第11回 池田先生 「第38回本部総会」での講演 ㊤ 24年9月16日 |
トインビー博士が寄せた学会への期待 人類の結束を目指して「対話」に挑む 時代は刻々と動いていく。天候の推移と同じように、晴れのときもあれば曇りのときもある。これからも、あるときは、暴風雨に遭遇するような場合もあるでありましょう。 要はそうした変転に一喜一憂することなく、たえず原点を凝視しつつ正常な軌道へと引き戻していく力が、人々に備わっているかどうかであります。 それは、生命のバネ、バイタリティーであるといってよく、そうした本源的な力を、民衆一人ひとりの心田に植えつけていくところにこそ、宗教のもっとも根本的な使命がある。 創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を犯しつづける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いであると位置づけておきたい。(中略) 偉大な仕事をするには時間がかかる。人間対人間の触発をとおして、自他の生命をみがきあげるという開拓作業が、一朝一夕に成就しうるものではありません。 だからこそ、結果としてもたらされるものは、いかなる風雪にも朽ちることのない金剛不壊なる生命の輝きなのであります。 もはや未来の時代に対しては、こうした地道な努力しか方法はない。 もしこれを冷笑するようでは、その人はいったい人類社会の今後にいかなる方法をもって臨むのかと、私は反問したい。(中略) 一般に「行き詰まったときは原点に帰れ」といわれますが、人間にとって永遠の原点とは“人間らしさ”“人間の尊厳性とは何か”ということ以外にはありえない。 その意味から私は、人間を表とした民衆中心主義こそ、きたるべき世紀への道標でなくてはならないと考えている一人であります。 私どもは、その視点から、誰人とも話し合っていきたい。 一致点を見いだすことも有意義であり、不一致点を見いだすこともまた有意義であります。 ともかく、思慮深い判断と先見性が要求される時代にあって、徹底して人類の根本的な原点に立った対話を進めていきたいものであります。(『新版 池田会長全集』第1巻) ![]() 歴史家のトインビー博士との対談の最終日、話題は食糧問題から宇宙論まで多岐にわたった(1973年5月19日、ロンドン市内の博士の自宅で)。 「人類を不幸にする諸悪と、勇敢に戦い抜いてまいります」と語る池田先生に、博士は「人類の未来を開くために戦ってください。 あなたの平和への献身を、やがて、世界は最大に評価するでしょう」との言葉を贈った 窮極において歴史をつくるものは、新聞の見出しの材料となるような華やかな出来事でも、政治的・経済的事件でもない。 普段は目に見えないが、歳月を経た後で大きくその姿を現してくるような「水底のゆるやかな動き」である――。 これは、歴史家のアーノルド・J・トインビー博士が、人類史を巡る探究を続ける中でたどりついた、「時間の遠近法」に基づく洞察である。 その博士が、現代における「世界的出来事」と着目していたのが創価学会の存在だった。 博士は、1972年4月に発刊された池田先生の小説『人間革命』の英語版に寄せて、次の言葉を綴っていた。 「戦後の創価学会の興隆は、たんに創価学会が創立された国(日本)だけの関心事ではない」 「創価学会は、すでに世界的出来事である」 「日蓮は、自分の思い描く仏教は、すべての場所の人間仲間を救済する手段であると考えた。 創価学会は、人間革命の活動を通し、その日蓮の遺命を実行しているのである」と。 以前から博士は大乗仏教に関心を抱いていた。1967年の訪日などを通じて、大乗仏教の豊かな可能性を現代に蘇らせた創価学会への認識を深める中、池田先生との対談を切望するようになったのである。 1969年9月、その思いを記した博士の書簡が池田先生のもとに届いた。 その後、準備が進められ、池田先生が1972年5月と73年5月の2度にわたり、ロンドンにある博士の自宅を訪れる形で、のべ40時間に及ぶ対談が実現したのだ。 対談の最終日、テレビのニュースでは、ソ連のブレジネフ書記長が西ドイツを訪問し、ブラント首相と会談したことが大々的に報じられていた。 このニュースが話題となった時、博士は毅然と言った。 「政治家同士の対談に比べ、私たちの対談は地味かもしれません。しかし、私たちの語らいは、後世の人類のためのものです。 このような対話こそが、永遠の平和の道をつくるのです」 トインビー博士との対談集『21世紀への対話』をはじめ、池田先生が世界の指導者や識者と編んできた対談集は80点に及ぶ。 その対談相手はさまざまな国や宗教、文明にわたり、対談集の翻訳・出版も40言語に達している 時々の政治的な動きも見過ごせないが、それに一喜一憂しているだけではいけない。 「後世の人類のため」という深い次元に立って歴史の底流を堅実に形づくる努力が絶対に必要である――。それが、トインビー博士の晩年の強い思いだった。 だからこそ博士は、一切の対談を終えて池田先生を見送る時に、こう言い残したのだ。 「私は、対話こそが、世界の諸文明、諸民族、諸宗教の融和に、極めて大きな役割を果たすものと思います。 人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください」 池田先生はその言葉を胸に、博士から紹介を受けた世界の識者との対話に臨んだ。 1973年11月には科学者のルネ・デュボス博士と、1975年5月にはローマクラブの創立者であるアウレリオ・ペッチェイ博士と出会いを結んだ。 また、トインビー博士が憂慮していた米ソ関係や中ソ関係の改善を願い、中国への初訪問(74年5月)に続いてソ連(74年9月)を初訪問し、コスイギン首相と会見した。 さらに、中国を再訪して周恩来総理と対談し(74年12月)、時を置かずしてアメリカにも赴いた。 キッシンジャー国務長官と会談した5日後(75年1月18日)、国際的なメディアのAP通信がある記事を全世界に発信した。 池田先生が3カ国の首脳と相次いで会見したことに触れながら、創価学会について紹介した記事である。 小説『人間革命』の英語版にトインビー博士が寄せた文章にも言及しつつ、記事は次の言葉で結ばれていた。 「絶望と幻滅の社会の中で、小さな組織であった創価学会は高い理念を掲げ、理念達成に強い確信を持っていた。 これを裏づけるように、戦後三十年で、創価学会は現在の組織へと大きく発展したのである」と。 そして1月26日、記事でも予告していた通り、グアムの地でSGIが発足をみたのだ。 こうした新しい飛躍の時を迎える中、創価学会の基本精神と社会的使命について池田先生が宣言したのが、同年11月9日に広島で行われた第38回本部総会での講演である。 それは、トインビー博士の逝去(10月22日)から間もない時期に行われた講演でもあり、博士が「世界的出来事」と着目した創価学会が何を目指しているのかを、改めて明確に示すものでもあった。 (㊦に続く) <語句解説> ブレジネフ 1966年から82年までソ連共産党書記長を務めた。73年の西側諸国への歴訪で緊張緩和がみられたが、79年のアフガニスタン侵攻で対立は再び深まった。 ブラント 1969年から74年まで西ドイツ首相を務める中、社会主義諸国との関係改善を目指す「東方外交」に尽力。その功績で71年にノーベル平和賞を受賞した。 ルネ・デュボス アメリカの微生物学者。地球的に考え、地域的に行動する重要性を訴えた『地球への求愛』などの著作がある。 <引用文献> 冒頭のトインビー博士の史観については『試練に立つ文明』(深瀬基寛訳、社会思想社)を参照。 |