第24回 広島・福山市
25年12月19日
 

1983年12月11日、池田先生が福山文化会館を初訪問し、備後広布30周年記念「広宣流布誓願勤行会」に出席した
 
広布の電源地の誉れ高く
 広島県の南東部に位置し、瀬戸内海沿岸の中核都市である福山市。穏やかな気候と、海・川・山に囲まれた豊かな自然に恵まれる。日本で最初に国立公園に指定された鞆の浦は、瀬戸内海を代表する景勝地の一つだ。
 戦後復興の歩みの中で、市民が南公園(現在のばら公園)に1000本のバラを植えた。今、市内には100万本が咲き誇る。訪れた人の心を潤す「ばらのまち」としても有名だ。
 第3代会長就任から4カ月がたった1960年(昭和35年)9月、池田先生はこの福山市で御書講義を行った。翌61年(同36年)4月には、福山支部の結成大会に出席している。大会には1万2000人の同志が駆け付けた。
 先生は「悪を滅するを『功』と云い、善を生ずるを『徳』と云うなり」(新1062・全762)との御文を拝し、人の悪を滅し、善を生じさせていく行為が折伏であると強調。「折伏を行ずること自体が、人に功徳の道を開くことであり、同時に、それによって、自分自身も功徳を受けていくことになります」と訴えた。
 近藤恵美子さん(福山牧口総県、総県女性部主事)は60年の御書講義、61年の支部結成大会に参加した。
 入会は59年(同34年)。初めて受けた本格的な御書講義が、先生の講義だった。理路整然と分かりやすく、確信あふれる講義に、近藤さんは心から感動した。「祈りとして叶わざるなし」を自身の信心の根幹に据えた。
 61年の支部結成大会には役員として参加した。「福山を福運の大山に」との心で、場外の友にも激励を惜しまない師の姿が、今も胸に鮮やかに残る。
 近藤さんは戦争で父を亡くした。母は体が弱く、十分に働くことができなかった。学ぶことが好きだった近藤さんには、大学進学の希望があった。しかし、家計を考えると、進学は断念せざるを得なかった。
 就職でも希望する会社からは採用されなかった。自分の力では変えられない運命を感じた。内向的な性格にも悩んでいた。そんな折、仏法の話を聞き、入会を決めた。
 学会活動に挑戦する中で、自分の心が躍動するのを実感。人の輪に自然と入っていけるようにもなった。女子部の責任者として福山市内を奔走した。
 70年(同45年)、言論・出版問題の渦中、先生が「生涯 誇り高き学会子として 福山の友をよろしく」と揮毫した書籍が届いた。師弟共戦の人生を歩み抜くことを誓った。
 同志と苦楽を分かち合い、師の偉大さを語る日々。その中で学業への志が燃え上がる。創価大学の通信教育部に入学。教育学部で学び、96年(平成8年)に卒業した。
 学んだ知識を社会貢献に生かしたいと、福山市の社会福祉協議会が運営する傾聴ボランティアの活動に応募する。介護施設などで利用者の話に耳を傾け、ありのままに受け止める活動を10年間続けた。訪問前には自宅で唱題を重ね、誠実に接してきた。その献身的な姿勢に、施設からは感謝状が贈られた。
 「生涯 誇り高き学会子」との情熱のまま、傘寿を超えた今も、夫の昇二さん(同、副本部長)と共に、広宣流布の大道を朗らかに歩む。師を持つ人生の素晴らしさを語ることが、近藤さん夫婦の何よりの喜びだ。

 
功徳に満ちた福々しき境涯
 72年(昭和47年)9月15日、池田先生は福山市を訪問し、約6000人の同志との記念撮影に臨んだ。
 この2カ月前、全国で集中豪雨が続き、広島県内では三次市をはじめ県北部で甚大な被害が出た。先生は友を励ますため、記念撮影を行ったのである。
 午後1時、撮影がスタート。先生は寸暇を惜しんで、励ましを送り続けた。撮影の合間も、外の芝生で少年部員と相撲をとり、「広島未来会」「中国鳳雛会・鳳雛グループ」の友らと歓談。運営役員にも声をかけた。
 この原点から11年後の83年(同58年)12月11日、先生は再び福山市を訪れる。午後4時ごろ、福山文化会館に着くや、役員のメンバーらと記念のカメラに納まった。全精魂を注ぐ励ましの戦いが、会館到着と同時に開始された。
 この日、備後広布30周年を記念する「広宣流布誓願勤行会」が盛大に開催された。参加者と勤行をした後、先生は語った。
 「西に宝山の峰々、東に芦田川の清流をのぞむ広布城・福山文化会館の姿といい、また『福山』という地名といい、福運ある皆さん方の姿といい、すばらしき広布の地である。どうか、その名のごとく、長寿であり、健康であり、功徳に満ちた福々しき境涯であってほしい」
 師の言葉に、賛同の拍手が広がった。会場には、72年の記念撮影を励みに、歯を食いしばって再起をかけて戦い、勝利の実証を示した同志も数多くいた。
 先生は、地域広布の一つの方程式に言及。いずこの地にあっても、周囲へ波動を広げゆく国土世間が存在することを指摘し、「広布の電源地・福山として、全日本、全世界に“福山の信心を見よ”“福山の広布の姿を見よ”といわれるような団結の前進を!」と望んだ。
 前原正義さん(福山牧口総県、副総県長)は、この日を生涯の原点として刻む。当時、男子部の副本部長、音楽隊方面書記長を兼任していた。
 前原さんの父は、刃物の研ぎ師だった。だが、生活に余裕はなく、日々の糧に事欠くこともあった。苦境を心配した地域の学会員から、信心の話を聞いた。一縷の望みを託して、58年(同33年)に一家で信心を始めた。
 家計を支えるため、19歳の時、電気ホイスト(巻き上げ機)メーカーに入社。仕事に全力で取り組み、学会活動にも励んだ。職場で担当したのは、新たな商品開発。入社10年目の時、冷凍運搬船用のクレーン開発に挑んだ。実際に冷凍船に乗り、過酷な北洋でデータ収集を。そのデータをもとに改良を加えた製品は、他社の追随を許さなかった。84年(同59年)、日本電機工業会から「技術功労賞」を受賞した。
 95年(平成7年)には、前原さんがデザインしたマリーナクレーン(海から陸へ小型船を上下架するクレーン)が国の「グッドデザイン賞」に選定された。デザイン、色合いなど、環境に調和したクレーンは、国内最多の納入実績を残した。
 2013年(同25年)、会社の常務取締役に就任。23年(令和5年)に退職後は、事業を新たに立ち上げ、現在、代表取締役として活躍している。
 信心根本に社会で実証を示してきた前原さんの生き方に感銘を受けた友人たちが、18年(平成30年)、19年(同31年)と2年連続で入会。昨年、50年もの間、対話を続けてきた友人が信心を始めた。
 妻の正子さん(同、圏副女性部長)は15年(同27年)に肝臓がんのステージ3の診断を受け手術。夫婦で祈りを重ね、学会活動に励めるまでに回復した。
 これまで、26人の友を入会に導いた前原さん夫婦。子ども、孫もそれぞれの使命の舞台で奮闘する。前原さんは語る。
 「幼少期には考えられなかった人生を歩むことができています。池田先生、同志の皆さまに感謝しかありません。師恩に報いる道を走り続けていきます」
 ――1961年の福山支部結成大会で、先生は訴えた。
 「皆さんが仏になることは当然であります。幸せになることは絶対であります。何でもいいから、学会員として3年、7
年、10年、20年と信心していってごらんなさい。振り返ってみれば『こんなにも、幸せになったか』と、自分ながら不思議になる境涯を会得できます!」
 師の慈愛あふれる激励から、明年で65星霜。団結固き福山の同志は誓う。
 わが人生に福運の山を!
 友の人生に福運の大山を!