第17回 池田先生
「平和と軍縮への新たな提言」㊤
24年11月4日
 
核時代が招いた「人間不在」の病理
創価学会は永遠に民衆の側に立つ

今日、すさまじい破壊力を秘めた軍事力に支えられた権力機構は、少数のエリートの政策決定者が支配しているかにみえます。しかし、それは、真実支配していると言えるでしょうか。

支配しているようにみえて、実は、核兵器や権力機構のもたらす魔性に支配されているのではないでしょうか。

そうした魔性を、仏法では「元品の無明」と説きますが、無明の闇の覆うところ、ついに“人間”は、社会のすべての分野で、主役の座から滑り落ちていくでありましょう。

事実、核抑止力論を超えて、限定核戦争の可能性などを喋々している人々の精神構造に、私は、何よりも“人間不在”をみるのであります。

核の魔性に操られて、何十万、何百万単位の殺傷を算定するその精神には、苦悶のうちに死んでいく一人一人の人間の苦しみは介在する余地すらないでありましょう。(中略)

核兵器は、近代文明総体の一つの破局であり、その出現は、人類史にとって運命的な出来事であると思うのであります。

核の力に支えられた権力機構が、一部のエリート集団に握られているという構図が示すものは、まさしく、自ら作り出した物に支配されゆく、人間の敗北宣言であり、人間の尊厳の死といっても過言ではない。

ならば、この運命的な出来事は、我々に何を要請しているのか。それは、人類史の舞台における主役の座を人間の手に、なかんずく民衆の手に取り戻していかなければならないということであります。

従って私は、ここで「創価学会は、永遠に民衆の側に立つ」という私どもの不磨の指針を、もう一度確認しておきたいのであります。

恒久的人類平和への展望を民衆自身の手で開くかは、これからの課題であります。しかし、私は現在の状況に決してペシミスティック(悲観的)になる必要はないと思う。

絶望や諦めからは未来への展望は開けないからであります。

晩年のヤスパースが「どんな状況も、絶望的なものではない」と語っていたように、むしろ自信を持って二十一世紀のトビラを自らが押しあけるのだという希望と自信を持って進んでまいりたい。
 (『池田大作全集』第1巻)

池田先生は、毎年の1・26「SGIの日」に寄せる形で、提言を2022年まで40回にわたって発表し続けてきた。

その最初の提言が発表されたのは1983年1月――。

当時、核大国であるアメリカとソ連との関係は、極めて厳しい状態に陥っていた。

その前年(82年6月)に行われた第2回国連軍縮特別総会への報告書の序文で、スウェーデンのパルメ元首相が次のような警告をしていたほど、緊迫の度を増していたのである。

「米ソ関係は一九八一年から八二年にかけて急速に悪化し、軍備競争は一段とエスカレートしている。

新型核兵器の開発の現状をみると、核大国は実際に核戦争を戦う場合を想定しているかのように思え、戦争の脅威は数年前よりも身近に感じられる」と。

こうした中、池田先生も1982年6月に第2回国連軍縮特別総会への提言を発表した。

「核廃絶という遠大な目標を追求するのは当然としても、その前に核兵器のボタンを誰かが押してしまえばすべてが終わりです」と訴え、差し迫った課題として核保有国、特に米ソに対して、核兵器の先制不使用の誓約を強く求めたのである。

そのわずか7カ月後、池田先生が重ねて世に問うたのが、「SGIの日」に寄せて執筆した最初の提言にほかならない。

「海図なき時代、先が読めない時代――様々な悲観的予測がなされておりますが、時代はまさに、巨大なカオス(混沌)に入ってきているといってよい。

それだけに私どもは、仏法者として、そうしたカオスを鋭く、冷静に見つめ、二十一世紀への血路を切り開いていかなければなりません。

私が『平和と軍縮』の側面から幾つかの提言を試みるのも、そのような仏法者としての社会的、人間的使命、やむにやまれぬ心情からにほかなりません」

そこに記された「二十一世紀への血路」という言葉は、“核兵器の問題に歯止めをかけずして、人類は21世紀を無事に迎えることができるのか”との危機意識と、生命尊厳を根本とする仏法者としての信念から発せられたものだったのだ。

「原水爆禁止宣言」30周年を目前に控えた1987年5月に、モスクワで行われた「核兵器――現代世界の脅威」展。

開幕式で池田先生は、核兵器の悲惨さを訴え続けることは、「日本人として、また平和主義者、仏法者としての使命であり、責任であり、義務であるとともに、偉大なる権利でもある」と語った

限定核戦争の可能性までもが軍事的な選択肢として論じられる情勢の中で、池田先生は、核保有国の指導者層が知らず知らずのうちに陥ってしまう心の状態について、こう警告した。

「核の魔性に操られて、何十万、何百万単位の殺傷を算定するその精神には、苦悶のうちに死んでいく一人一人の人間の苦しみは介在する余地すらないでありましょう」と。

池田先生がそこでまず強調していたのは、核兵器を安全保障上の必要悪とみなす考え方に宿る「非人道性」であった。

その上で、核兵器の対峙が続く状況そのものに潜む“人間不在”という深刻な現代文明の病理についても、仏法的な洞察を通して浮き彫りにしたのである。

つまり、核兵器を保有し、その脅威を誇示することで、国際政治や軍事の面で自国が状況を支配していると考えたとしても、現実には、核兵器の存在によって自国の命運が左右される状況から抜け出せなくなっている。

その結果、「主役は核兵器であり、人間は、惨めな脇役でしかない」という事態を招いているのではないか――と。

キューバ危機(62年10月)の際、アメリカで司法長官を務めていたロバート・ケネディ(ケネディ大統領の弟)は、後年、ホワイトハウスで最も緊張が高まった瞬間を回想して、次のように述べたことがある。

「降り口のない絶壁の端に、われわれみんなが立たされている感じであった」

「ケネディ大統領が始めたことだが、事態はもはや彼にも制御できないのであった」

まさに大国の指導者も例外ではなく、地球の人々の命運が核の存在に否応なく左右されるのが、核時代の実相なのである。

池田先生は、これこそが仏法で説く「元品の無明」の闇に覆われた姿にほかならないと強調した。

その実態は、「自ら作り出した物に支配されゆく、人間の敗北宣言であり、人間の尊厳の死といっても過言ではない」と警鐘を鳴らして、核時代からの脱却を促したのだ。

言うまでもなく、核兵器の禁止と廃絶は、世界平和のために避けて通れない最重要課題である。

池田先生はこの観点に加えて、核問題の解決を“人間不在という文明の病理を克服して、人類史の舞台における主役の座を民衆の手に取り戻すための戦い”として位置付けた。

そして、その突破口を開く覚悟を込めて、「創価学会は、永遠に民衆の側に立つ」との精神を不磨の指針として改めて掲げたのである。

(㊦に続く)


〈語句解説〉

元品の無明 生命における最も根源的な無知や迷いのこと。仏法では、この無明の闇から、不信や憎悪、嫉妬、支配欲、殺戮の衝動などの魔性の心が生じると説く。

ヤスパース ドイツの哲学者。ナチスによる迫害で1937年に大学の教授職を剝奪されたが、第2次世界大戦後に復帰。

『歴史の起源と目標』などの著作があり、核兵器の問題にも警鐘を鳴らした。



〈引用文献〉

パルメ元首相の言葉は、『共通の安全保障』(森治樹監訳、日本放送出版協会)。

ケネディ司法長官の言葉は、『13日間 キューバ危機回顧録』(毎日新聞社外信部訳、中央公論新社)。