第21回 戸田先生 「科学と宗教」㊤ 24年12月2日 |
人類に不幸をもたらす科学の戦争利用 宗教の使命は全民衆の苦悩を救う中に ある宗教が、その説くところがかならず実証されて、時と所と、人種と環境を問わず、ただ一つの例外なく実証されるならば、その宗教の説く「教え」は、すなわち「法則」であり「真理」である。 とともに、これを、科学的宗教といわなければならない。 しかも、これは、客観的に学問として考える考え方であるが、生活の面において、幸福になるといったら、かならず幸福になり、不幸になるといったら、かならず不幸になる力強い宗教こそ、もっとも科学的であり、吾人の欲求するところである。 つらつら考えてみるに、真の宗教、科学的宗教とは、いかなる宗教であろうか。 それは、 一切衆生の苦悩を、救うべきものでなくてはならない。 一切衆生に、真の幸福を享受せしむべきものでなくてはならない。 一切大衆の生命を、真に浄化せしむべきものでなくてはならない。 一切大衆に、生命の真実のすがたである永遠の生命を、悟らしむべきものでなくてはならない。 しかして、真の宗教は、科学を、この立場において指導すべきものである。 科学を戦争や暴力に用いるならば、人類の不幸はその極に達して、阿鼻叫喚の地獄にむせぶことは、すでにわれわれの身をもって体験したところである。 ゆえに、真の宗教は、科学を平和と人類の幸福のために用いるべく指導し、かつ、この科学を大衆の幸福を創造するために利用しなければならないのである。 政治も、文化も、経済もすべて、一切大衆の平和と幸福を建設する方向に指導することのできる強い宗教でなくてはならない。 4すなわち、宗教とは、われわれがあらゆる現象の実相を正しく認識し、正しく把握して行動するために必要である。(中略) 人々は、これによって偉大な生命力を獲得し、いかなる困難と戦うともおそれることなく、社会はこれによって寂光土となり、科学はますます進歩し、文化と平和の国が建設されなくてはならない。 (『戸田城聖全集』第3巻) 1998年4月、東京・八王子市の創価大学で行われた、ロシア国立「高エネルギー物理学研究所」からの名誉博士号授与式。 池田先生は、この栄誉を戸田先生にささげたいと述べるとともに、会場に集った若い世代に、「このあとに続くのは、今日集った優秀な『学生部』、そして『未来部』の諸君である。 諸君がいるかぎり、未来は何も心配ない。私は信じ、安心している」と期待を寄せた 戸田先生の逝去から40年となる日(1998年4月2日)、池田先生は創価大学で行われた式典で次のように語った。 「二十世紀は、いわば『戦争と平和』の世紀であり、『政治と経済』の世紀であった。 来るべき二十一世紀は、『人間と文化』の世紀、そして『科学と宗教』の世紀となっていくであろう」と。 この未来展望の柱となっている「科学と宗教」というテーマは、以前の連載(第9回・第10回)で焦点となった「人間と文化」を巡る課題と並んで、池田先生が、戸田先生の問題意識を受け継ぐ形で思索を深めてきたものだった。 その土台の一つが、1949年8月に戸田先生が発表した「科学と宗教」である。 冒頭で話題に取り上げていたのは、当時の放送討論会での議論だった。 これは、NHKが終戦の翌年(1946年)から開始していた「放送討論会」と題するラジオ番組を指したものだと思われる。 当時の番組表を見ると、科学と宗教をテーマにした討論会を5月に放送していたことが確認できる。 戸田先生は、討論会の内容を総括してこう述べていた。 ――そこでは、科学と宗教が一致すると考えるものは一人もおらず、信仰を持つ人でさえ、科学と宗教は一致しなくてもおかしくないと主張していた。 議論を聞いた人たちは、それらの意見をひとまずは妥当なものだと感じたかもしれない。 しかし、このような話だけでは、「知識人や青年にとっては、心の奥は、なにか割りきれないものを残す」のではないか――。 その上で、少なからずの人々が胸に抱くであろう“割りきれない思い”に真正面から向き合うべく、戸田先生が提起したのが次の問いかけであった。 ――確かに、日常生活の中で科学が生き生きと躍動しているのに対し、多くの宗教が“人々を救う”という本質から離れ、葬式や修養に関する形式宗教のようになり、「人間生活の原動力となるには、ほど遠い存在」になっている。 そんな状況の中で、多くの人が“科学と宗教は一致しない”と考えるのも、やむを得ないのかもしれない。 しかし、「科学と一致する宗教」はまったく存在しないのだろうか。存在するとすれば、どのような宗教なのか――と。 さまざまな宗教の代表が参加し、本年9月にパリで行われた国際会議「イマジン・ピース」。「ヒロシマとナガサキを忘れない――核兵器なき世界を想像する」の分科会では、SGIの代表が登壇した 考察を進める上で戸田先生がまず着目したのが、通常、科学的と評価する場合に基準はどこにあるのかという点だった。 ――「科学的」という言葉の意味が“理論と実証の一致”にあり、“法則に偶然がなく、普遍妥当性をもつこと”にあるとするならば、宗教に関しても同様に判断すべきではないか。 「その説くところがかならず実証されて、時と所と、人種と環境を問わず、ただ一つの例外なく実証される」のであれば、それは「科学的宗教」と言うことができるはずだ――。 このような考え方の枠組みを示しながらも、戸田先生の筆がそこで止まることはなかった。 ――個々の宗教が科学的であるか否かについて、「客観的に学問として考える」場合には、そうした分析的な思考に基づいて検討するだけで十分なのかもしれない。 しかし、その前提を踏まえた上でなお、自分が宗教の吟味で最も重視する基準は、“生活の面において、幸福になるといったら必ず幸福になる”という点にこそある――と。 その上で、自らが考える「科学的宗教」の姿について、四つの角度から提起したのだった。 「一切衆生の苦悩を、救うべきものでなくてはならない」 「一切衆生に、真の幸福を享受せしむべきものでなくてはならない」 「一切大衆の生命を、真に浄化せしむべきものでなくてはならない」 「一切大衆に、生命の真実のすがたである永遠の生命を、悟らしむべきものでなくてはならない」 つまり、戸田先生が考える最重要の基準とは、「一切衆生」や「一切大衆」との言葉が象徴するように、“あらゆる人々がより良い人生を歩めるように後押しする力用”があるかどうかとの点に収斂していたのだ。 一方で戸田先生は、科学のあり方についても言及し、戦争や暴力に用いることがあってはならないと警告を発した。 時として人類に不幸をもたらす方向に傾きかねない科学のベクトルを、「平和と人類の幸福のため」に向ける役割を担うことが、現代の宗教に強く求められていると、戸田先生は力説してやまなかったのである。 <語句解説> 一切衆生 仏法の言葉で、すべての人間のこと。広義には、「すべての生きとし生けるもの」を指す。 法華経では、すべての人間に仏と同じ尊極の生命(仏性)が具わっていることが説かれた。 寂光土 仏の住む国土のこと。法華経以前の経教では、寂光土は、娑婆世界(苦悩に満ちた現実の世界)とは遠い別の世界にあるとされていた。 しかし法華経では、娑婆世界こそ仏が常住する国土であると説き、苦難に満ちた世界を幸福の世界へと変えゆく「娑婆即寂光」の法理が示された。 普遍妥当性 認識論や論理学の用語。ある事柄が、関係する対象に関して、例外なくいつでも誰にでも有効であることを指す。 |