第19回 牧口先生
「価値判定の標準」㊤
24年11月18日
 
譬えを駆使して人々を救う仏法の精神
戦時下の社会で「不善」の克服を主張

損得にとらわれて、善悪を無視するのは、悪である。

好き嫌いが一時的で刹那的なものであるのに対して、利害や損得は永久的なものである。

(同じように)利害が個人的であるのに比べて、善悪は社会的、全体的なものである。

ゆえに、自分や家族の私益に目がくらんで、社会や国家の公益を害する者を悪人という。

不善は悪であり、不悪は善である。いずれも、その最小限のものだが、(結果的には)そうなのである。

しかしながら、不善を善と考え、悪とは異なると思って、法律に触れさえしなければ不善は構わないと誤解する所に、現代の病根があり、独善や偽善主義が横行する所以がある。

悪をすることと、善をしないことは、同一の行為を別言したのにすぎない。

にもかかわらず、前者は悪いに決まっているが、後者を悪とは考えず、善であるかのように誤解して平気でいるのが、今の世の中の常識になってしまっていると言ってよい。

(この問題の本質について、分かりやすく考えるための譬えとして)かりに私が、君から千円を騙し取るような場合があったと想定してみよう。

君の友人が、その企みがあることを知っていながら、私を阻止せず、もしくは君にそれを告げなかったとすれば、君からの怨みを、両人が共に受けねばならなくなるだろう。(中略)

もしもその反対に、友人が、私の悪行を阻止するか、君に対する善行を(私に)勧めていたとしたら、君の損害は免れたはずである。(中略)

悪行の罪だけは誰もが数える一方で、不善の罪を問わずに放っておく理由はないのではなかろうか。

大善を嫉んで、多くの愚かな人々にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく、大善に親しむ雅量もない所に、小善たる特質がある。

まさに、悪を好まないだけの心はあるが、善を為すだけの気力がないのは、個人主義を脱しきれない所以なのである。(『牧口常三郎全集』第10巻、趣意)

法華経の方便品に、「種種譬喩」という言葉がある。

釈尊が、多くの人々に仏法の真髄を伝えるために、智慧を尽くしてさまざまな譬喩を用いてきたことを表すものだ。

牧口先生もこの仏法の精神を受け継ぐ形で、苦悩に沈む人々を救い、社会を覆う混迷の闇を打ち払うために、分かりやすい譬えを駆使しながら、信念の言葉を語るのが常であった。

日蓮大聖人の仏法に人々を導くための“梯子段”として位置付けていた、自らの「価値論」を説明する際にも、どうすればより多くの人が納得でき、実践できるようになるのかという点に心を砕いたのである。

牧口先生が「価値論」の話をする時によく投げかけていたのが、“善いことをしないのと、悪いことをするのは、同じか、違うか”という問いだった。

相手が戸惑った顔をすると、牧口先生は、誰もが想像しやすい身近な生活上の例を通しながら、説明をしたという。

その一つが次の譬えだった。

――子どもが布団をはいで寝ているのを見て、布団をかけてあげないのは「不善」である。そのままにしておけば、寝冷えをしたり、風邪をひいたりするからだ。

誰かが子どもの布団をはぐのは「悪」だが、それと同じ結果になる――と。

これは、家族の中での出来事にとどまる話かもしれないが、社会で「不善」の風潮が広がっていけば、さまざまな悲劇が起きかねない。

この「不善」に潜む問題の根深さについて、牧口先生は「線路での置き石」という別の譬えを通しながら、今一度、考えを巡らすことを人々に呼びかけたのだった。

――線路に石を置くのは、言うまでもなく悪いことである。しかし、石が置いてあるのを知っていて、そのままにしていると、列車は転覆しかねない。

結果的には、善いことをしないことは、悪いことをしたのと同じになるのではないか――と。

牧口先生は、このような「不善」を巡る問題に対して意識変革を促すことを、創価教育学会の目的の一つとして掲げた。

当時の社会で横行していた、「悪はせぬが善は勝手」(悪はしないが、善を行うかどうかは各人の自由)という道徳意識の欠陥を危惧して、その克服を呼びかけたのである。

日本が太平洋戦争に突入した翌年(1942年)、東京都内で行われた座談会に出席した牧口先生(中央奥)。

創価教育学会の活動として重視されていた座談会は、特高警察による監視などの抑圧に屈することなく行われ、その回数は、41年5月からの2年間で240回以上に及んだ

線路への置き石は、現代でも起きており、目撃した場合は、鉄道会社や警察への通報が求められているものである。

池田先生は2016年の提言で、この置き石の譬えに触れ、牧口先生の主張の核心についてこう述べたことがあった。

「なぜ“何もしないこと”が、悪と同義とまで言い切れるのか――。

一見すると理解しがたいかもしれませんが、翻って自分が列車に乗っている身だと想像してみるならば、おのずと胸に去来する思いがあるのではないでしょうか」と。

つまり、「不善」が持つ意味について、

①どのような人々に影響を及ぼすのか、

②結果的にどんな事態が起こりうるのか、

という二つの点から、自分の胸に手を当てて考え直すことの大切さを、牧口先生は促していたと、みることもできよう。

牧口先生は、「不善」をどう捉えるかが、「価値論」の理解度を示す“リトマス試験紙”になると考えていた。

その効用を敷衍する形で、牧口先生の問題意識を言い換えてみるならば、こう表現することもできよう。

人々への影響と、結果として生じる事態に照らして、「不善」と「悪」を精査した時、“リトマス試験紙”に表れる色は同じものになるのではないのか――と。

「不善」は、目の前の状況を変えないだけではない。

その態度をとる人々が増えれば、社会の行く末は極めて危ういものとなる。

ゆえに牧口先生は、「不善を善と考え、悪とは異なると思って、法律に触れさえしなければ不善は構わないと誤解する所に、現代の病根があり、独善や偽善主義が横行する所以がある」(趣意)と、警鐘を鳴らしてやまなかったのである。

この言葉が収められた「価値判定の標準」と題する文章は、牧口先生が弾圧によって投獄される前年(1942年)に発表されたものだった。

当時の日本では、戦争遂行のために政府の言論統制が苛烈を極めていた。しかし、牧口先生が沈黙することはなかった。

「大善を嫉んで、多くの愚かな人々にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく、大善に親しむ雅量もない所に、小善たる特質がある。

まさに、悪を好まないだけの心はあるが、善を為すだけの気力がないのは、個人主義を脱しきれない所以なのである」(趣意)

こう訴えて、法律に触れなければ構わないと考える「不善」や、個人主義的な「小善」に安住してはならないと強調したのである。

 <語句解説>

大善 牧口先生が、人間にとって最も尊い行動を指すものとして用いた言葉。仏法が説くように、自他共の幸福のために生きること。

リトマス試験紙 溶液や気体が酸性であるかアルカリ性であるかを判定するための試験紙。

青色の試験紙が赤になれば酸性、赤色の試験紙が青になればアルカリ性を示す。比喩的な意味で、物事を判定する基準となるものを指す。

言論統制 国家が権力によって人々の表現活動を制限すること。日本では、1925年に制定された治安維持法を機に言論統制を強化。

その後、太平洋戦争に突入する中で、検閲はますます厳重となり、記事掲載の差し止め命令が相次ぎ、その状態が終戦まで続いた。