第26回 和歌山・白浜
26年3月20日
 

桜が咲き、穏やかな春光に包まれる四国研修道場。池田先生は友の幸福を祈りつつ、この麗しき風景をカメラに収めた(1985年4月)

「共戦」の心が広宣の大河に
 瀬戸内海の多島美を望み、源平の古戦場・屋島もゆかしい香川・高松市。南に讃岐山脈が連なるこの風光明媚な港湾都市は、芸術・文化の薫る街として発展を遂げてきた。
 池田先生が高松を初めて訪問したのは、1959年(昭和34年)2月3日。市内の公会堂で行われた幹部会などに出席し、“生涯、御本尊から離れてはいけないよ”と励ましを送った。
 62年(同37年)6月2日には、屋島陸上競技場(当時)に3万人の友が集結し、四国本部幹部会が開催された。同年2月、四国本部は本部として、香川支部は支部として、共に日本一の拡大を達成。3月には四国初の会館が高松市に完成し、先生が出席して落成式が行われるなど、天を突く勢いで迎えたのが、この四国本部幹部会だった。
 先生は席上、学会の目的は御本尊を根本とした全民衆の救済にあると強調。その実現のためには、皆が周囲から賛嘆される幸福生活の実証を示していくことであると訴えた。
 高校3年生だった北原則彦さん(高松紅圏・圏主事)は、この会合に参加し、初めて先生との出会いを刻んだ。5カ月前に入会したばかりだった。
 入会して6日後のこと。地元の四国新聞に「池田会長は無罪」との見出しが躍った。公職選挙法違反の容疑で池田先生が不当逮捕された大阪事件。その裁判で、無罪の判決を勝ち取ったことを報じる記事だった。信心の右も左も分からなかったが、その記事は、北原さんの胸に鮮烈に残った。
 当時、北原さんは重度の蓄膿症に苦しみ、体調不良に耐える日々だった。神社の総代を務める父は、入会に激怒。勘当された。
 それでも、北原さんは揺るがなかった。先生の指導通りに仏法を実践することが、人生を開くと信じ、先輩と学会活動に励んだ。入会から7年後、持病は完治した。
 信心に反対だった父は晩年、北原さんと妻・保子さん(同・支部副女性部長)の真心に心を開き、信心に理解を示すように。83歳で生涯を閉じる前日、北原さんが建てた新居で、家族と共に題目を唱えた。父の安らかな最期に、北原さんは宿命転換の実感を深くかみしめた。
 60歳で定年退職した後、師への誓いを果たす時は今と決め、友好拡大に挑戦。唱題と御書拝読を日課とし、63歳から10年間、毎年1人の弘教を夫婦で実らせた。
 師弟の道をまっすぐに歩んだ功徳は、一家和楽の姿として花開いた。娘、孫たち全員が創価後継の道を歩む姿は、北原さんにとって最高の喜びである。 
 「素晴らしい家族、同志に恵まれ、本当に幸せです。考えられないほどの功徳をいただきました」。師に誓った不退転の心は、82歳の今、いよいよ黄金の輝きを放っている。

流星に 顕本見えたり
 1977年(昭和52年)、現在の高松市庵治町に四国研修道場が誕生した。以来、研修道場を舞台に、師弟のドラマが幾重にもつづられていった。
 翌78年(同53年)1月19日、池田先生が初めて訪問。到着した時、すでに日は沈んでいた。先生が建物に入る前、夜空に流れ星が輝いた。
 先生は、「竜の口の法難」で発迹顕本した日蓮大聖人の戦いに思いをはせつつ、創価学会が発迹顕本の戦いを開始する決意を込めて詠んだ。
 「流星に 顕本見えたり 庵治研修」
 この日の夜、先生は地元幹部の代表との懇談で、“会合での指導と個人指導の比率は2対8を目標に”と訴えた。
 翌20日、香川県婦人部総会に臨む。親子の断絶や家庭不和などの問題の解決には、信心を根本とした人間革命が大切であることを訴え、長電話を控えることや、夜は十分な休息を取ることなど、具体的なアドバイスを送った。この日は現在、「香川女性部の日」となっている。
 研修道場に先生の第一歩がしるされた78年は、宗門の悪侶らによる学会批判が、全国で繰り返されていた渦中だった。翌79年(同54年)4月、先生は第3代会長を辞任。だが、四国の友の師を求める心は熱く燃えた。
 80年(同55年)1月14日、四国の友は、高松港から出発した客船「さんふらわあ7」号に乗り、池田先生の待つ神奈川へ。同年5月にも2度、四国の友は神奈川の地で先生との不滅の原点を築いた。
 友の心に応えて、81年(同56年)11月10日、先生は四国研修道場を訪問。同日に開かれた「香川の日」記念幹部会で師子吼した。
 「もう一度、私が指揮を執らせていただきます!」
 「私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」
 四国の新たな前進が開始された。高松圏(当時)婦人部長だった竹村夫佐枝さん(四国・方面女性部総主事)も、同志と共に励ましの輪を広げた。
 4年後の85年(同60年)4月16日、先生は研修道場へ。香川県婦人部長として師を迎えた竹村さんは、この日の感動を振り返る。
 「香川の同志は、桜のきれいな時に先生に来ていただきたいと強く祈ってきました。その思いに応えるように、先生は研修道場を訪問されました。皆、喜びでいっぱいでした」
 研修道場に爛漫と咲く桜を見て、先生は「こんなすごい桜を見るのは久しぶりだね」と。夜には、ライトアップされた桜の下で懇談会が行われた。幻想的な光景の中での師との語らいは、その場にいた竹村さんの生涯の宝となった。
 56年(同31年)に入会した竹村さんは、もともと人前で話すことが苦手だった。ある時、先生に近況を報告する機会に恵まれた。先生は「赤々と燃え続ける人に」との指針を贈った。
 75年(同50年)、香川の地へ転居。広布の活動に奔走した。四国婦人部長などを歴任し、先生が「志国」「詩国」「師国」とたたえた天地を、幸の連帯で飾ろうと、四国中を駆けた。
 75歳からはシニア向けイベントに積極的に参加し、地域との交流を積み重ねた。その中で信頼を広げ、昨年11月に開催された支部総会には18人の友人が集った。
 師から贈られた「赤々と燃え続ける人に」の指針を胸に、竹村さんは86歳の今も、地域に幸の明かりをともしている。
 ――池田先生はかつて、香川の友に寄せた随筆に記した。
 「『共戦』とは、師弟一体の広宣流布への真剣な祈りであり、行動である。最も大切な、戦いの呼吸も、『師弟不二』も、ここから深まる。
 『共戦』とは、自分の一念を広布の主戦場に定めることだ。そこに自己の殻を破り、大我の人生を開く道もある。
 そして『共戦』とは、広布の全責任を勇んで担わんとする精神だ。誰かがやるだろう、自分は関係ないという官僚主義と、徹して戦うことだ。
 『共戦』の心があれば、広宣の大河は無限に広がる」
 師と刻んだ共戦の歴史。その誇りに燃える香川の友は、広布の大絵巻をつづり続ける。