第4回 戸田先生
「王法と仏法」㊦
24年7月23日
 
アジアや世界の識者と対話を重ね
「歴史の教訓」を未来に伝え残す


戦時中に弾圧を受け、投獄されながらも信念を貫き通された牧口先生と戸田先生――。

その獄中闘争は、13世紀の日本において鎌倉幕府の権力者から弾圧を受けながらも、民衆救済のための仏法を説き続けられた、日蓮大聖人の精神に連なるものにほかならなかった。

2年以上にわたる佐渡流罪の後、鎌倉に戻った大聖人は、弾圧に関わった平左衛門尉に対面する中でこう師子吼された。

「王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるようなりとも、心をば随えられたてまつるべからず」(新204・全287)

この御金言は、700年近くの時を超えて、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が「世界人権宣言」20周年を記念して編纂した書籍『語録 人間の権利』にも収録されている。

そこにはまさに、人類史に輝く崇高な精神が脈打っていた。 

戸田先生が、牧口先生の七回忌法要(1950年11月)で挨拶した時にも、この御金言が胸に鳴り響いていたのではなかっただろうか。

投獄中に牧口先生と取調室で一緒になった時の状況を回想しながら、法要で叫ばれたのが、「身は国法に従えども、心は国法に従わず」との言葉だったからである。

この法要の8カ月前に、戸田先生が発表したのが「王法と仏法」の文章だった。

戸田先生は戦時中の日本を覆った暗雲を踏まえた上で、「世界の政治史には、これに近い政治は多く存在するであろうし、今後においても、このわれわれの体験した政治に似た政治が現出するかもしれない」と、警鐘を鳴らした。

その言葉の通り、民衆を苦しめる圧政の悲劇はどの国であっても起こりうる今日的な課題でもあることを、改めて銘記する必要がある。

2009年11月、中国教育学会の顧明遠会長が東京・八王子の創価大学を訪問。

同年に「東洋学術研究」で連載が始まった池田先生と顧会長との対談は、2012年に対談集『平和の架け橋――人間教育を語る』として結実した

池田先生はその警世の言を胸に刻んで、世界の指導者や識者との対話を通し、各国の民衆が直面してきた悲劇や苦難について掘り起こしながら、歴史の教訓を活字に留める努力を重ねてきた。

ひとえに、次代を担う若い世代のため、さらには後世に伝え残すためである。

アジアの国々の識者との対話では、日本が戦時中に各地で引き起こした惨劇について語り合うことが、しばしばだった。

1929年の生まれで、池田先生と同世代であった、中国教育学会の顧明遠会長(現・名誉会長)との対談集も、その一つである。

戦時中、顧会長は、日本軍が攻めてくるたびに別の村に逃げ、小学校を6回も転校せざるを得なかったという。

対談集では、爆撃によって親戚が亡くなったことや、小学校の隣にあった憲兵隊の駐屯地で罪のない人々が拷問を受けた時の悲鳴を耳にした話についても証言を行った。

その上で、顧会長が続けて述べたのが、次の言葉だった。

「これまで私は、この話を日本の友人にしたことはありません。もし池田先生が私にこのような経歴について質問されなかったら、語ることはなかったでしょう。

なぜなら、私は中日両国の庶民は皆、戦争の苦難に遭い、先生のお兄さまのように、日本の青年も戦争の犠牲となり、多くの日本の家庭も一家離散の憂き目にあったと考えるからです」と。

1990年7月、ゴルバチョフ氏(当時、ソ連大統領)と池田先生との初会見は、モスクワのクレムリンで。世界平和を求める心が通じ合い、大統領辞任後も家族ぐるみの交流を深める中、両者の語らいは10回にも及んだ。

対談集『二十世紀の精神の教訓』は、ロシア語、フランス語、中国語など多くの言語に翻訳されている

また、アジア以外の国々の識者との対談でも、池田先生は、第2次世界大戦や冷戦が引き起こした惨劇などに焦点を当てる対話を繰り返し行ってきた。

1931年の生まれであったミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領は、池田先生との対談集で、戦争で生き残った「戦争の子ども」であるという一点こそが、両者にとって共に、人生と行動の礎となってきたことを強調した。

そして、こう付け加えることを忘れなかった。

「苦しみは、人を高潔にもしますが、悪くもすることは、周知のとおりです。

ですから、喜びをもって人生を生きていくために、戦時下で、私たちが幼児期・少年期を過ごし、くぐり抜けてきたようなことを、何もわざわざ、経験する必要はありません。

スターリン時代とそれ以後のソビエト時代に、私たちが精神的に経験したことも同様です。

それは、本能的に自分の考え、本当の声を打ち消そうとする、精神を灰と化してしまう体制順応主義ともいえるものでした」

この対談集のタイトルは、両者の思いが凝縮する形で『二十世紀の精神の教訓』と名付けられた。

そこでゴルバチョフ氏が訴えていた、「平和とは一面、『忘れないこと』であり、『忘却との戦い』である」との言葉や、「二十一世紀の主役となる若き世代には、私たちがくぐり抜けてきたのと同じことを、決して経験させてはなりません」との切なる思い――。

それはまさに、池田先生が戸田先生から受け継いだ信念と、重なり合うものにほかならなかったのだ。


<語句解説>

佐渡流罪 1271年9月、鎌倉幕府の権力者らが、日蓮大聖人を斬首しようと策謀したが失敗し、10月に佐渡への流刑に処した。1274年2月に無罪が認められ、3月に大聖人は鎌倉に帰還された。

世界人権宣言 1948年12月、国連総会で採択された人権に関する世界宣言。法的拘束力はないが、すべての国が達成すべき共通の基準が示されている。



<引用文献>

顧明遠会長の言葉は、『平和の架け橋――人間教育を語る』(東洋哲学研究所)。ゴルバチョフ元ソ連大統領の言葉は、『二十世紀の精神の教訓』(『池田大作全集』第105巻所収)

戸田先生 「王法と仏法」(1950年3月)

一国の王法の理想は、庶民がその所をえて、一人ももるる所なく、その業を楽しむのが理想である。(中略)

太平洋戦争中の軍部の政治において見たような、戦争目的のためには、大半の民衆を犠牲にしても正しいという考え方は、理想的王法とは、決して言えないのである。

平和産業を全部犠牲にして、軍需産業を興隆させ、その結果、多くの民衆は職を失い、生活を楽しむことができないという状態をつくったということは、政治の劣悪を意味する以外、何ものでもない。

吾人が体験した、もっとも劣悪な政治は、太平洋戦争中の日本の政治である。

しかし、世界の政治史には、これに近い政治は多く存在するであろうし、今後においても、このわれわれの体験した政治に似た政治が現出するかもしれない。

かかる政治のとられる時代の民衆こそ、災難である。哀れなものである。一国の政治は権力であり、偉大な力であるから、これに抵抗することは容易のわざでないからである。

ただ悲しみと苦しみが一国に充満し、業をうしない、業に従うものも楽しむことができない。

平和と幸福と希望をうしなった民衆ほど、あわれな存在はないと思う。

国民に耐乏生活を求めるなどということは、ことばではりっぱであるが、これが国民生活に現れるときには、種種な悲劇を生み出す結果となる。

仏法は、だれ一人をも苦しめない、あらゆる民衆の苦しみをば救うというのが根本であり、今一つの根本は、あらゆる民衆に楽しみをあたえることであり、仏の慈悲というのは、これをいうのである。     

政治も、経済も、文化も、すべて人間が幸福になるための営みである。

とくに、政治は、民衆の一人一人の日常生活に、直接、ひびいてくるものであるがゆえに、政治家たるものは、よく大局観に立ち、私利私欲や、部分的な利益に迷わず、目先の利益に禍されてはならないはずである。

(『戸田城聖全集』第1巻)