間もない1993年9月に、「21世紀文明と大乗仏教」と題して行われたものだった。

池田先生が論じたのは、誰もが避けることができない死を、生と並んで“生命という一つの全体”を構成するものと位置付け、「次なる生への充電期間」のようなものとして捉えていく仏法の生死論であった。

その上で、現在の生も次なる生も幸福に生き抜く法理を説いた、法華経の「衆生所遊楽」の思想について語ったのである。

対談を通し、池田先生が講演に臨んだ時の思いを知った博士は、「息子にとってもなによりの喜びだと思います。私はこれから、息子の分まで精一杯生きていくつもりです」と、尽きせぬ感謝の言葉を述べた。

牧口先生と戸田先生の問題意識を受け継ぎながら、池田先生が取り組んだ対談集は、長年にわたって相容れないものとされてきた「科学」と「宗教」をつなぐ架橋となっただけでなく、「科学者」と「宗教者」が心で奏でる友情譜となったのだ。


<語句解説>

石原純 東北帝国大学の教授などを歴任し、相対性理論や量子論を研究。岩波書店の雑誌「科学」の編集責任者なども務めた。

アインシュタイン 理論物理学者。1921年にノーベル物理学賞を受賞。特殊相対性理論や一般相対性理論などを通し、現代物理学の基礎を築いた。

衆生所遊楽 法華経の如来寿量品にある言葉。苦悩に満ちた現実の世界が、妙法に照らされて、幸福な人生を楽しんでいける場所に転じることを説いたもの。



<引用文献>

ログノフ博士の言葉は、『科学と宗教』(『池田大作全集』第7巻所収)



戸田先生 「科学と宗教」 (1949年8月)

ある宗教が、その説くところがかならず実証されて、時と所と、人種と環境を問わず、ただ一つの例外なく実証されるならば、その宗教の説く「教え」は、すなわち「法則」であり「真理」である。

とともに、これを、科学的宗教といわなければならない。

しかも、これは、客観的に学問として考える考え方であるが、生活の面において、幸福になるといったら、かならず幸福になり、不幸になるといったら、かならず不幸になる力強い宗教こそ、もっとも科学的であり、吾人の欲求するところである。

つらつら考えてみるに、真の宗教、科学的宗教とは、いかなる宗教であろうか。

それは、

一切衆生の苦悩を、救うべきものでなくてはならない。

一切衆生に、真の幸福を享受せしむべきものでなくてはならない。

一切大衆の生命を、真に浄化せしむべきものでなくてはならない。

一切大衆に、生命の真実のすがたである永遠の生命を、悟らしむべきものでなくてはならない。

しかして、真の宗教は、科学を、この立場において指導すべきものである。

科学を戦争や暴力に用いるならば、人類の不幸はその極に達して、阿鼻叫喚の地獄にむせぶことは、すでにわれわれの身をもって体験したところである。

ゆえに、真の宗教は、科学を平和と人類の幸福のために用いるべく指導し、かつ、この科学を大衆の幸福を創造するために利用しなければならないのである。

政治も、文化も、経済もすべて、一切大衆の平和と幸福を建設する方向に指導することのできる強い宗教でなくてはならない。

すなわち、宗教とは、われわれがあらゆる現象の実相を正しく認識し、正しく把握して行動するために必要である。(中略)

人々は、これによって偉大な生命力を獲得し、いかなる困難と戦うともおそれることなく、社会はこれによって寂光土となり、科学はますます進歩し、文化と平和の国が建設されなくてはならない。(『戸田城聖全集』第3巻)