第1回 牧口先生
「人生地理学」〈緒論〉㊤
24年7月1日
 
120年前の先師の叫びを源流に
創価教育が目指す「世界市民」の育成

21世紀に入ってから、まもなく4分の1が経とうとしている。

世界が多くの危機に直面する中、すべての人々の生存の権利と尊厳が守られる「生命の世紀」を、どのように築いていけばよいのか。

新連載「三代会長の精神に学ぶ

――歴史を創るは この船たしか」では、初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長・戸田城聖先生、第3代会長・池田大作先生の思想と生涯を通し、時代変革のうねりを民衆の手で巻き起こしていくための要点について学んでいきたい。

牧口先生 「人生地理学」〈緒論〉(1903年10月)

私は(新潟県の)荒浜という寒村の出身で、さまざまな場所を転々としながら、人生の半分を衣食を得るために費やし、いまだ世の役に立つようなことはほとんどできていない。

しかし、そんな取るに足らない私の身においても、そばにあるものに対してひとたび思いを注いでみる時、(生活を支える)それらのものが(思いも寄らない広大な範囲からの)計り知れない影響を受けて存在していることに、非常な驚きを感じずにはいられない。

私が着ている毛織物の衣服は、平凡なものだが、南米やオーストラリアで生産され、イギリス人の労働力とそこで採掘された鉄や石炭を利用して加工されたものだ。

また、私の靴も特別なものではないが、底革はアメリカ合衆国の原産、その他の革は英領インドから来たものである。 

これらの原料が(世界各地の人々によって)牧畜されたり、採掘されたり、蒐集され、製造され、運搬されて、売買されることを通じて、ようやく私の身辺に届くまでの労力と時間について想像する時、またこうした有形の物の存在を通じて(世界とのつながりの深さに)気づかされる中で、形には表れない影響についても思いを馳せる時

――すなわち、普段は何も気にせずに過ごしてきた単調なこれまでの人生が、こうした広大な(地理的)空間や時間による絶大な影響が重なり合う中で成り立ってきたことについて、思いをいたす時に驚倒しないではおられない。

私に子どもが生まれて、母乳を得られなかった時、粗悪な脱脂粉乳に悩まされたものだったが、医師の薦めでスイス産の乳製品にたどりつくことができ、ことなきを得た。

スイスのジュラ山麓で働く牧童に感謝する思いだった。

また、乳児が着ている綿着を見ると、インドで綿花栽培のために炎天下で汗を流して働く人の姿が思い浮かぶ。

平凡な一人の乳児であっても、その命は生まれた時から世界につながっていたのである。

本年2月に行われた創価インターナショナルスクール・マレーシア(SISM)の開校式。

1期生の138人が集い、フィナーレで愛唱歌「共生の輝き」を合唱した(ヌグリスンビラン州スレンバンの同校の多目的ホールで)
本年2月、創価教育の理念を受け継ぐ新しい学校の開校式が、マレーシアで行われた。

首都クアラルンプールの近郊にあるヌグリスンビラン州に開校した学校の名は、創価インターナショナルスクール・マレーシア(SISM)。

中等教育と大学予備教育を行う学校で、日本の中高一貫校に当たる。

式典の最後で愛唱歌「共生の輝き」を合唱した1期生の138人の顔には、次代を担う決意があふれていた。

歴史を振り返れば、池田先生が、牧口先生と戸田先生の夢を実現するための第一歩として、東京・小平市に創価学園(創価中学校・高等学校)を創立したのは1967年11月。

以来、創価教育の学舎は、日本のみならず、このマレーシアを含めて、香港、シンガポール、韓国、アメリカ、ブラジルと、地球上に大きく広がっている。

そのいずれの場所でも重視されてきたのが、「世界市民」の育成である。

SISMの開校準備が進んでいた2021年に創立者の池田先生が贈った「建学の精神」にも、「世界市民」の文字が重ねて掲げられていた。

 一、徹して学ぶ「智慧の世界市民」たれ

 一、多様性を成長の糧としゆく「勇気の世界市民」たれ

 一、世界に友情を広げる「慈悲の世界市民」たれ

 こうした教育の源流をなす思想が打ち出されていたのが、120年以上も前(1903年)に発刊された、牧口先生の『人生地理学』にほかならない。

時間をつくり出しながら書き上げた草稿を重ねると“18センチほどの厚さ”に達したと、牧口先生は述懐されている

牧口先生が『人生地理学』を世に問うたのは、32歳の時。

その2年前に北海道から東京に移り住み、妻と3人の幼子に加えて、目を悪くしていた養母との生活を支え、経済的な困窮が続く中で刻苦勉励して書き上げた、実に1000ページにも及ぶ大著であった。

当時、世界では、帝国主義や植民地主義の嵐が吹き荒れていた。

その様相は、「国と国、人種と人種が、虎視眈々として、わずかな隙が生じた時に、競って他人の国を奪おうとし、あえて横暴で残虐な行為をすることもはばからない」(趣意)と、牧口先生が指摘していた姿そのものだった。

日本においても、日清戦争の勝利を経て、「富国強兵」の国策をさらに全力を挙げて推し進めようとしていた時代だったのである。

牧口先生は、そのような状況の下で、弱い立場に置かれた国や人々が、容赦なく苦しめられていることに胸を痛めていた。

『人生地理学』の主眼は、こうした弱肉強食的な競争からの脱却を促すことにあったのだ。

今回、連載の開始に当たって最初に取り上げたのは、牧口先生がその時代の転換を図るための意識変革の出発点として、“他国の人々に対する眼差し”や“世界との向き合い方”について、自らの経験を通して論じている箇所である。

<語句解説>

ジュラ山麓 フランスとスイスにまたがり、ライン川とローヌ川の間を南西から北東に走る山脈のふもと。

古くから、牧畜やチーズ製造が盛んに行われてきた。

帝国主義 政治・経済・軍事などの面で、他国の犠牲によって自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策。

19世紀後半から、その動きが本格的に強まった。

富国強兵 明治政府のスローガン。殖産興業による経済的な発展と、近代的な軍事力の創設と増強が目指された。