第26回 和歌山・白浜
26年3月20日
 

1988年3月24日、和歌山県記念総会に池田先生が出席。「尊く豊かな生命境涯を創るものこそ、仏法にほかならない」と語った(白浜町の関西研修道場で)

福運は三世に薫りを放つ
 和歌山県の南部に位置し、碧く澄み渡る太平洋に面する白浜町。約8割を森林が占める自然豊かな地である。荒波に削られた三段壁の断崖や、広大な岩盤が広がる千畳敷など、海岸線には大自然が織りなす壮麗な景観が連なる。
 年間の平均気温は16度で、穏やかな気候にも恵まれる。空港も整備され、都市圏へのアクセスの良さを併せ持つ。明るく開放的な風土が、訪れる人の心を癒やす。
 池田先生が和歌山の地を初めて訪れたのは、70年前の1956年(昭和31年)10月20日。「以来、温暖で、光あり、緑ありの美しき和歌山が心に焼きついている」と後に語っている。
 57年(同32年)11月2日、先生は田辺市内で行われた南部、白浜、新宮の3地区合同の指導会に出席。会場には1000人を超す同志が集った。
 先生は同志のさまざまな質問に答え、時にはユーモアを交えながら、仏法の哲理を確信を込めて訴えた。また、和歌山への万感の思いを述べ、「私は皆さまと一緒に苦楽を共にしていきたい」と後に語った。
 翌3日、先生は大阪・堺へ向かう水上飛行機に乗るため、白浜桟橋へ向かった。そこには多くの友が集まっていた。中に、胸膜を患っていた一人の青年がいた。先生は名刺の裏に座右の銘を記して贈った。
 「波浪は障害に遇うごとに 頑固の度を増す 若人は斯くあれ」
 この言葉を白浜の同志は、先生が自分たちに示した指針として胸に刻み、前進の歩みを重ねてきた。高垣啓さん(南紀大光県、副本部長)もその一人だ。
 58年(同33年)に父が再婚した継母と一緒に入会。高垣さんも続いた。その後、一家は日高川町から白浜へ転居した。
 父は養鶏業と花の栽培業を始めたが生活は厳しく、経済苦が続いた。両親は宿命転換を成し遂げようと、学会活動に挑戦。高垣さんも経済革命を祈り続けた。
 一家は弛むことなく信心の歩みを重ねた。やがて、事業が軌道に乗り始めた。「3年、4年と信心に励むうちに、思ってもみなかった境涯になるよ」との紹介者の言葉を、父は実感した。その父の姿を見て、高垣さんも信心の力を確信することができた。
 両親の仕事を手伝っていた高垣さんは、27歳の時に独立。新築の建物やリフォーム工事の完了後に建物を引き渡す前の、清掃と仕上げ作業を行う建築美装業を営んだ。仕事は順調で、学会活動にも全力を尽くした。
 93年(平成5年)、両親から約100アールの土地を譲り受けた。高垣さんは紀州南高梅の栽培を始めた。
 畑は養鶏場の跡地。土壌を整えるのに苦労した。試行錯誤を重ね、年を経るごとに収穫量は増加していった。
 根気よく営農に向き合う姿勢に、周囲から信頼が寄せられた。地域の農協組合理事や梅部会長などを担ってきた。9年前、冠動脈閉塞を発症したが、無事に乗り越えた。
 妻の美保子さん(同、女性部副本部長)と信心の大道を進んできた。40年間、自宅を広布の会場として提供。同志からの信頼は厚い。79歳の今、孫やひ孫の成長を祈る日々だ。
 子どもの時には想像もできなかった幸福な人生を歩むことができた、と実感する高垣さん。その心には、師匠と同志への感謝が輝いている。

水平線の彼方に広宣流布の栄光
 76年(昭和51年)、白浜に関西総合研修所(現・関西研修道場)が開所。9月28日、池田先生が出席し、記念の勤行会が開かれた。
 終了後、先生は参加者の中に一人の老婦人の姿を見つけ、「あっ、おばあちゃん! お久しぶりですね」と歩み寄った。57年11月の田辺訪問の時、班担当員を務めていた女性だった。
 19年ぶりの再会。先生は、たった一度の出会いを覚えていた。「一人」を大切にする師の姿に、場内は感動で包まれた。
 翌29日の昼、同研修所で野外懇親会が行われた。先生はこの日を「白浜の日」にと提案。以来、友が前進を誓う節となった。
 夜には、記念勤行会に出席。その後、行事役員の青年らと入浴を共にした。一人一人の近況に耳を傾けながら、「青年時代の苦労は生涯の財産だ」と語った。先生は30日も研修所開所記念の勤行会に臨んだ。
 この激励行から12年後の88年(同63年)3月22日、先生は関西研修道場を訪問。24日、和歌山広布35周年の意義をとどめる県記念総会に出席し、語った。
 「常住の大法にのっとった福徳、喜びは、決して一時的なものではない。樹木が年々、着実に年輪を増していくように、その福運は生命に蓄積され、三世に薫りを放っていく」
 中嶋慶子さん(南紀大光県、女性部副本部長)は、総会での師との出会いが生涯の原点だ。
 小学6年の時、父が亡くなった。その後の4年間で祖母、母、祖父を失う。中学3年で孤独になった。「あの家はたたられている」など、心ない噂にさらされた。そんな状況を見るに見かねた、近所の学会員が中嶋さんを支えた。中嶋さんは17歳の時に入会する。親族は信心に猛反対。それでも、中嶋さんは学会から離れなかった。
 充実の女子部時代を送り、等さん(同、副県長)と結婚。等さんは76年9月29日、先生から風呂場で激励を受けた一人だ。
 夫婦に試練が襲ったのは、長男が中学1年の時。不登校になった。中嶋さんは長男と毎日、朝昼晩と唱題を実践。長男は信心の確信をつかみ、卒業後、職に就き、自立していった。
 4年前、等さんが心筋梗塞で手術を受けた。大事には至らなかったが、術後の検査で心臓に別の異常が見つかった。再び受けた手術も成功だった。
 中嶋さんは40年以上にわたって本紙の配達を続けた。長年、老人会会長を務める等さんを支え、自らも地域友好の輪を広げてきた。これまで20人の友に弘教を実らせている。
 かつて家族が亡くなり孤独だった人生は、自他共の幸福を花開かせる人生へと転換した。中嶋さんの歩みは、信心を貫く限り、“樹木が年々、着実に年輪を増していくように、その福運は生命に蓄積されていく”ことを証明している。
 先生は記した。
 「晴れ渡る朝、友と歩んだ南紀・白浜海岸――。幾度、私は、金波、銀波がきらめく水平線の彼方に、広宣流布の栄光を見つめたことだろう。和歌山は、私の胸に光り続ける、憧れの世界だ」
 師が友と広布のロマンを語り合った白浜。共戦の心熱く、友は人材と友情の金波・銀波を広げている。