| 第20回 牧口先生 「価値判定の標準」㊦ 24年11月19日 |
| 他者の苦しみへの無関心が招く危険 気候危機の解決へ 共に行動を起こす 人間の生命の実相を徹底して見つめてきた仏法の源流をたどると、「不善」の危うさの本質を浮き彫りにするような言葉が、初期仏典にもみられる。 一つは、「ダンマパダ」(真理のことば)の一節である。 「善人らは ヒマーラヤ山のごとく 遠くにありても輝く 不善人らは 暗夜に放たれし矢のごとく 近くにありても見ゆることなし」 善を行う人たちは、たとえ遠く離れた場所にいたとしても、大きな存在感をもって他の人々の心の支えとなり、生きる勇気を鼓舞する輝きを放つ。 一方、不善の人たちは、どれだけ近くにいたとしても、その存在は見えないに等しい。 苦境にある人々にとっては、まったく頼りにすることができず、“誰も助けてくれない”という孤立感が人々の苦しみをさらに強める結果を招くのだ。 もう一つの言葉は、「アングッタラ・ニカーヤ」(増支部経典)にある次の一節である。 「善ならざる人は、恩を知らず、恵みに気づかずにいる」 「善なる人は、恩を知り、恵みに気づいている」 簡潔な表現ではあるが、この対比は「不善」の本質を突いたものと思われる。 人間の生活は、多くの人々の働きや社会の営みに支えられている。 その恩や恵みを忘れず、社会のさまざまな悪に苦しむ人を見かけた時に、その苦しみに思いを馳せることが、「不善」を克服する出発点になると、仏典の言葉は示唆しているのではなかろうか。 1995年11月、ネパールの国立トリブバン大学で、池田先生が「人間主義の最高峰を仰ぎて――現代に生きる釈尊」と題して記念講演。 彼方にヒマラヤの姿が見えるカトマンズ市内の会場で、池田先生は、釈尊がヒマラヤに譬えて“善人と不善人の違い”を述べた「ダンマパダ」の一節などに触れて、釈尊が目指した理想の人間像について論じた 仏法の洞察が示すように、「不善」が人間の生き方に本質的に関わるものである以上、それは戦時中の日本の問題にとどまらず、21世紀の世界においても地続きの問題といえよう。 池田先生は提言などで、「不善」がもたらす悪影響を見定めながら、人類共通の課題に立ち向かう民衆の連帯を築くための方途を何度も論じていた。 2014年の提言では、国連が呼びかける「平和の文化」や「人権文化」の建設に、なぜSGIが力を入れてきたのかについて、こう説明している。 「人権のために闘ったキング博士は、自らの運動を攻撃する勢力以上に自由獲得の大きな障壁となるものとして、『正義よりも〈秩序〉の維持に熱中』する態度をはじめ、『善人のぞっとするような沈黙』や『自己満足の〈無為傍観主義〉』などを挙げ、警鐘を鳴らしたことがあります。 いわば『人権文化』の建設は、そうした陥穽――つまり、社会悪の蔓延に結果的に加担してしまう態度を互いに戒めるだけでなく、一人一人の善性を薫発するエンパワーメントを通し、誰もが人間の尊厳を守る主体者として貢献できる社会を目指しながら、皆の力で人権の強度を高めていく挑戦に他なりません」 また2020年の提言では、気候変動問題に言及して次のように述べていた。 「平均気温の上昇を抑えるという数値目標の追求だけでなく、問題解決を通して実現したい世界のビジョンを分かち合いながら、その建設に向かって意欲的な行動を共に起こすことが肝要ではないでしょうか。 こうした建設の挑戦の中に、自分たちが被害を受けなければ問題ないと考える“利己主義”でも、課題の困難さに圧倒されて行動をあきらめてしまう“悲観主義”でもない、第三の道があると訴えたいのです」と。 その上で池田先生が提唱していたのが、青年を中心に気候変動問題の解決策を共に生み出す挑戦を進めることだった。 ニューヨークの国連本部で9月に行われた未来サミット。 開幕式では、3人の若者が、国連総会議長と国連事務総長に続く形で、各国首脳よりも先にスピーチを行うなど、青年世代にスポットライトが当てられた 核兵器や気候危機の問題解決を目指し、本年3月、東京・新宿区の国立競技場で開催された未来アクションフェスは、そうした青年世代による挑戦を大きく進めるものとなった。 創価学会青年部も「SGIユース」として実行委員会に参画し、青年意識調査の推進などに取り組む中、多くの団体が協働して行った未来アクションフェスには約7万人が集まり、約50万人がライブ配信を視聴した。 青年意識調査に寄せられた声を踏まえて、会場で発表された共同声明は、その後、国連の関係者にも共有された。 そして9月、ニューヨークの国連本部で開催されたのが未来サミットである。そこで採択された「未来のための協定」には、3月の未来アクションフェスの共同声明に盛り込まれた提案のほとんどが反映された。 サミットの終了後に、SGIユースが声明を発表して強調したように、「まさに青年意識調査で得られた約12万人の声が、国際社会に届いた」のだ。 今から80年以上も前に、牧口先生が強く訴えた「不善」の克服――。 その焦点は、「不善」がもたらす悪影響に対し、“自分の身にも起こりうる出来事”として思いを巡らせながら、多くの人々を苦しめている問題の解決を目指す「善なる民衆の連帯」を築くことにある。 この牧口先生の精神は、学会の平和運動の骨格をなすものとして、人権文化の建設をはじめ、核兵器や気候変動の問題への取り組みのように、世界の潮流を変えるための挑戦の基軸となってきたのである。 <語句解説> 平和の文化 日常生活の中で一人一人が平和と非暴力を自分の生き方にすること。国連は1999年に「平和の文化に関する宣言及び行動計画」を採択。 2012年から毎年、ハイレベル会合を行ってきた。 人権文化 人権を共に守る生き方を社会に根づかせること。国連を中心に「人権教育のための世界プログラム」が推進されている。 <引用文献> 「ダンマパダ」の一節は『原始仏典』第7巻(講談社)、「アングッタラ・ニカーヤ」の一節は、『原始仏典』第6巻(講談社)。 キング博士の言葉は、『黒人はなぜ待てないか』(中島和子・古川博巳訳、みすず書房)を参照。 牧口先生 「価値判定の標準」 (1942年2月) 損得にとらわれて、善悪を無視するのは、悪である。 好き嫌いが一時的で刹那的なものであるのに対して、利害や損得は永久的なものである。 (同じように)利害が個人的であるのに比べて、善悪は社会的、全体的なものである。 ゆえに、自分や家族の私益に目がくらんで、社会や国家の公益を害する者を悪人という。 不善は悪であり、不悪は善である。いずれも、その最小限のものだが、(結果的には)そうなのである。 しかしながら、不善を善と考え、悪とは異なると思って、法律に触れさえしなければ不善は構わないと誤解する所に、現代の病根があり、独善や偽善主義が横行する所以がある。 悪をすることと、善をしないことは、同一の行為を別言したのにすぎない。 にもかかわらず、前者は悪いに決まっているが、後者を悪とは考えず、善であるかのように誤解して平気でいるのが、今の世の中の常識になってしまっていると言ってよい。 (この問題の本質について、分かりやすく考えるための譬えとして)かりに私が、君から千円を騙し取るような場合があったと想定してみよう。 1君の友人が、その企みがあることを知っていながら、私を阻止せず、もしくは君にそれを告げなかったとすれば、君からの怨みを、両人が共に受けねばならなくなるだろう。(中略) もしもその反対に、友人が、私の悪行を阻止するか、君に対する善行を(私に)勧めていたとしたら、君の損害は免れたはずである。(中略) 悪行の罪だけは誰もが数える一方で、不善の罪を問わずに放っておく理由はないのではなかろうか。 大善を嫉んで、多くの愚かな人々にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく、大善に親しむ雅量もない所に、小善たる特質がある。 まさに、悪を好まないだけの心はあるが、善を為すだけの気力がないのは、個人主義を脱しきれない所以なのである。 (『牧口常三郎全集』第10巻、趣意) |