④ 1983年4月
新潟から山形への車中で
25年4月9日
 
幸福の到来は絶対なり

新潟の坂町駅のホームに駆け付けた友に、窓越しに、笑顔で応える池田先生ご夫妻(1983年4月17日)。温かな振る舞いと慈愛のまなざしは、友の心に深く残るものとなった

 今、この瞬間、縁する友へ、いかに希望を送ることができるか――。池田先生の励ましは、一瞬に全精魂を尽くす“戦い”である。その闘争を、先生は若き日から貫いてきた。
 1953年(昭和28年)1月、先生は男子部の第1部隊長に就任。4月からは文京支部長代理も兼任することになった。会社では営業部長の重責を担っていた。
 多忙を極めた先生は、カバンの中に、便箋と封筒、はがきを入れていた。移動の合間に、同志に励ましの手紙を書くためである。
 「“まさか”が実現」と世間を驚嘆させた56年(同31年)の「大阪の戦い」でも、東京・大阪間を移動する車中で、友に何度も便りをつづった。
 戸田先生に磨かれた「常在戦場」の一念は、いついかなる時も、どんな場所でも、広布にまい進する友を鼓舞することに注がれた。
 第3代会長に就任後、池田先生の励ましの戦いは、さらに勢いを増した。61年(同36年)10月、欧州初訪問の折、イギリスからスペインへ向かう飛行機の待ち時間に、見送りに来た友と御書を研さん。その後、絵はがきを取り出し、日本にいる友へ、便りを書き始めた。
 出発するまでのわずかな時間を使って、先生は空港の待合室で、イギリスの地で奮闘する友と魂の絆を結んだのである。
 83年(同58年)4月も、一瞬に全精魂を注ぐ励ましのドラマが生まれた。同月14日、先生は新潟池田文化会館を訪問。会館に到着するや、行事役員や駆け付けた友とカメラに納まり、握手を交わした。
 この日の夜、第1回新潟県総会が開催された。先生は、強き団結と祈りで堂々の前進を続ける友を称賛し、強調した。
 「それぞれの地域社会にあって、明確なる一つ一つの勝利の実証を示していくところに『立正安国』の夜明けが到来する」
 「崩れることなき幸福の到来は絶対なりと確信されたい」
 翌15日から3日間連続で、勤行会が行われた。その全てに出席した先生は、友に万感の励ましを送った。新潟滞在の4日間で、友へ贈るためにしたためた書は50を超える。
 17日、山形へ向かうため、新潟駅に到着した先生は、午後3時39分発の急行「べにばな4号」に乗車した。
 出発から約30分後、列車は新発田駅へ。ホームには求道の友が集まっていた。先生は、一人一人に優しいまなざしを向け、手を振る。友も手を振り返す。
 わずかな停車時間。しかも、窓越しの出会い。だが、言葉はなくとも、先生と友の心が深く、強く結ばれた瞬間だった。
 坂町駅、越後下関駅でも、先生はホームに駆け付けた友を胸中に刻むように見つめ、手を振った。新潟の全同志の幸福と勝利を願い、励ましを送り続けた。
 午後7時半ごろ、山形駅に到着した。先生は同行の友に力強く、“なすべきことは、全部しよう”と。桜花が祝福した新潟の広布旅から休む間もなく、山形での師弟の魂をとどめる激励行が、幕を開けた。