第15回 戸田先生 「青年訓」㊤ 24年10月28日 |
新しき世紀を創るものは青年の熱と力 「諫暁八幡抄」を胸に東洋広布を誓う 新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。 吾人らは、政治を論じ、教育を勘うる者ではないが、世界の大哲・東洋の救世主・日本出世の末法御本仏たる日蓮大聖人の教えを奉じ、最高唯一の宗教の力によって、人間革命を行い、人世の苦を救って、各個人の幸福境涯を建設し、ひいては、楽土日本を現出せしめんことを願う者である。 この事業は、過去においては、釈迦の教団が実行し、近くは、日蓮大聖人の教団が、勇ましく戦ったのである。 釈迦教団の中心人物たる舎利弗にせよ、阿難にせよ、みな若き学徒であった。日蓮大聖人の門下も、また、みな若き学徒によって、固められていたのである。(中略) 西より東に向かった仏教も、青年によって伝承せられ、東より西に向かう大聖人の仏法も、青年によって基礎づけられたのである。 吾人らは、この偉大なる青年学徒の教団を尊仰し、同じく最高唯一の宗教に従って、人間苦の解決・真の幸福生活確立・日本民族の真の平和・苦に没在せる東洋の浄土化を、弘宣せんとする者である。 奮起せよ! 青年諸氏よ。 闘おうではないか! 青年諸氏よ。(中略) 第一は、無智の者に永遠の生命を教え、御本尊の絶対無二なる尊貴を知らしめて、功徳の大海に思うがままに遊戯する、自在の境涯を会得せしむるために、忍辱のよろいを著、慈悲の利剣をひっさげて戦うのである。 第二は、邪智、邪宗の者に、立正安国論の根本義たる、邪宗、邪義は一切この世のなかの不幸の原因であり、それがために、諸天善神は国を捨て去り、聖人は所を去って、世はみな乱るるなりと教え、邪智、邪宗をひるがえすよう、智慧の鎧を身にまとい、かれらが執着の片意地を、精進勇気の利剣をもって、断ち切るの戦いである。 第三に、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。 しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。 その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである。 (『戸田城聖全集』第1巻) 青年部結成から2カ月後(1951年9月)に発表された戸田先生の「青年訓」。多くの友がその言葉を胸に刻み、時に朗唱しながら、広布の前進を誓い合った 戸田先生の逝去から約3カ月が経った時(1958年6月30日)、池田先生は青年部の室長を兼任した上で、新設された役職である総務に就任した。 ただ一人の総務として実質的に学会の一切を担い、第3代会長に就任する1960年5月3日までに、学会の世帯数を140万に拡大する上げ潮をつくり出していったのだ。 池田先生はどのような思いで同志を励まし、広布前進への怒濤の戦いを起こしていったのか――。その時の真情について、池田先生は随筆で次のように綴っていたことがある。 「思えば、恩師が逝去された当時、学会は空中分解するとさえ言われていた。 その渦中、私は青年部の同志と強く語り合った。 『先生が残してくださった青年訓、国士訓の御遺言は厳然と存在している。特に学会の中でも異彩を放つ青年部として、我らは今後も堂々と進むべきである』 師匠は、すべてを授けてくださっているではないか。何も心配することはない。あとは弟子が、師の構想の実現のために、どう動くかで、決まるのだ」 「青年訓」とは、戸田先生が1951年9月に発表したもので、「国士訓」(54年10月)と並んで、青年部に贈られた永遠の指針にほかならない。 当初は、青年部の班長への告示として聖教新聞で発表され、「大白蓮華」の巻頭言として改めて掲載された時に「青年訓」と名付けられたものだった。 当時23歳で男子部の班長だった池田先生は、1951年11月に行われた学会の総会で、「青年訓」の指針のままに生き抜く決意を語った。 日蓮大聖人が仏法西還の法理を説いた「諫暁八幡抄」を拝しつつ、こう宣言したのだ。 今、学会は、一国の広宣流布のみでなく、東洋への広宣流布の大行進を開始しているのであります。 大聖人様のお言葉を虚妄にするかしないかは、ひとえに創価学会の力であり、私たち青年の力であります――と。 1992年2月、インドを訪れた池田先生はニューデリーでの激励をはじめ、1000人を超える友と出会いを結んだ。 滞在中に発表した長編詩には、初訪問(61年1月~2月)の時の思いに触れて、「今 インドに妙法の友はいない/だが ここに/日本から月氏の国へ/幾百千年の彼方へと/仏法西還の歴史始まる」との言葉が綴られている 戸田先生が青年部の結成に先立つ形で、池田先生をはじめとする数人の青年に集中的に講義をしていた御書の一つが、「諫暁八幡抄」であった。 そこには、「月は西より東に向かえり。月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出ず。日本の仏法の月氏へかえるべき瑞相なり」(新747・全588)との一節がある。 釈尊の仏法は、「月氏」と呼ばれたインドから、中国、日本へと東方に伝わってきた。 その歴史を踏まえつつ、末法においては、日蓮大聖人の仏法が日本から西方へ向かい、インドなどの国々に還るとともに、全世界に流布されていくという未来記を説いた御金言である。 戸田先生は、第2代会長に就任する前(51年3月)に開かれた学会の臨時総会でも、「諫暁八幡抄」を拝して指導をした。 前年(50年6月)に始まった朝鮮戦争で大勢の民衆が戦火に苦しんでいることに胸を痛め、“こうした悲惨な状況は、かつては日本の人々の身にも起きたもので、今は朝鮮半島の人々の身に起きている。 明日はまた、いずこの国の人々の運命となるのだろうか”と、世界の民衆の行く末を強く案じた。 その上で、“仏法西還を説いた大聖人の御金言は虚妄であるはずがなく、学会員一同が東洋と世界の平和を願って、大聖人の仏法を流布していこうではないか”と呼びかけたのだ。 1951年5月3日に戸田先生が第2代会長に就任した時、学会員の数は日本全国で3000人ほどであった。 就任式で戸田先生は、生涯の願業として“75万世帯の弘教”を宣言したが、東洋広布や世界広布はそれにも増して大きな目標である。 ほとんどの学会員にとっては、まだまだ遠い先の話のようにしか、感じられなかったのではないかと思われる。 しかし池田先生は、大聖人の御遺命のままに広宣流布の大道を開こうとする戸田先生の思いを真正面から受け止めていた。 地球の全民衆の幸福と安穏を築くためには、すべての人々に尊極な生命があるという「万人の尊厳」の精神を広げることが欠かせない。 戸田先生の当時の言葉に邪智や邪宗といった表現があるが、その眼目の一つは、普遍的な尊厳性ではなく差異にとらわれて分断を助長しかねないような思考に対し、留意を促すことにあったといえよう。 「青年訓」の冒頭に記された「新しき世紀」という言葉も、歳月の経過によって自然に到来するような意味合いのものではなく、その真意は、「万人の尊厳」の精神を基盤に“人類史の新章節”を開くことにあると、池田先生は自覚していたのだ。 <語句解説> 舎利弗 釈尊(釈迦)の十大弟子の一人で、智慧第一とされる。 阿難 釈尊の侍者として多くの説法を聞き、多聞第一とされる。 立正安国論 1260年7月、飢饉や疫病や災害で多くの民衆が苦悩にあえぐ中、日蓮大聖人が、鎌倉幕府の実質的な最高権力者だった北条時頼に提出した諫暁の書。 「国士訓」 戸田先生は1954年10月、民衆救済の使命を担う10万人の青年の結集を訴えた。 池田先生は61年11月、男子部総会で10万人、女子部総会で8万5000人の結集を果たし、師の構想に応えた。 朝鮮戦争 1950年6月、韓国と北朝鮮の衝突を機に起きた国際紛争。53年7月に休戦協定が成立。犠牲者は数百万人にも及んだ。 |